WEB本の雑誌

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2月28日(木)

 営業から戻ると、浜本がじっと僕の机の上の書類を眺めていた。その書類は、とある書店さんと約束していたサッカーフェア用に選んだ本のリストで、僕が今までに読んだサッカー本のなかで、特に面白かったものをテーマ別に18点選んだものだった。独断と偏見にみちた推薦文をつけて…。

 カバンを置く音で、浜本は僕が戻ったことに気づき、書類から顔を上げた。そしていきなりその書類をヒラヒラさせながら「まったくなあ、杉江は自社本も売らないでこんなことをしているんだからなあ」と苦言めいたことをつぶやいた。

 その言葉を聞いて僕は思わずカッとなる。今まで考えていた、そして誰も教えてくれることなくやってきた僕が考えている「本の雑誌社らしい営業スタイル」を否定されてしまったと感じたからだ。なんだ!だったら無理矢理押し込む営業になれっていうのかと口を開けて反論しようとしたところ、浜本が言葉を付け足した。

「でもなあ、杉江はいい仕事をしているよ、なあ、松村、これ見てよ、こんな営業なかなかいないんだよ。杉江はほんといい仕事をしているよ。」

 天地逆転というか、今度はいきなり絶賛であり、賞賛である。僕が入社して約5年間、仕事のことで社内の人から誉められたことなんて一度もなかった。いや、本の雑誌社は、小さすぎる会社なので、改めて誰かが誰かを誉めるなんてことがほとんどない。それに昇進どころか、その役職自体もないのであるから、一番わかりやすい出世という概念すらないのである。

 僕が名刺に刷っている「課長」という役職も、元を正せば他社に打ち合わせにいって恥ずかしくないだろうと浜本が心配し、ただ刷っているだけなのだ。「課長」か「係長」のどちらにするかは、居酒屋で目黒とじゃんけんをして決めた。そんな会社で初めて誉められてしまったのである。

 人間は、誰だって少しは誉められたいんじゃないか。誉められるということは、認められるということだろう。誰かに認められたくて、やっぱり人間は生きている部分も多いんじゃないか。誉められて伸び、そして叱られて伸びるものなんじゃないか。僕はいつも叱られてばかりだけれど、やっぱり少しは誉められてみたかった。

 十号通りの商店街を歩きながら、僕は浜本が呟いた言葉を何度も反芻する。久しぶりにうれしくて涙が出そうになった。でも意外と社内で今頃浜本が「アイツは単純だよなあ…」なんて笑っている気もした。でも、それでもうれしかった。

2月27日(水)

 どうして単行本編集の金子はあんなに物知りなんだろうか。僕が時代・歴史小説にハマルれば、その内容をほとんどすでに知っているし、そのなかの歴史的な事件について背景を含め説明してくれる。今度はファンタジーを読んでいると、またその本もすでに読んでいて、そこから派生するその他面白本を紹介してくれる。SFにもミステリーにも、そして文学にも非常に精通しているのだ。本人にそのことを話すと「スギエッチが無知なだけ…」とあっさり否定されてしまう。

 いやいや、本の話ばかりでなく、金子は社会・経済問題もしっかり論じられる人間なのだ。数ヶ月前、スケジュールを記載している会社のホワイトボードの前に僕と浜本が座り、金子からアフガニスタンとタリバンについて詳細な講義を受けたことがあった。それはそれは非常にわかりやすい社内授業であった。

 もっと驚かされるのは音楽・芸能・映画などの文化方面のことで、30歳過ぎの男なんて普通邦楽のトップチャートに並ぶバンドの名前すら読めなくなるのが当然だと考えていた。ところが僕より3つも年上の金子が助っ人の学生達とすんなり会話している。それも僕のように「えっ、それ何?」なんて質問は一切介さず、それどころか学生よりも詳しかったりするから恐ろしい。

 今日も女子学生二人を前にして金子は「元ちとせ」について会話をしていた。「こぶし」や「民謡」なんて言葉が漏れ聞こえてくるので、僕は、てっきり「松鶴家千とせ」が改名をしてリバイバルで売れているのかと思って聞いていた。金子がちょうど持参していたCDを社内のラジカセにセットし、その歌が静かに流れ出したとき、余計な赤っ恥をかかずに済んだことに一安心。金子と女子学生はその後、映画やテレビやお笑い芸人の話で盛り上がっていた。いったいどうしてそんなに物知りなんだろうか。

 金子のような人間が営業に出たらとても書店さんで人気が出るんじゃないかと思う。どんな会話でもついていけるし、またアドバイスも出来るはず。もちろん編集能力も抜群なのだが、これは是非営業へと発行人浜本に推薦したいところ。しかし、そうなると僕は単行本の編集なんて出来ないし、経理や事務も出来ず、働く場所がなくなってしまうのだ。保身のためこの提言はしていない。

2月26日(火)

 夜、大好きな書店員Oさんと気の合う営業マン数人が集まり新宿池林房で酒を飲む。Oさんからはいつも時間がなくて聞くことの出来なかった売れ行き情報や棚の作り方などを伺い、他社営業マンから僕が訪問できていない地域の書店さんのアドバイスを頂く。こんなに楽しい時間はそうそうない。

