【今週はこれを読め! ミステリー編】世界初『隅の老人【完全版】』が出た!

文=杉江松恋

  • 隅の老人【完全版】
  • 『隅の老人【完全版】』
    バロネス・オルツィ,平山 雄一
    作品社
    7,480円(税込)
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 アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは、後続の作家たちに多大なる影響を及ぼしたという点で、もっとも重要な探偵小説連作というべきである。19世紀末から20世紀初頭にかけては、明らかにホームズ譚を意識したと思われる作品がイギリスを中心に数多く発表された。天才的な名探偵が不可解な謎に挑む連作短篇という形式は、つまりドイルの発明した形式そのままである。それらの作家と彼らの創造した探偵たちは〈シャーロック・ホームズのライヴァルたち〉と総称される。

〈ライヴァルたち〉はそれぞれに飛びぬけた個性の持ち主でもあった。中でも重要なのはバロネス(女男爵位を持つ女性の意)・オルツィの創造した〈隅の老人〉である。彼は〈A・B・C喫茶店〉の隅の席に座る奇怪な風貌の男で、知り合った女性記者に得々と未解決事件の謎解きをして聞かせる。警察を毛嫌いする変わり者であるばかりか、態度から他人をいつも見下しているなど、隅の老人はお世辞にも付き合いやすい人間ではない。しかし彼の推理は常に警察の見逃した事件の盲点を指摘し、快刀乱麻の如く謎を解いてしまうのだ。

 この隅の老人の登場する短篇は38篇書かれているが(長篇はない)、わが国では一部の作品が日本独自編纂の傑作集に収録されているのみで、ほとんどの作品は雑誌掲載されたままであったり、未訳であったりして読むことができなかった。
 
 作品社からこのたび刊行された『隅の老人【完全版】』は、値段こそ6800円と破格に高いが、題名に偽りなしの逸品である。なんといっても、38篇がすべて収録された単行本は世界でもこれが初なのだ。「グラスゴーの謎」という作品が、これまでは雑誌発表のままで単行本に収録されたことがなかったからである。また、この連作は第1、第2シリーズよりも後の作品のほうが単行本化は先になってしまうなどの複雑な出版事情を経て現行形になっているのだが、すべての作品を雑誌発表順に戻すなど、なるべく原形に近づけるような形で収録が行われている。

 雑誌掲載時の挿絵が復活されているなど、マニアには嬉しい点がいくつかあるが、最大のものは叙述形式だ。現行版では、女性記者の名をポリー・バートンとし、彼女が隅の老人の話を聞く三人称で物語が行われるものが読まれてきた。実はそれは単行本化にあたっての変更で、雑誌発表時は女性記者の一人称だったのである。したがって本書では、隅の老人だけではなく、女性記者も名無しのままである。そのため、謎の呈示と推理に集約されている印象が強くなっている。

 収録作38篇は、どうか一気読みしようなどとせず、少しずつ味わって読んでみてもらいたい。オルツィはやはり偉大なトリックメーカーであった。ミステリーのトリックには、密室、アリバイ、変装、毒殺、暗号などさまざまな種類があるが、この短篇集ではそのうちの1つが、特化したといっていいほどのこだわり方で用いられている。同じトリックが、読者への見せ方を変えて複数回使われていることもあるので、謎解き部分を読んでからもう一度見比べてみるとおもしろい。また、トリックの謎が解けると次に犯人の心理状態の不思議が浮上してくるというパターンも多く使われており、意外な動機のミステリーとしても本シリーズは味わい深いのである。

 私のお気に入りは「リージェント公園殺人事件」と「地下鉄怪死事件」で、前者は犯人の施したトリックの大胆さがよく、その情景が実に絵になるのである。後者は、手がかりの与え方が実にさりげないので、不注意な読者であれば見落としてしまうはずだ。謎解きの段になってから自分のうっかりさを思い知らされるはずなので、ぜひ用心して読んでもらいたい。〈隅の老人〉譚でもっとも知名度の高い短篇は「パーシー街の怪死」だと思うのだが、これも意外な形で収録されている。探偵小説マニアなら、「そうだったのか」という驚きを味わうはずだ。

 これは訳者あとがきにも書かれているが、本シリーズが〈安楽椅子探偵〉の元祖のように紹介されることがあるが、これは厳密に言えば正しくない。隅の老人は〈安楽椅子〉の上に座って話を聴くだけで謎を解くのではなく、傍聴のために裁判所に足繁く通い、その見聞したことから推理を組み立てるからだ。一度はアイルランドの首都であるダブリンにも行っており、安楽椅子からは遠く離れて活動的である。

 しかしこれは隅の老人の独自性を少しも損なうものではない。警察とまったく協調関係がなく、むしろ彼らの鼻を明かすために知恵を使うという探偵のあり方は、当時としてもかなり目新しかったのではないか。その意味で彼に最もふさわしい称号は世界初の「傍聴人探偵」であると思う。北尾トロや阿曽山大噴火の大先輩にあたる人物が名探偵だった、というのもなかなかに味わい深い。

(杉江松恋)

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