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1月29日(火)

 某所にて某作家さんのインタビューに立ち会う。(2月末更新の「作家の読書道」)

 それほど多くの作家さんに会っているわけではないのだが、こうやって幾人かの作家さんに会って強く感じるのは、作家というのは、作家という生きものというか、作家になるべくしてなったというか、やっぱり表現者なのである。そのことを強く感じた一日だった。

 ではその仕事相手である編集者はどうか。ここ最近、編集の仕事をするようになり、編集者って何だろうと悩み、いろんな本を読んだのだが、『本の雑誌傑作選』に収録されている小林信彦さんの「編集者評論のすすめ」という文章にはビックリした。

少し長いのだけれど引用すると

「(前略)私の手元に『新刊ニュース』79年12月号の<読者と書店>という対談があり、じつは、これを紹介したいために駄文を弄しているわけだが、八重洲ブックセンター社長の河相さんという方の発言が、もう、モンダイの核心を、ずばずば突いていらっしゃる。出版界出身の人じゃないから、手かげんがない。

<経済的に恵まれるために編集者になるんじゃなくて、編集の仕事でもやろうかという者は、もっと違ったところに志があったはずなんですよ。それがどうも、本来、編集者にあるべき志とは違ったところに志が行ってしまっている。だからもっともっと感覚的に鋭さがなきゃいけない。やはり、人間の感覚的な鋭さは、物質的にも精神的にも、飢えて、はじめて研ぎ澄まされた鋭さが出てくるわけで、そのへんが欠けてるようですね。>

<読者が低俗であるという考え方を払拭しなきゃいかんと思いますね。少なくとも八重洲ブックセンターで見る限り、(本を)作ってくるほうより読者のほうが、そういった面では高いんじゃないかという気がするんです。>

 正論ではないか。
 たとえば小説本、雑誌が売れないのは、読者がマンガ本を買うからだーーなどという俗論があるが、これこそ逃げ口上であって、こうしたアホなことを口走る編集者は、もはや、現実も、読者も、見えなくなっているのだ。私は、同時代、同世代の<編集者だった人たち>を思い浮かべるのだが、編集者の方が執筆者よりずっと勉強し、原書を読み、モノを知っていたと思う。私の場合は、執筆者の大半より私の方が年下だったから、たえず勉強していないと莫迦にされる立場にあったのだが、それはさておき、みんな、気が狂ったように原書を読み、いざというとき、執筆者にレクチュアできるよう準備していた。そうでないと落伍してしまったのだ。」

とある。

 うう。出来れば、私、物質的にも、精神的にも飢えたくない。美味いとかマズイとか文句は言わないからせめてご飯を食べさせてほしい。出来れば屋根の下に寝て、家族とともに幸せに生きていきたい。それに自慢じゃないが、高校の教科書購入費をパチンコと麻雀に使ってしまい、原書どころか、高校一年生の英語の教科書も読めないと思う。莫迦にされるのは慣れているが、莫迦にするような人の本は作りたくない。参った。もしかしたら1回ワンアウトも取れずに降板だ。

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