 僕も質問してばかりいるのではなく、何かみんなに伝えられる有益な情報はないものかと思ってしばらく考えていた。しかしほとんど何も浮かばないまま時間が過ぎ去り、情けない限り。唯一質問されたことは、S出版社の営業ウーマンSさんに「前から聞こう聞こうと思っていたんですけど、杉江さんが使っている洗顔石鹸とシャンプーを教えて欲しいんです」ということだけ。とほほほ、全然出版と関係ないじゃないか。

 何だか全然気にしたことがなかったけれど、僕は、女性が手に入れたいと思うような肌と髪質をしているらしい。そういえば女装が似合いそうとよく言われるんだ…。

 こんなことは男にとって誉め言葉なのか、そうじゃないのかまったくわからない。とりあえず質問には答え(シャンプーは一番安いセール品で石鹸は母親の友達が販売している黒い石鹸と)、終電に駆け乗る。さすがに肌と髪質を誉められても、女性専用車両には乗れるわけではない。

2月25日(月)

 昨年、子供が産まれたとき、知人や友人から「子供って可愛いでしょう?」と何度も聞かれた。その度に僕は、「小鉄(愛猫の名前)と同じくらい可愛いね。」と答えていた。それは僕にとってとても素直な言葉のはずだったのに、多くの友人達から眉をひそめられ「そんな言い方は子供がかわいそうだよ」と忠告された。反論しようかと思ったけれど、つまらないことでケンカになっても仕方がないと僕は苦笑いを浮かべ続く言葉を飲み込んでいた。

 ペットを飼っている人ならもしかしたらこの気持ちをわかってくれるんじゃないだろうか? 犬や猫、あるいは鳥でも他の小動物でも長年連れ添うに従い、動物としてではなく、ひとつの人格というか、ひとりの家族として完全に認める瞬間がやってくると思う。動物が人になるのか、それとも人が動物になるのかわからないけれど、それは間違いなく家族としての関係だ。

 僕は小鉄に対して、ずっとずっと家族として接してきたつもりだし、「ニャー」という鳴き方ひとつ、あるいは何気ない表情で気持ちや要望を察することができたと思う。つらいことがあればノドを撫でながら話しかけ、楽しいことがあれば一緒にじゃれ合って来た。ペットだって可愛がるだけでなく、躾があるし、家族として考えられなければ、旅行にも行けず、餌を考え夜遅くまで遊ぶこともできない手間を続けられないだろう。

 小鉄は、僕が小学校5年の時にもらってきた何でもない雑猫である。不確かな記憶を呼び戻すと、多分母親が家計を支えるために働きだしたときに、何となく淋しくて、猫が欲しいと言ったような記憶がある。動物好きだった母親は、僕が面倒を見ることを約束に、ちょうど近所の材木屋で生まれたばかりの子猫をもらう段取りをしてくれた。

 ある日、学校から帰ってきて「今日子猫をもらいに行こう」と母親に言われたときの喜びを僕は今でも忘れていない。材木屋のおばさんが2匹の虎と縞の子猫を前にして「虎の方が可愛いいからこっちにしなよ」と言った言葉に対し、僕は『じゃりん子チエ』の小鉄そのままの縞だった子猫を指さし「絶対こっちが良い」と母親の耳元で話したのも忘れていない。そして、胸に抱いて帰ってきたものの、怯えと不安で思いきり爪を立てられたことも忘れていない。書き出したらキリがないほど、いろんなことが思い浮かび、僕が11歳から今に至るまでの約20年間、ほとんどの思い出にその猫、小鉄がいる。

 昨日、実家に帰ったら、母親から「小鉄がそろそろ危ない…」と告白された。ここ数ヶ月、足もとが弱々しくなり高いところへジャンプできなくなっていたのは気づいていたが、食事はしっかりとっていたので安心していた。しかし最近は、その食事をとれなくなっていて、2階に上がるのも苦しいとのことだ。病院に連れて行ったところ「20歳の猫なんて表彰ものです、延命治療なんてせず、あとはゆっくり枯れるように死んでいくのを待ちましょう。」と言われたらしい。確かに猫の20年といえば、もうすでに老人もいいところなのはわかっている。わかっているけれど、何とも言えない想いが交錯した。子供は抱き上げるたびに重くなっていくのに、小鉄は軽くなる一方だ…。

 今日、電車のなかでずっと小鉄のことを考えていた。間もなくやってくるであろう「その日」を前に、今、僕は心が乱れている。

2月22日(金)

 ここ2ヶ月、異様なほど真面目に仕事をしている。それもこれもJリーグがオフで、我が愛すべき浦和レッズの試合がないからだ。今年はこのオフにプラスして、W杯期間中Jリーグがお休みとなる。正直言って、今、僕はW杯(日本代表)よりもJリーグ(浦和レッズ)に興味があるため、このお休み期間がなんとも歯がゆい。どうにかコネにコネを利用してW杯のチケットは手に入れられそうだけれど、まあ、それはお祭りであって、日常ではない。出来ることならW杯期間中もJリーグを開催して欲しいものだ。

 とにかく、現在僕はとても品行方正、真面目に仕事をしていて、今まで訪問できていなかった書店さんに顔を出しつつ、新たに雑誌や単行本を置いていただける書店を増やすべく地道にアプローチしていたりする。

