【今週はこれを読め! エンタメ編】読まずにいられない小説〜遠田潤子『廃墟の白墨』

文=松井ゆかり

 遠田潤子の小説を好きか、と聞かれたらなんと答えればよいのか迷う。手放しで共感できる登場人物も少ないし、描かれる状況も積極的に身を置きたくないシチュエーションがほとんどだ。だから、私にとって遠田作品は好き嫌いとは異なる次元にある。読まずにいられないから読むものなのである。

 本書の主人公は、和久井ミモザ。性別を類推しづらい名前だが、30歳の男性である。職業はパン職人で、香川県丸亀市にある和久井ベーカリーの二代目。父親の閑は3か月ほど前から入院しており、医者からももう長くはないだろうとの見込みを伝えられていた。

 ある日店を閉めて裏の自宅に戻ったミモザは、郵便受けの中に閑宛ての封書を見つける。そのまま病院に見舞いに行く際に、父親のもとにその封書を持参した。父に代わってミモザが開封した茶封筒から出てきたものは、一回り小さな白封筒と便箋が1枚。白封筒の宛名はミモザには覚えのない明石ビルという建物のものとおぼしき住所で、そこから転送されてきたらしい。便箋には「閑ちゃん。待っている。明石ビルは昔のままだ。」と書かれていた。さらに白封筒を開けると、白い線で描かれた薔薇の絵を撮ったモノクロ写真が。写真の裏には、「四月二十日。零時。王国にて。」の文字。

 意味がわからず父親に心当たりを訪ねると、閑は血相を変えてミモザに封筒類一式を捨てさせた。その場では閑に従ったミモザだが、どうしても気になり父が寝入った後でゴミ箱から封筒や絵を拾う。その薔薇の絵は激しくミモザの記憶を刺激した、どこかで見たことがあると...。

 迷った末に、ミモザは父に黙って約束の日時に明石ビルを訪れる。約束の時間ぎりぎりにたどり着いた彼の目に飛び込んできたのは、建物の中央にある巨大な吹き抜けに植えられた、自分と同じ名前を持つミモザの木に咲く花だった。

 最上階でミモザを迎えたのは、3人の男。山崎和昭、鵜川繁守、源田三郎。いずれも閑の知り合いだった様子。初めは親子といえども他人であると、3人はミモザに対して距離を取ろうとした。しかし、父親が過去に囚われているに違いないことを見抜いてその苦しみから解放してやりたいと懇願するミモザの様子に、とうとう重い口を開く。「最期くらい、閑ちゃんを楽にしてやってもいいんやないか?」と。彼らは語り始めた。王国と、「運命の女」と、白墨のことを...。

 かつて王国は存在した。そこに住むのは優しい、けれど誰からも必要とされなかった者たち。著者の遠田さんはインタビューで、「惻隠の情」がこの作品のテーマだと語っておられる。「惻隠の情」という言葉は、作中では山崎の口から語られる。「人を哀れむ心」、「小さな子供が井戸に落ちそうになっていたら、ごく自然に哀れみの気持ちが湧き起こる」状態のことだと。吹きだまりのようなビルに住む彼らを支え続けたのは、このような思いだった。

 私が遠田作品を求めてしまうのは、どうしようもなく、あるいは許されないことだとわかっていながら、自ら堕ちていくことを選ぶ人々から目が離せないせいだと思う。もっと要領よく生きていける選択肢が存在するような場合においても、彼らはつらく苦しい道を進んでいってしまう。犯罪などもってのほかであるし、法に触れないまでも正しいとはいえない行いを隠そうとするのも決してほめられたことではない。でも、大切な誰かを守ろうとしてやむなくそういった行動をとってしまいそれでも歯を食いしばって生きてきた人々を、果たして読者が断罪できるだろうか。そして、閑が明石ビルに住んでいた頃にはまだ生まれてもいなかったミモザ自身もまた、心に傷を持つ人間だった...。

 以前当コーナーで、同じく遠田さんの『オブリヴィオン』(光文社)をご紹介したことがある(2017年11月15日更新分。よろしければバックナンバーをお読みになってみてください)。そのとき私は、著者を「エンターテインメント小説界の至宝」と書いた。たとえばディズニー作品みたいにわかりやすかったりきらびやかだったりするものが正統派のエンターテインメントだとしたら(ディズニーにはディズニーのよさがあることは重々承知しておりますが)、遠田作品はそれらからはずいぶん遠いところに位置しているといえよう。

 でも、遠田作品の主人公たちが最終的に手にするものは確かに救いなのだと信じたい。たとえ、他人からすれば意味があるとすら気づかれないような類のものだとしても。人間の心のさまざまな動きを知り、登場人物たちがささやかな希望を手にする姿を読むことができるのは、まぎれもなく本を読む楽しみのひとつである。であるならば、やはり遠田潤子という作家は「エンターテインメント小説界の至宝」と呼ばれるにふさわしいと、『廃墟の白墨』でも証明されたことになる。

(松井ゆかり)

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