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8月27日(水)

聖母(ホストマザー)
『聖母(ホストマザー)』
仙川環
徳間書店
1,680円(税込)
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 新刊を探しに新宿へ。ジュンク堂で数冊買ってから紀伊國屋書店本店へ。すると新刊コーナーに、仙川環『聖母』(徳間書店)という本が並んでいる。先日、双葉社からも新刊が出たばかりだが、また新刊だ。このところ精力的な執筆ぶりである。

 実はこの作家、学生時代に本の雑誌でアルバイトしていた。それを知ったのは、某新聞社の記者と飲んでいたときで、2年ほど前になる。
「うちにいた記者が、もう辞めましたけど、作家になっているんです。学生時代はおたくにいたらしいですね」とその記者が言ったのである。名前を聞いても私にはわからない。その段階でもう3冊は本を出していたのだが、読んだことがなかった。実はまだ読んでないんだけど。

 仙川環がアルバイトしていたのは、本の雑誌社が新宿5丁目のビルに入っていたころのことで、当時は編集部と、アルバイト諸君が毎日つめていた総務営業が別々のフロアだったから、社員のことは覚えていてもアルバイト諸君のことまでは覚えていないのだった。もっとも編集部にいた吉田伸子に尋ねると、彼女はしっかりと学生時代の仙川環を覚えていたから、私がぼんやりしていただけなのかも。関西の理系の大学院に進んだことも吉田伸子は覚えていた。仙川環はその後、新聞社に入社し、『感染』で小学館文庫小説賞を受賞して作家になったわけだが、後日その話を池上冬樹にしたら、小学館のパーティで仙川環と会った彼が飲み会に誘って、先月池林房に現れた。

 顔を見ても思い出さなかったけど(もともと私、数回会っただけでは顔を覚えられないのである)、来る人ごとに「彼女はね、学生時代にうちにいたんだよ」と自慢げに話すと、「覚えていなかったのに」と言われてしまったが、なかなか酒も強く、話も面白く、気持ちのいい酒宴だった。

 紀伊國屋の新刊コーナーで『聖母』を見た瞬間に、その飲み会のことを思い出したが、『聖母』の帯に顔写真が付いているのが目にとまったので、本を手に取ってみた。お前、これはやりすぎだろ。

 よくありますね。いちばんよく撮れた写真を使うってこと。いつだったか、某新聞の日曜版かなんかに書評家3〜4人がブックガイドを寄せたとき、大きな顔写真が一緒に載ったのだが、吉田伸子の写真だけが異常に綺麗で驚いたことがある。吉田伸子の顔が綺麗なのではなく、写真が綺麗なのだ。同じ紙面には私の顔写真も載ったのだが、そこいらにあったやつを適当に選んで送っただけだから、なんとなく全体がくすんでいる。それに比べると吉田伸子の顔写真は、いかにもプロが撮ったというオーラが漲っている。その紙面で彼女の顔がいちばん目立っているのである。

 あとで聞くと伊勢丹の写真館で撮った、ということだったので、よおしと私も早速行ってみたが、伊勢丹の写真館でもダメなものはダメで、それならと京王デパートの写真館までまわったことが今となっては懐かしい。

 ええと、何の話をしているのか。『聖母』の帯に顔写真が付いていたという話の続きである。誤解されないように書いておけば、仙川環は可愛い人である。形容に困ってそう言うのではなく、純粋に可愛い。しかし、『聖母』の帯に付いた顔写真は、美しいのだ。可愛いというレベルを超えている。ちょっとやりすぎだろと思ったのには、そういう理由がある。

 本を棚に戻してから、まてよと再度手に取って見た。やっぱりどうもヘンだ。もう一度、しみじみと見た。すると、その帯に某女優が推薦文を寄せていて、顔写真はその女優のものであることがようやく判明。最初にその顔写真を見たときは、これじゃ修正しすぎだろと思ったのだが、なんとなく彼女の面影があったので、疑わなかった。どうして疑わなかったのかなあ。第一、作者の顔が帯につくなんて、タレント本にはよくあるケースだが、小説本には少ないはずだ。

 遠目で新刊を見て、その帯に顔写真が付いているのを見て、それが細面の女性だったので、疑うことなく、彼女だと思ってしまった......ということだろう。記憶の中の彼女とは少し違っていたのだが、その段階では別人とは思わなかったのだから、先入観というのはおそろしい。いや、私がぼーっとしているだけかもしれないが。

8月19日(火)