 本日は、今までほとんど顔を出せずにいた八王子に足を踏み入れ、何軒かの書店さんにご挨拶。初訪問というのは何年経っても緊張するもので、挨拶の声が思わず小さくなってしまうのが情けない。そんななか駅ビルS書店さんを初訪問。ここは、以前電話で何点か注文を頂いたことがあり、その電話を受けた事務の浜田から絶対訪問するようにと忠告を受けていたのだ。

 早速、担当のIさんと名刺交換すると、いきなり「おお、杉江さんがやってきてくれた!」と驚かれてしまう。「えっ?」とビックリして問いかけると、なんとIさん、熱心な椎名読者であり、また『本の雑誌』もしっかり読んでくれているとのことで、有り難い限り。雑誌棚を確認すると『本の雑誌』がしっかり面陳されているし、単行本の棚にも何点か並べられている。詳しくお店の話を伺うと、わりと年齢層の高い読者が多いようで、直木賞の2点も山本一力著『あかね空』がダントツだという。初訪問書店さんでこういう話が聞けるのが、僕として何とも幸せな時間である。「これからはせめて2ヶ月に1度くらい訪問できるよう頑張りますのでよろしくお願いします」と挨拶をし、お店を後にする。

 『本の雑誌』というのは、知っている人はすごく知っていて、知らない人はまったく知らないというかなり極端な雑誌だと思う。それは会社の知名度としても同じことで、書店員さんにこちらの名刺を差し出しても、とても胡散臭い物を見るような眼をされることもある。しかし、まあ、それはそれで仕方ないと僕は思っている。少しずつ少しずつ知ってもらえばいいし、知った上で売ってもらいたいという気持ちもある。

 初訪問の書店さんを10件廻って、例えそのなかで好意的に話を聞いてくれる書店さんが1件だけしかなかったとしても、その1件を大事に営業して行きたいと考えている。そして残りの9件のうち、徐々に徐々に好意を持ってもらえたとしたらそれはとても幸せなことだ。その日を夢見、今、妙に真面目に仕事をしている。

2月21日(木)

 ちょっといろいろと考えたくて、社内で一日を過ごした。いろいろというのは営業のやり方、訪問ルートの見直し、企画など。たまにはこのようにして立ち止まることも必要だ。今のやり方で良いのか? 他に良い方法はないのか? と自問自答の「ひとり営業会議」である。

 そうは言っても、突然妙案が浮かぶわけでもなく、一番大事なのは日々の積み重ねであるという至ってまともな事実に突き当たる。とりあえず、いくつか頭に叩き込んでおくべき数字をエクセルで作成した。

 こう見えても、ってどう見えているかわからないけれど、一応、僕も営業マンなのである。売上部数や在庫数など、しっかり数字を把握して、社員みんなに今日よりも明るい明日を描かなくてはならないのだ! 本当はこういうことを社長がするべきことなんだろうけれど、ここは本の雑誌社なのである。本の雑誌社にそんなまともなことを求めてはいけないということを僕はこの5年で学んだのである。そしていっぱい儲かったときには、もしかしたら浦和レッズ関連の本を作っても良いという夢のお達しが出るかもしれない。その日のために頑張るしかないのだ。

 ちなみに僕の夢はふたつ。本の雑誌社で浦和レッズの本を作ることと、浦和レッズのユニフォームに「本の雑誌」と入れることである。このふたつが出来たら僕は素直に成仏してあげます…と浜本には伝えてある。一向に成仏できそうな気配はないが…。

2月20日(水)

 忘れ物の王様になってしまった。携帯電話、名刺入れ、そしてベルト…。おかげで会社からの急な連絡は一切取れないし(なかったけれど)、初対面の書店員さんに定期入れから名刺を差し出さなければならないし、ズボンはズリズリずり落ちてしまうという最悪な一日。これは恥なので静かに黙っていようかと思っていたところ、事務の浜田にあっけなく指摘され、全ての失態を露呈されてしまう。

「あれ?杉江さん。背、縮みました? なんだか今日は、ズボン引きずってますよ!」 どうして浜田は大事な連絡をすっかり失念するくせに、こういうことは気づくのだろうか。そしてその後「梱包用のビニールひもがありますから、それでどうですか?」だと。僕は古新聞と一緒か!

 ズボンが落ちないよう気をつけながら中央線を営業。立川、国立、吉祥寺、西荻窪、荻窪と乗降を繰り返す。中央線は一駅ごとに町の色があって面白い。けれど、僕はなんとなくその主張に馴染めず、キョロキョロしてしまう。

 西荻窪のK書店Kさんはいつ訪問しても仕入に出かけていてなかなか会えない。深夜プラス1の浅沼さん同様、中小取次の集まっている神田村へ買い出しに行っているのだ。東京の書店さんはまだこのようにして自家仕入がいくらかできるから良いけれど地方の書店さんは本当に大変だろうと思う。

 荻窪駅を歩いているとどこかで見かけた人とすれ違う。お互い何となく顔を見つめたまますれ違ったが、あとあと思い出してみると会社の隣のファミリーマートで働いているパートのおばさんだった。

