第10回 セカイ終末戦争「SF思春期人間VS思春期SF」

 思春期は人間にとって最も厄介な時期である。自意識がMAXまで膨れあがり、「世界とは何か」とか「××とはこうあるべき」みたいな壮大なテーマを語りたがる。世界の裏には普通の人たちが気づかない真実が潜んでいてなぜか自分(を含む一部の人間)だけがそれを知っていると思いたがる。そして、思春期はどのジャンルにも存在する。

 私もこの連載を始めてもう4年、そろそろSF幼年期が終わり、SF思春期に差し掛かってきた気がする。人生的にいえば中学二年生レベルだ。その証拠に最近「SFとは何か?」とか「この小説は果たしてSFなのか?」とか「この作品の裏には別の解釈があるのでは?」なんてことばかり考えてしまう。どう見ても私ごときのSF読書歴ではそんなことを語る資格も能力もないのに。私がSFの定義や古典SF作品の新しい解釈を考えてもしかたないのに。私以前にそんなことは莫大な数のSFファンが考えて議論し討ち死にし、死屍累々とわかっているのに。

 これまでは我慢してきたつもりだ。たまに本連載の担当である本の雑誌の杉江さんと会ったときに自説を披露するぐらいである。杉江さんは担当だし、いい人なので「なるほど!」「言われてみればそうですね!」などと感心してくれるが、たぶん内心「うわっ、めんどくせ!」と思っているだろう。で、私と別れて5分するとカレーとか食ってその内容を忘れているはずだ。ある意味、実害は最小限に抑えられているとも考えられる。

 しかし、今回だけは黙っていられない。なぜなら谷川流著『涼宮ハルヒ』シリーズ(角川文庫)を読んでしまったからだ。アーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ、小松左京、ハインライン、フィリップ・K・ディック、グレッグ・イーガン、コナン・ドイル、ジュール・ベルヌといった錚々たるSF作家の作品(のごく一部)を読破して来た者として言わせていただきたい。

 涼宮ハルヒは果たしてSFなのか?

 そもそも私がハルヒシリーズを読んだのは、古典SFのブックガイドとして頼りにしている『SF本の雑誌』のベスト100でシリーズ第1作の『涼宮ハルヒの憂鬱』が66 位にランクインしていたから。同ベストをつくる座談会で大森望さんは「後世に与えた影響を含め、ぜひベストに残したい。もはや、新作が出るかどうかが角川ホールディングスの株価に影響する」とまで言っている。

 これまでラノベに興味のなかった私はそれでも半信半疑だったが、書店でその『涼宮ハルヒの憂鬱』を手に取ったところ、文庫解説を筒井康隆が書いているのにのけぞった。しかも、「立派なSF」と認定しているばかりか、「セカイ系」の代表作と見なしたうえ、『涼宮ハルヒの憂鬱』から第二作『〜の溜息』、第3作『〜の退屈』と進み、第4作『〜の消失』まで読むと衝撃を受けるという。「それまでの単なるSFとは違って不条理感のあふれる純文学的要素が極めて強く、読者はある種の感動に襲われる」と絶賛しているのだ。その結果、筒井先生は「自分もラノベを書こう」と思い、実際書いたという。動機の半分以上は「ラノベSFで一攫千金」という宮田珠己さんのロト7みたいな邪な理由だったようだが、それでも十万部には近づいたというから、宮田さんもロトを研究する暇があったらラノベSFを書けばよかったと心底思う。

 それはさておき。後世に多大な影響を与えたと大森さんに言わしめ、筒井先生に衝撃を与えたのなら、ハルヒシリーズはもう「古典SF」と呼んでも差し支えないだろう。実際、第一作(2003年刊)からすでに20年が経過している。

 筒井先生の指令どおり、第一作『〜の憂鬱』から第4作の『〜の消失』までを読んだ。正直、第2作と第3作は少々退屈だったものの、第4作でうーん、こう来るのかと唸った。予想通り、私がこれまで全く読んだことのない小説だ。あまりに有名だから設定を書くのも野暮かもしれないが、私みたいな読者もいるだろうから、一応書いておく。

 主人公の「俺」は高校一年生。新入生として入ったクラスの自己紹介で、後ろの席にいた涼宮ハルヒなる女子が言う。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」。ハルヒは奇人なのだ。

 彼女は学校中のクラブ(部活)に入ってみたが、全部お気に召さず、自分でクラブを立ち上げることにした。なぜか「俺」はそれに協力させられる。クラブの名称はSOS団。「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」の略称だ。活動内容は「この世界の謎や不思議を解明すること」らしいが、詳細は不明。とにかくハルヒが面白いことをしたいだけなのである。

 すると、いろいろな成り行きから彼ら二人のほかに、女子2名と男子1名が部員となる。彼らはなんと、それぞれが本当に宇宙人(正確には宇宙の高度情報生命体の端末みたいな存在らしい)、未来人、超能力者(異世界人でもある)だったのだ。彼らは無理やりハルヒに部員にさせられたように見せかけて、全員が逆にハルヒを見張るために入部していたのだ。

