【今週はこれを読め! エンタメ編】一冊の本をめぐるスパイ物語〜ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』

文=松井ゆかり

 私のスパイへの強い憧れについては当コーナーをずっと読んでくださっているみなさん(そんな奇特な方など存在するのだろうか)はご存じだと思うが、本書のスパイ活動にはとりわけ興味を引かれた。なぜならこれは、一冊の本をめぐる特殊作戦を描いた物語だったから。

 時代は1940年代末〜60年代初頭(エピローグは65年)。主な舞台はアメリカ、そしてソ連(若者たちは、もはや知識としてしか知らない国だ)。視点人物はそのときどきで変わるが、西(アメリカ)のイリーナ・ドロツドヴァと東(ソ連)のオリガ・フセーヴォロドヴナが大きく物語を引っぱっていく。

 イリーナの父親は兵器工場で働いていたが、学生時代に思想的に問題があるとして教員養成機関を追われていた。妻の妊娠を機に、モスクワからアメリカに渡って新しい生活を始めるようと計画する。だが、アメリカへ向けて出発する船に乗り込む直前、制服姿の男たちに捕らえられてしまった。「自分はすぐあとからいく」と誓って妻を船に乗せた父はしかし、アメリカで生まれた娘の姿を目にすることはなかった。母は仕立ての仕事をしながら、女手ひとつでイリーナを大学まで行かせる。しかしながら、優秀な女子学生たちも社会では男性と同等の職に就ける者はほぼいなかった。その職ですら、けっこうな競争率を勝ち抜いて手に入れられるもの。イリーナはCIAのタイピストに応募し、採用される、けれども、彼女が選ばれたのはタイピングの技術ゆえではなく、スパイの適性を期待されたためであった。

 一方、オリガはロシアで最も有名な詩人で作家でもあるボリス・パステルナークの愛人。オリガがパステルナークを初めて見たのはある朗読会。その後間もなくして彼女が勤める出版社で、ふたりはロマンティックな出会いを果たすことになった。にもかかわらず、パステルナークの才能に心酔し偉大な作家のミューズ的な存在となったオリガに対して、運命は残酷だった。反体制的な危険人物と関係を持つ者ということで密告された彼女は、我が子たちや自分の母親と引き離され、強制収容所に送られてしまう。スターリンの死による恩赦で短縮された刑期を終え、家族のもとに戻ったオリガ。パステルナークがようやく書き上げた『ドクトル・ジバゴ』を出版してくれるような出版関係者を探すのだが...。

 本所において重要な役割を果たしている『ドクトル・ジバゴ』とは、どのような作品か。実は不勉強で私も読んでいないのだが(映画は観た)、オリガ曰く「小説はロシア革命に批判的で、ボリスは社会主義的リアリズムを拒絶しており、国家の影響を受けずに心のまま生きて愛した登場人物たちを支持している」問題作だという。

 大国同士の緊張が高まっていたような世界状況下で、敵対する国の国民に現状を知らしめる手談として、一冊の本が大きな役割を果たしたというのは驚きだった。しかし、本好きの人間にとっては、本がそれほど大きな影響力を持ちうること自体は意外なことではない。訳者の吉澤康子さんは今年2月の東京創元社新刊ラインナップ説明会にて、本書が「文学が人の心を変え、人の心が世界を変える」物語であると話されていた。ミステリーとしての読み応えも満点なのだが、何よりも文学というものの力を改めて思い知らされた作品として記憶に残っていくのではないかと思う。

 時にフィクションは、現実の前には無力だともいえる。小説を読んだからといって、飢えが満たされるわけでもなければ、暴力や災害を回避できるわけでもない。しかし、我々がフィクションに助けられてきたこともまた事実だ。何をやってもうまく行かないとき、ここではないどこかへ行きたいとき、自分の人生が意味のないものに思えるとき。本がつらいことを忘れさせ、勇気や現実に立ち向かう力を与えてくれたという経験をした人はどれほどたくさんいるだろう。そうやって私たちを支えてくれるのが、『ドクトル・ジバゴ』や『あの本は読まれているか』といったたくさんの優れた小説なのだ。

 ラーラ・プレスコットにとって、『あの本は読まれているか』がデビュー作とのこと。アメリカで出版契約金200万ドル(約2億円)、初版20万部で刊行、2020年エドガー賞最優秀新人賞ノミネートなどなど、話題性も抜群。力のある新人作家の登場は国を問わずうれしいものだ。ラーラという名前は本名で、まさに『ドクトル・ジバゴ』のヒロインからとったものなのだという。著者の思い入れもひとしおであるに違いない。

(松井ゆかり)

« 前の記事松井ゆかりTOPバックナンバー次の記事 »