 B書店さんでも担当者に会えず、残念無念。しかし、目黒顧問に頼まれていた料理本を発見し、やっと手に入れることが出来た。この料理本、数日前に目黒から頼まれ、その時ちょうど訪問していた大型書店さんで探したが、見つけられなかった本なのだ。それが町の書店さんであっけなくシリーズごと手に入るあたりが、本屋さん廻りの面白さだろう。

 カラー本5冊はかなり重く、ちょうど夕暮れだったから、鞄を肩に食い込ませつつ、そのまま会社に戻った。

2月19日(火)

 可愛がってもらっている他社先輩営業マンと昼飯を食い、教えを乞う。ひとり営業マンだとどうしても世間(出版業界)のことから疎くなってしまうので、ときたまこのようにしていろんなことを教わるようにしているのだ。本日も有益な情報を手に入れ、有り難い限り。

 その後は、書店さんへ営業に向かうが、久々にカウンターパンチの対応を受けノックアウト寸前に。ここのところ少し馴れが出ていたからこれで良かったのかも…と、ビルを吹き抜ける冷たい風に打たれながら考えるがやっぱりツライ。所詮、出版営業なんて書店さんに取って仕事の邪魔でしかないということを思い知らされるのは、わかっているけれど、悲しいものだ。

 こんなことで落ち込むなんてまだまだ営業マンとして甘い証拠と考えつつ、今日は少し強い酒を飲もうと思う。きっと強く噛みしめ過ぎて切れてしまったくちびるに浸みるだろうけど…。

2月18日(月)

 なんと『笑う運転手』の2度目(計3刷目)の増刷が決定! 昨夏の出版以来、ジワジワジワジワと著者の怨念のように売れ続け、なんだかんだ言いつつ、秋の増刷分も売り切ってしまった。現在の在庫数は完全に「0」。これから読もうと思っていた読者の皆様に、現在大変ご迷惑をおかけしている次第です。どうもすみません。本日超特急で印刷会社に頼みましたので、3月4日(月)には出来上がる予定です。

 それにしてもウエちゃんパワーの恐ろしさ。この出版不況のなかで、そしてどんどん賞味期限(本が動く時間)が短くなっているなか、これだけ長く動き続ける本も珍しい。

 こうなると3刷目をするか、しないか、というのが出版社にとって非常に難しい問題なのだが、発行人浜本の「半年前に出した本を品切れ扱いにするなんて、オレは出版人としてそういうスタンスはとりたくない」との一言で決着。素晴らしい心意気に思わず尊敬してしまったが、いやはや3刷目がそのまま在庫になるなんて恐ろしいことのないよう、ウエちゃん一緒に頑張りましょう!

2月15日(金)

 渋谷の阪急ブックファーストへ行き、『ほんや横丁』で連載をお願いしている林さんに会う。開口一番衝撃の発言を伺うが、きっと本人が『カウンターの向こうから』で書かれるであろうからここでは重複をさける。

 渋谷は都内で一、二を争う書店激戦区で、来月末にはまた新しい書店さんがオープンすることになっている。これでまた一段と競争に拍車がかかる、が値引きの出来ないこの業界では価格競争にはならず、品揃えや接客で勝負するしかないということ。新規店がどんなお店になるのか? そして既存店がどのように動いていくのか楽しみだけれど、その裏でとても恐ろしい現実も出て来るのではないかと不安になる。

 今年は、渋谷だけでなく、その他多くの地域でも新規店の計画がされている。新しい本屋さんが出来るのこと自体は良いことなのかもしれないけれど、その多くが大書店さんの支店で、その陰で町の書店さんは静かに消え去ろうとしている。

 もちろん資本主義なら当たり前のこと…なのかもしれない。けれど小さな書店ではいくら催促しても売れ筋本が手に入らない可能性は高い。その代わりに一時期「個性的な棚を!」と叫ばれていた時代があったけれど、実はそんなものは余程のことがない限りお店を支える売り上げにならないことがわかり、またその個性的な棚を作るための本がどんどん絶版あるいは文庫化されていく現状がある。これでは競争のしようもないだろう。もう少しフェアな争いができる業界になれば良いなと思うけれど…。

 いつもこのようなことを考えていて思うのは、数年後には大都市以外本屋さんがなくなるのではないか?ということ。みなさんが自転車に乗って、あるいは帰宅の途中で立ち寄る本屋さんがいつまでもあるとは限らないのだ。本を買うためにわざわざ電車や車に乗らなければ行けない時代はもうすぐそこかもしれない。いったいどうなっていくのか? こちらも恐ろしく不安である。

2月14日(木)

 女性陣から厳しい視線を感じるなか、とうウェブの新年会へ。やっぱりバレンタインデーに飲み会を作ったことで相当恨まれてしまっていたようだ。それ以上に、調子にのってバカな話ばかりしていたところ、日記で読んでいる僕と、実物の僕があまり違い「ガタガタ音が鳴るように杉江さんのイメージが崩れました…」と運営会社H社のMさんにキッパリ言われてしまう。崩れる…ということは悪くなったということで、でも、そう言われてもどうすることも出来ず、終電の電車に揺られながらぼんやり考える。