 どうしてハルヒを見張るのか? それはハルヒにはとてつもない力があり、彼女がストレスを溜め込んで爆発でもしたら、宇宙も未来も異世界も吹っ飛んで崩壊してしまうかららしい。ハルヒは「まだ赤ちゃん状態の神様」みたいな存在なのだ。そしてそのハルヒ様にストレスを与えず、幸せにすることができるのは主人公の「俺」のみ。ちなみに、ハルヒ、未来人、宇宙人の3名は全員タイプの異なる美少女(異世界人はイケメン男子)。かくして「俺」はただ一人、ふつうの人間の部員でありながら、美少女の宇宙人や未来人や異世界人の部員たちから頼りにされる─。

 なんて真面目に書くとバカみたいだな......。要は学園青春ラブコメなのである。

 たしかにSFの要素はある。少なくとも著者がSF世界をよく知っているのは間違いない。従来のタイムトラベルもののロジックを押さえているし、ウェイトレス姿の未来人美少女を見た「俺」が「カエアン製の衣装かと思ったほどだ」とさらっと述べたりしている。何の説明もないから一般読者はわかるよしもないが、SFファンならバリントン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』(ハヤカワ文庫SF)を踏まえているとすぐにわかる(ここで「ふふふ」と優越感にほくそ笑んでしまった私は紛うことなきSF思春期だと思う)。

 でも、全体としてあまりに従来のSFとちがうのもまた事実。なんといっても世界観。

 SF小説は世界設定が凝っているものが多い。というより、世界を創ることがSF小説の主目的の一つであり、だから世界設定の描写に時間がかかり物語の展開が遅いことがSFの構造的な欠陥だとさえ思っていた(いっぽう映画化・アニメ化されると世界観は描写の必要がなくなり物語展開はスピーディーになる。SFが映像向きなのはそのせいだ)。そして世界造りに興味はあれど人物造形や心理描写には興味が乏しいのが従来のSFの特徴だった。

 私が宮田珠己さん、内澤旬子さんと一緒に小説を書こうと「文芸部」なるものを結成したもののうまく行かなかったことは以前書いた。私たちが書こうとしたのはSFでなかったにもかかわらず、世界を創ることに集中してしまい、でも心理描写もちゃんと書きたいから、ますます物語が進まなかった。それもうまく行かなかった要因の一つだ。

 ところがハルヒシリーズでは宇宙人とか未来人とか異世界人とか言いつつ、それが具体的にどんな存在なのか、どんな仕組みなのかろくに説明しない。「俺」以下、主要登場人物の家族や学校の授業の様子など、SOS団に関係ない要素もすべて無視。ハルヒは神様みたいな存在なのだから、日本のSFによくあるように「特別な一族」なのかと思いきや、彼女の親がどんな人たちなのかも全く明らかにされない。どうでもいいらしい。

 逆に従来のSF小説でなおざりにされていた主人公の心理描写は異様に詳しい。というか、主人公の自意識過剰なひとり語りで延々と進む。太宰治か町田康並みだ。従来のSFとは真逆の性質を持っているわけだ。

 さらにSOS団が文化祭に参加したり野球大会に出たりといったいかにも学園ラブコメみたいなエピソードが続くかと思えば、部員たちが合宿先の無人島の館で謎の殺人事件に出くわすという「物語内・新本格ミステリ」もある。(意外にもレベル高い!)、異星人の刺客が校内で襲撃してきたり、突然路上で異空間に入って怪物と戦闘したりという本格SF的なエピソードもある一方、本筋とは無関係に、巨乳美少女部員(未来人)が無理やりメイド服やバニーガールの格好をさせられたりする。

 そうそう、肝心なことを言い忘れていた。主人公は能力も容姿も平凡で、恋愛にも奥手なようだ。自意識過剰ゆえ、自分から主体的に行動を起こさず、あくまで受け身。美少女たちに翻弄されながら世界の秩序を守る。

 いやあ、すごい小説があったものだ。

 著者が自分の好きな要素を片っ端から盛り込み、逆に面倒くさい要素はすべて排除している。一言で言えば、思春期の男子の夢世界。もしこれがSFなら、「思春期SF」と呼ぶしかない。

 ハルヒシリーズが後世に大きな影響を与えたのはよくわかる。緻密な世界観を構築するのは骨が折れる。だからSFを書くとなればそれなりの教養が必要だった。でもハルヒシリーズの世界観はほとんどスケルトン。従来のSFの文脈を気にすることもない。パラレルワールドとかタイムトリップとか異星人との戦闘などのSF的ギミックの敷居もめちゃくちゃ下がったにちがいない。物語を構成する各要素の整合性が問われることもない。むしろ整合性がなく、異なる要素がめちゃくちゃに接続されている方が欲望に忠実で、思春期真っ只中の読者には興奮できるのかもしれない。

 残念ながら私自身はハルヒシリーズに感情移入できなかった。まあ、そうだろう。五十代半ばのオヤジが思春期男子の夢物語に付き合えるわけがない。ただし、SF思春期にある者としてハルヒシリーズの表層だけを見てはいけないと考え、さらに作品世界を深く分析した。その結果、驚くべき真実に気づいた。

 ハルヒシリーズはSFではない。現代最先端の思想書もしくは超絶ノンフィクション作品であると。(次回に続く)