『色川武大・阿佐田哲也全集』というのがあった。福武書店から1993年に全16巻で刊行されたものだ。後半の5巻が阿佐田哲也の巻で、その各巻の解説20枚を私が書いた。合計で100枚だ。そのうちの80枚は、のちに『余計者文学の系譜』(角川文庫)に収録したが、短編をまとめた巻(これは収録作品まで私に決めさせてくれたので、楽しい仕事だった)の解題20枚はそのときかぎりで、その後どこにも収録していない。パソコン導入前に書いた原稿も、すべてテキスト変換してハードディスクに入れたはずなのに、どういうわけかその原稿が私のパソコンにも入っていない。だから阿佐田哲也の短編群についてどういうふうに書いたのか、わからない。

 しようがねえなあと書棚を探したが、2時間格闘しても出てこない。出てきたのは、必要ないものばかりだ。たとえば、白井喬二『東遊記』。数回前の当欄に書いた島津書房版である。なんとなんと、買っていたのだった。そうなんですか、買っていたんですか。

 で、『色川武大・阿佐田哲也全集』は見つからなかったという話だが、それが今回の本題ではない。あるはずの本が見当たらないというのは珍しいことではない。よくあることだ。何気なく、ウィキペディアの阿佐田哲也の項を開いたのである。するとそこに、「1941年旧制第三東京市立中学に進学」とあった。えっと思ったのは、続けてそこに「現東京都立文京高等学校」とあったからだ。なんとなんと、私の母校である。

 阿佐田哲也が私の先輩だとは知らなかった。私が東京都立文京高等学校に入学したのは1962年で、阿佐田哲也の21年後だ。戦前と戦後では校舎も変わっていたかもしれないから、同じ学舎で学んだわけではないかもしれない。しかもウィキペディアには「ガリ版同人誌をひそかに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける」とあるから、阿佐田哲也にとって文京高校は一時期、ほんの少しだけ在籍したことのある学校にすぎない。いや、それだけの話なんだけど。

8月12日(火)

 週末に競馬仲間と函館に行ってきたが、驚いたのは飛行機に乗るときにチケットのないことだった。幹事から、「eチケットお客様控」というのが送られてきて(これはどうやら航空会社からメールで送られてきたものを幹事が印刷して送ってくれたもののようだ。ようするに、ぺらぺらの紙である)、そこに「2次元バーコード」というのがついていて、それを「保安検査場」と「搭乗口」でかざせばいいというのである。こんなんで本当に飛行機に乗ることが出来るのか。チケットがないと、なんとなく不安である。

 それだけでも、いったいどうなっているのかわからないのに、さらにその数日後、幹事からメールがきて、航空会社から携帯にメールがいくのでそこにアクセスして2次元バーコードを画面メモに保存しろと言うのだ。で、「保安検査場」と「搭乗口」でその画面メモに保存した2次元バーコードを呼び出して、かざせばそれで飛行機に乗ることが出来ると言う。

 最初はてっきり方法が変更になったものと思ったら、違うんですね。先に郵送した「eチケットお客様控」に付いている「2次元バーコード」をかざすか、携帯の画面メモに保存した2次元バーコードをかざすか、どちらでもいいという。面白いので携帯をかざせば乗れるというやつも準備してみましたと幹事は言う。ふーん。

 携帯の画面メモに保存する方法も知らないので(そんなもの、使ったことがありません)、次男に聞いてやってみた。で、飛行場でそれを呼び出して、「保安検査場」に携帯をかざすと、ゲート番号の書かれたメモが出てくるのだ。「搭乗口」にまた携帯をかざすと座席番号の書かれたメモが出てきて、本当に乗ることが出来るのでびっくり。

 いつからこういうシステムになったんでしょうか。ずっと前から一部ではこうなっているのに、それを知らずに旧来のシステムでオレは乗っていたのか。だって昨年、小倉に行ったときは羽田−福岡空港を往復したのに、私、普通のチケットで乗ったのである。帰りの日、福岡空港から羽田に帰るためには小倉から博多に行かなければいけないのに、東京行きののぞみに乗ってしまって大あわてしたときだ。あのときは私一人で小倉にいき、現地で友人と合流したのだが、切符の手配もすべて自分でしたので、たとえ「2次元バーコード」システムになっていても、何のことやらわからなかっただろう。

 今回の競馬旅の幹事はコンピュータソフト会社を経営する男なので、こういうことは私の1万倍くらい詳しい。そうか、彼に聞いてみればよかった。今でも旧来のチケットシステムは残っているのか。まさかすべてが「2次元バーコード」システムになったわけではなく、併用だとは思うけれど、いずれはそうなってしまうのだろうか。航空機だけでなく、新幹線もそういうシステムになってしまうんだろうか。いや、いちばん可能性が高いのは、電車地下鉄などいま「スイカ」をかざして乗っているものすべてが携帯をかざすだけで乗れるようになることだろう。もうそうなっているのかどうか、実はよく知らないんだけど。

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