 長年営業をやっていると「本当の自分」というのがわからなくなってしまう。一日の大半を書店さんとの会話で過ごしていて、その間は、そのときそのときバラバラの内容で会話を交わす。移動でひとりになれば、また違う面の自分が出てきて、何か考え事をしたりする。ネガティブなときもあれば、ポジティブなときもある。たまに古い友達とあえば、馬鹿話に花を咲かせる。

 本来僕は極端な人見知りで、見ず知らずの人と会話をするなんて恐ろしくて仕方なかった。でも、営業という仕事に就けば、それをこなしていくしかないわけで、初めの頃は、声をかけるのもドキドキして、棚前を行ったり来たりしていた。少しずつ、少しずつ、時間と場数をこなして慣れていき、そして今では人見知りだったかつての自分を呪っている。人はコミュニケーションをとらなければ、どんな人だかわからない。そんな当たり前のことに気づいたのはつい最近のことで、そして、誰も彼もが根本的にはかなり似ていて、自分に置き換えてみると学ぶべきことが実は無数にあったのだ。今まで僕はどれだけ損をしてきたのだろうか。

 昔からの仲間に会うと、みんなお前がどんな顔をして営業しているのか不思議だよ、と言う。気に入らない奴とは一切口をきかないし、機嫌が悪ければ一日中仏頂面、教室の隅で好き勝手していて、それがどうして営業マンになれたんだ?と。

 でも、僕は決して無理をして笑顔を作っているわけではないし、話を合わせているわけでもない。いや、営業マンになって初めの頃は無理して笑わなければと考えていたこともあるし、こんな話をしなければいけないんじゃないかとも考えていた。まるでドラマに出てくる、営業マンのようにだ。

 ところが現実に多くの営業マンを観察していると、そんな不自然な態度をとっている人なんかいなかった。いや、無理をすればするほど相手との距離は離れていくということに僕は気づいた。それ以来、何も装わず人に会うよう心がけることにした。

 そんな風に毎日を過ごしていると、たまに、いったい「本当の自分」というのはどれなんだろう?と不安になることがある。営業している顔、プライベートの顔、仲間と遊んでいる顔、サッカー場にいる顔、いやそのどれもが、最近変わりがなくなってきてしまっていて、逆に不安になるのだ。前は、書店さんで何か言われても「いいんだ、本当の自分は別に違うんだから」と開き直ることがあったけれど、今ではそれが出来ない。営業中も、自分なんだし、サッカー場で吠えているのも自分なんだ。「本当の自分」って何?

 酒臭い終電に揺られながら考えているとあることに気づいた。本当は「本当の自分」なんてどこにもないんじゃないかということ。いや、全てが自分なんじゃないかということに。そして例え、日記のイメージと本物のイメージが違ったとしても、それはどちらも僕ですとしか答えようがないということに。

2月13日(水)

 田園都市線に乗り換えようと渋谷駅で降りる。するとコンコースにいつも以上の人だかり。いったい何に群がっているんだと覗いてみると、ショーウィンドーにキレイに並べられたチョコの山。そうか、明日はバレンタインデーだったのか!とすっかり頭から抜け落ちてしまっていた年間行事を思い出す始末。

 10代の頃、2月14日がとても楽しかった。いきなり知らない人からチョコをもらったり、部活の帰りに同級生に待ち伏せされたり、後輩が家に届けにきたりして、あの頃、なぜか僕は異様にモテたのだ。きっとみんながまだ成長過程で僕のチビも目立たなかったからだし、おでこだってこんな谷村新司ばりに広くはなかった。くそー、男は3度モテる時期があるというけれど、僕は幼・小・中であっけなくその大切な時間を使い果たしてしまって、その後は階段どころか、エレベータで急下降したような人生だ。目黒考二ばりに過去を懐かしんで思わず渋谷名物モヤイ像の前で涙する。その時、ハッとあることを思いだす。ヤバイ…。

 実はそのバレンタインデー当日である明日に飲み会を企画してしまっていたのである。このホームページを製作しているメンバーで遅ればせながら新年会をやろうと。本の雑誌社、製作のB社、運営のH社、総勢10数名になる飲み会で、そこには女性も多い。これはもしかするととんでもない日を選んでしまったのではないか。ああ、きっとそれぞれ恋人同士の間でこんな会話が交われたんじゃないだろうか。

「バレンタインデーなんだけど、飲み会が入っちゃって、会えないかもしれない…。」
「なんだよ、それ。」
「仕事の飲み会だから、出席しないわけには行かないのよ。」
「あのさ~、普通、そういうのはバレンタインとかクリスマスとか外して企画するんじゃないの。」
「知らないわよ、取引先のH社のチビがその日を指定して選んだのよ。」
「嫌な奴だな~。」
「そうそう、まだ30歳のくせして、きっと義理チョコが欲しくてその日にしたんじゃないの。もちろん私は買って行かないけどね。ごめんね、トシ君。」
「ああ、仕事じゃしょうがないよ。けど、オレ、絶対そんな男にはなりたくないねぇ。」

 う~、最悪だ。僕が例えバレンタインを忘れていたと言っても絶対信じてもらえないだろうし、そもそも目黒の都合を聞いてこの日にしたのだ。でも、こういうことの無実を証明するのは難しい。ああ、そういえば、本の雑誌社女性陣、事務の浜田と編集の松村の都合を聞いたとき一瞬眉をひそめられたのだ。どうして忠告してくれなかったんだ。ああ、最悪だ。

2月12日(火)

 先週、飯田橋・深夜プラス1の浅沼さんを訪問したら、インチキな関西弁で話しかけられた。「どうしたんですか?」と聞くと、「この本を読んだら関西弁が抜けへんねん。」と。

 その本というのが、黒川博行著『疫病神』(新潮文庫)と『国境』(講談社)である。現在、深夜プラス1のイチ押し書籍で、ドーンと黒川博行全著作を平積みしているではないか。浅沼さんは本気で気に入ると一気に仕掛けるタイプで『極大射程』のS・ハンターも発売されて早々イチ押しにし、深夜プラス1名物のポップを立て、全点平積みにした。いや、いまだに平積みし続けている。僕にとっての読書の師匠浅沼さんがそこまで言うなら読まないわけにはいかないと、とりあえず『疫病神』を読み始めた。

 これが、これが面白くて止まらない。建設コンサルタントと現役ヤクザのコンビが、産廃事業を相手に一儲けを企むが、これがもう藪を踏んだら蛇、いや虎からライオンから象からとんでもない物が出まくり、怒濤の急展開。関西弁の会話は、中場さんの『岸和田少年愚連隊』並にテンポが良く、皮肉と笑いが渾然一体としていて最高だ。不眠不休という意味では、フロストなみに忙しいし、どんどん、どつぼにはまっていく様は、『邪魔』や『最悪』に通じるところがあるか。

 そのなかでも特にイチ押しなのだ、本の雑誌2月号で熊さんがベスト極道賞を与えたヤクザ・桑原の人物造形。僕と浅沼さんで早速「桑原ファン倶楽部」を創設しようと心に決める。

 『疫病神』を一気に読み終え、昨夜は明け方3時ま同シリーズの続編『国境』を読破。

 それにしても中場さんといい、この黒川さんといい、関西作家のバイタリティーは凄まじいとしか言いようがない。笑えて泣けて、それでいてしっかり骨太。本日は黒川さんの残りの著作を全部買い漁り家路につく。これでしばらくインチキな関西弁が抜けないだろう。これは営業中によほど気をつけないと困ったことになりそうだ。

2月8日(金)

 昨日に引き続き、遠出の営業。直行して柏のW書店さんへ。ここ数ヶ月すれ違いになっていた店長Oさんに会え、ひと安心。今日はツキがあるようだ…。その後はぐーっと移動して総武線へ。千葉からジワジワとのぼりつつ営業。

 安田ママさん@銀河通信のお店を訪問すると、いつも通り耳にボールペンを差した安田ママさんが棚差している。どうしてポケットに入れず、耳に差しているのか長年の謎で、実は今こそ本好きで通っているけれど、実はかつてはぶるいの競馬好きだったんじゃないかと密かに推測している。しかし、本人に問いただしたことはなかった。今日こそその謎を解明しようと意気込んで行ったのに、安田ママさんから先に「本の雑誌社の人は、本を自腹で買うんですか? 経費とか手当があるのかな?って思って」と逆に質問されてしまう。

 何を仰る安田ママ。本の雑誌社がそんなに気前の良い待遇の会社なわけがないじゃないですか! 昼はささ屋のさけ弁525円で節約して、『模倣犯』とか『ロンドン』(驚くべきことに本の雑誌社ではあの厚い高額本をふたりが読んだと言い張っている)なんかが出たときは、おにぎり2個210円で我慢しているんです。自腹も自腹、自分の腹を減らして本を買っているんです。もちろん目黒だって浜本だって、椎名だってみんなみんな自腹なんです。ああ、手当が欲しいです…。

 と最後は涙、涙の説明に。せめて社内で本の貸し借りができれば良いのに、これがみんな信じられないくらいバラバラの趣向なのだ。

 金子は小難しい外国文学で、松村は不思議な本で、浜田は恋愛ものと読プレのパンダ欲しさに新潮文庫。浜本は雑読だけれど、妙にビジネスマンの偉人伝が好きだったりして、編集補助の石山はサブカルに強い。そんで僕はノンフィクションが主。目黒に至っては読み終わった本がどこにあるのかわからない。

 互いに互いの本にはまったく興味がわかないというこの状況。どうにかならないもんか。

2月7日(木)

 どうもツキがない。昨日もそうだったけれど、今日も営業マンのバッティングがやたらに多い。いや、それだけならまだいつものことなんだけれど、ここ数日、僕の前に来ている営業マンはとにかく話が長いのだ。

 そろそろ終わるかな? なんて在庫チェックをしながら待っているが、一向に終わる気配がない。これは順序を変えた方が良いと判断し、同じ駅の違う書店さんを訪問するけれど、今度はこちらは担当者不在だったり。とほほほと、結局元いたお店に戻ると、まだ話が終わっていない。

 ああ、これは別に僕がその営業マンを責めているわけでなく、ただただツキがないと言いたいだけだ。僕が逆に、その営業マンと同じように長く話し込んでしまう場合もあるわけで、これはもう運としか言いようがない。こういうときは店内を徘徊し、いつもは見ない棚も観察し、『本の雑誌』で記事になりそうな本を捜す。

 そうやって時間を潰している内にあっという間に30分が過ぎ、さすがに話が終わったようなので、いそいそと書店員さんに近寄っていく。ところが、いきなり手前の棚陰から、他の営業マンが出て来るではないか! ああ、またイチからやり直しだ。

 僕の営業はとても効率が悪い気がする…。でもひとりしか営業がいないので、その月、その時に会えなければまた来月になってしまうのだ。仕方なく時計とその後のルートを気にしながら、じっと棚陰で待つ日々が続いている。

2月6日(水)

 営業中に発売になったことを知り、会社の帰りに駅前の紀伊國屋書店さんで購入したのが『牙 江夏豊とその時代』後藤正治著(講談社)1800円。何気なく読み始めたら止まらなくなってしまい、帰りの電車をわざと乗り越してしまった。うーん、素晴らしい。

 僕は今でこそサッカー、サッカーとほざいているが、その陰で長年野球も見続けている。好きなチームはヤクルトだけれど、一番好きな選手を挙げろといわれれば、なぜかこの本の主人公江夏豊を挙げる。あのどう猛な目つき、そして自信を持って投げた玉を打たれたときのガックリと惚けた表情のなかにあるちょっとした清々しさ、少年ながらとんでもない人だと憧れた。僕の記憶にあるのは、広島時代と西武時代か。それとアメリカに渡って大リーグに挑戦した晩年である。ちなみに兄貴は堀内恒夫が好きだった。いつもふたりでピッチングフォームを真似をしながらキャッチボールをしていたのはとても良き思い出だ。

 その江夏の最高の時代であったといわれる阪神在籍時代と1960年後半から1970年前半の社会風景を描いたノンフィクションがこの『牙 江夏豊とその時代』である。僕にとってはこの著者もお気に入りのノンフィクション作家でのひとりであるから、まさに黄金バッテリーの本といえよう。

 ノンフィクション作家としての後藤氏の素晴らしさは偏りのない眼で、そして取材対象者へ愛情溢れる接し方をすることだと思う。<悪る者>と<良い者>をやたらに対抗させ、読み物を作り上げてしまう傾向が強いサッカーライターもこの辺を見ならって欲しいと思うけれど、これはまた別の話。

 とにかく、江夏入団時にグランド整備のおっちゃんに怒鳴られた話や、村山実との長年のやりとり、そしてそのスター選手の陰に隠れつつも、どこか個性のある選手達、そのすべてに公平にスポットをあてつつ、野球職人・江夏の姿を浮かび上がらせるその技に思わず脱帽。思わず何度も涙を拭ってしまった。

2月5日(火)

 午前中、近場の都内を営業し、午後から遠いルートへ移動しようと考えていた。ところがのんきに昼飯を済ませ、駅で切符を購入しようとしたところ、なんと1000円しか財布に入ってないことに気づく。そういえばここ数週間、交通費や交際費の精算をまったくしていなかった。ああ…。もし何も考えずに営業先に向かって780円の切符を購入していたら、そこから帰れなくなってしまうところだった。アブナイ、アブナイ。急遽、1000円でも廻れるルートに変更。

 さて、昨日訪問した新橋のS書店。店長のNさんに挨拶をすると開口一番こんな話をされる。

「今ね、すごい想っていることがあるんだ。それは、もう一度、本屋で働きだしたときのあの気持ちを思い出したいってことなんだ。僕は、就職が決まって、働き出すまで少し時間があったんだけど、その間に書店業界について書かれた本を読みあさって、その後、何軒もの本屋さんを廻って独自に研究してみたりしたんだよね。そのときのその気持ちをもう一度思い出して、がむしゃらに本屋をやっていきたいんだ! 新しいことにもどんどん挑戦して活気のあるお店にしたい。」

 Nさんはすでに50歳を越えたベテラン店長さんである。その人からこんな言葉がでてくるなんて…と僕は思わず涙ぐんでしまった。そして、Nさんに負けないように…とも思った。

 僕は営業マンになって多くの人々と出会うことになった。それまで「大人ななんてバカばっかりだ」と青年期にありがちな思い込みを持っていて、どこか斜めに構えて大人と接していた。ところが、現実に仕事を介してあう大人達はそんなことがなく、僕と同じように、いやそれ以上にもがき苦しみ、そして楽しみ、誇りを持って、日々の生活を送っていた。それこそ、見ならうべきこと、教わるべきことが山のように転がっていた。営業マンになって一番良かったなと思うのは、このNさんのような真摯な言葉を聞けたときである。

 ちなみにこのNさんは、この日記の一番最初に書いた、あの閉店作業をしているところに僕がばったり訪問してしまったB書店のN店長さんと同一人物である。覚えている人がいてくれたら、とてもうれしい。そして、あの時から今までの顛末はいつかまた書きたいと思っている。

2月4日(月)

 土曜日、兄貴の引越を手伝いに行った。僕に感化され、いつの間にかレッズバカになっていた兄貴も結婚とともに浦和に越してきていたが、ちょっとした事情で東京に住むことになってしまった。兄貴はホームタウンから離れることを悲しみ、泣く泣く荷物を詰め込んでいた。

 その引越で久しぶりにサッカー場以外で家族4人が集まった。お袋は台所で皿を包み、オヤジは家具を分解していた。こんな風に家族がひとつのことをするのはいつ以来だろうか?

 僕はオヤジが分解した家具を、搬送後、すぐ組み立てられるように順序を書きながらひもでくくりつけていった。作業をしながらオヤジは仕事の話をしていた。「先週、取引先に会いに京都へ行った」「新製品の注文が千個くらい取れそうで、うまくいくと年内で5000個まで伸びるかもしれない」と。

 いつ頃からだろうか。オヤジは僕に会うと仕事の話をするようになった。うまくいっている話もあれば、取引先が倒産し、資金が焦げ付いた話もある。その時、その時、会社で起こっていることをかいつまんで僕に話していた。

 僕のオヤジはとても小さな町工場を経営している。僕が小学校5年のとき、唐突に今まで勤めていた会社を辞め、会社を設立したのだ。その日、オヤジは家族を居間に集め「お父さんは自分で会社をやることにした。ちょっと苦労をするかもしれないけれど一緒に頑張って欲しい」と頭を下げた。事の重大さがわかっていなかった幼き僕は、「おとーは社長になるということか?」と聞いた。「そうだ」と答えられ、この世で社長が一番エライと思っていた頃だったから思わず有頂天に喜んでしまった。しかし、少し険しい顔をしたお袋に「失敗したらこの家もなくなるんだからね」とたしなめられ、とても怖くなってしまった。

 オヤジはきっと取引先ごと引っこ抜いて独立しようとしたのだと思う。いや、多くの取引先に「杉江さんを応援するから!」と迷っている背中を押されたのだ。ところが、いざ独立すると、その多くの取引先が手のひらを返すように逃げていった。「空いている部屋を事務所用に貸してやる」とまで言って応援していた人も「そんな話をしたかね?」ととぼけた。結局、あてにしていた仕事場も取引もすべて消えていき、オヤジは途方に暮れた。しかし、これで本当に「ゼロからのスタート」になったと夜遅くお袋に話し込んでいるを聞いた覚えもある。

 そして、僕が予想もしなかった貧乏が我が家にやってきた。儲からなければ給料が出ないという自営業者なら当たり前のことを僕はそのとき初めて知った。それまで毎月オヤジの給料日には決まって食べに行っていた「焼き肉」が給料日ごとなくなり、サッカーのジャージやスパイクももちろん買えなくなった。衣・食・住のうち、<住>だけは山のように残っているローンをどうにか払い続け住む場所だけは困らなかったけれど、<衣>と<食>は完全に行き詰まった。

 我が家の米びつは何度も空っぽになり、その度に、終戦後でもないのに、お袋は近所を廻り米を貰い歩いた。僕が洋服を買えないということに癇癪を起こしたとき、近所のおばさんが買ってくれたこともあった。今でこそお袋は「本当の友達が誰か?」ということがそのときわかった、笑って話すが、その時味わった屈辱感をいまだ拭うことはできないでいる。冗談でなく、ステーキハウスのチラシを見ながら、ご飯だけを食べたこともあった。ただただ、そんなみすぼらしいだけの生活と、毎日得意先を走り回るオヤジが我が家の姿だった。その頃の合い言葉は「また焼き肉を食べられるようになろう」だった。

 その後、オヤジはコツコツ取引先を訪問し、少しづつ少しづつ仕事を増やしていった。独立して5年が過ぎた頃だろうか。また焼き肉を食べられるようになったのは…。お店の人は毎月25日に決まって通っていた僕ら家族が来なくなってしまったことをずっと心配していて、その間の事情を話すと一緒になって涙を流し喜んでくれた。その日の焼き肉の味を僕ら家族は一生忘れないだろう。

 そして世の中に、バブルが到来し、はじけ、今となった。オヤジは、会社設立当時に経営者にとって一番大事なことである「うまい話なんてこの世にひとつもない」という事実を身をもって体験していたから、バブルに踊らされることなく、今もどうにか会社を潰さずに持ちこたえさしている。還暦前の身体にムチを打ち取引先を廻っているという。

 きっと僕に仕事の話をするようになったのは、僕をいくらか社会人として認めてくれているからだろう。しかし、僕は、あの頃、こんな貧乏を体験させたクソ野郎だと思っていたオヤジに、未だ追いつけそうにない。悔しいけれど、まだまだ、だ。

2月1日(金)

 夜、いくつかの出版社の営業マンが集まり定例の飲み会へ。会社の規模、年齢にまったく関係なくざっくばらんに酒が飲める、すこぶる楽しい飲み会だ。そもそもこの飲み会を主催したのは書店員のNさんで、そのNさんが仕事の上で尊敬できる営業マンを集めた(僕はおまけ)という会だった。しかし残念ながらNさん自身がこの業界を離れていってしまっため、今は営業マンだけで飲むといった形で2ヶ月に1度程度続けられていた。

 そこへ、せっかくだからと昨春とある大手出版社へ就職していった元助っ人のY君を呼んだ。ベテラン営業マンに囲まれ、彼も何か触発されればいいなという親心というか、先輩心というか…。

 ところがY君もこの1年でずっとずっと成長していて、もう僕が教えるようなことなんて何もなくなっているようであった。何だか淋しいような、うれしいような、そんな不思議な気持ちで酒を酌み交わしていた。もう少し僕も進歩しないと…。

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