第226回:酉島伝法さん

作家の読書道 第226回:酉島伝法さん

2011年に「皆勤の徒」で第2回創元SF短編賞を受賞、造語を駆使した文章と自筆のイラストで作り上げた異形の世界観で読者を圧倒した酉島伝法さん。2013年に作品集『皆勤の徒』、2019年に第一長編『宿借りの星』で日本SF大賞を受賞した酉島さんは、もともとイラストレーター&デザイナー。幼い頃からの読書生活、そして小説を書き始めたきっかけとは? リモートでお話をおうかがいしました。

その6「衝撃を受けた作家その1」 (6/8)

  • 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)
  • 『失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)』
    プルースト,吉川 一義
    岩波書店
    990円(税込)
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  • 乱視読者の英米短篇講義
  • 『乱視読者の英米短篇講義』
    若島正
    研究社
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  • ロリータ (新潮文庫)
  • 『ロリータ (新潮文庫)』
    ウラジーミル ナボコフ,Nabokov,Vladimir,正, 若島
    新潮社
    1,045円(税込)
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  • プニン
  • 『プニン』
    ウラジーミル・ナボコフ,大橋 吉之輔
    文遊社
    3,080円(税込)
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  • The Hobbit, Or, There and Back Again (Essential Modern Classics)
  • 『The Hobbit, Or, There and Back Again (Essential Modern Classics)』
    Tolkien, J R R
    HarperCollins Publishers
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――小説の投稿をはじめてから、読書生活に変化はありましたか。

酉島:小説を書けば書くほど、読書が面白くなって興味の幅も広がっていき、古典や純文学、海外文学も貪るように読むようになりました。最も仕事をしなかった頃、プルーストの『失われた時を求めて』を全巻読めたのはとりわけ幸福な体験でした。
 その頃に多和田葉子さんを読むようになって、脳がすりおろされるような感銘を受けたんです。最初に読んだのは『アルファベットの傷口』だったんですけれど、意味が硬直していないというか、言葉とはなにか別のものを読んでいるような感覚がありました。ドイツ語の言い回しを取り入れた表現や言葉遊びも多くて、比喩や描写のひとつひとつが自分とは異なるものの見方で描かれていたり、普段私たちが無自覚に使いがちな言葉を常に捉え直しているような印象を受けました。どんなに読んでもそういう姿勢はなかなか身につかないんですけれど、言葉との距離感がだいぶ変わった気はします。
 若島正さんの「乱視読者」のシリーズを読み始めたのも同じ頃だったと思います。無茶苦茶面白くて、どうしようかと思いました。これほど深く小説を読み解ける人がいるのかと。

――『乱視読者の冒険』とか『乱視読者の英米短篇講義』とか『乱視読者のSF講義』とか、いろいろ出ていますよね。

酉島 どれも必読ですね。ナボコフの『ロリータ』はそれ以前に読んでいたんですけれど、ピンとこなかったんですよね。でも、若島先生が『ロリータ』について書かれた文章を読んで、あまりの自分の読めてなさにびっくりして。初読時には情報量の多さに目が滑りまくっていたんでしょうね。若島先生のテキストを踏まえた上で読むと、これまで見えていなかった面白さが続々と立ち上がってくるんです。特に痺れたのは、『乱視読者の帰還』に引用されたナボコフの『プニン』の文章とその解説です。アメリカの大学でロシア語を教えている亡命ロシア人のプニンを描いた小説なんですが、歯を抜いて入れ歯にする描写が......。引用しないとなかなか伝わらないので、今、チャット機能でその文章を送りますね。

――ありがとうございます。......読みますね。

〈翌朝、プニンはステッキを西欧風に(上下、上下と)ふって雄々しく町に向い、いろいろなものに視線を注ぎながら、歯を抜くという試練の後でそれをもう一度見て、手術前というプリズムを通して見たときはどうだったかと思い出すのはどんなものだろう、と哲学者風に想像をめぐらしてみた。二時間後、彼はステッキにすがりながら、何を見る気力も起こらず、よろよろと帰ってきた。まだ半ば死んでいる、無残な血祭りにあげられた口の中で、痛みの温かい流れが麻酔剤の氷柱(つらら)をじわじわと溶かしはじめていた。その後、数日にわたって、彼は己れの大事な部分を失ったことを悼んだ。どれほど自分の歯をいとしんでいたかを知って驚いたほどだ。肥えてつるつるしたアザラシのような舌はつい数日前までは、勝手知った岩場を楽しげにぷしゃぷしゃと這いまわり、崩れかけてはいるもののまだ強固な王国のまわりを点検し、洞穴から入江に飛び込み、こちらの岩の突端によじのぼり、あちらの窪みに鼻を突っこみ、いつもの裂け目にかぐわしい海藻の切れ端を発見したりしたものである。ところが今や、目印になるものはすっかり消え失せ、残っているのはぽっかりとあいた暗黒の傷跡だけで、そこは恐怖と嫌悪でおよそ調査する気になれない歯茎の未踏の地だった。そして、入歯が押し込まれたときには、哀れな化石同然の頭蓋骨に、にやにや笑っている見ず知らずの男の顎をはめたような塩梅だったのである。
 当初の予定どおり講義は休講にして、ミラーが代理で施工する試験の監督にも出ていかなかった。十日が過ぎた――すると彼はにわかに新しい器具が気に入りだした。入歯こそは啓示であり、曙であり、しっかりと口いっぱいに収まった、優秀で、純白で、人道的なアメリカそのものだった。夜になると、彼はその宝物を特製の液体が入った特製のガラス容器に入れて保管した。それは一人微笑み、ピンクの真珠色に染まり、美しい深海植物の見本のように完璧この上なかった。〉

酉島:若島先生いわく、「この場面は最上のナボコフ」とのことです。プニンは、入歯をテクノロジーの進んだアメリカだと見なしていているんですね。実際にナボコフはアメリカでロシア語を教えていて、抜歯して総入れ歯にもなったらしいです。『ロリータ』のハンバート・ハンバートも実は総入れ歯に近いんですが、若島先生はこう書いておられます。〈『ロリータ』は、喩えてみれば、入歯をはめた小説である。すなわち、ロシアはまだ歯茎として残ってはいるものの、そこにアメリカという入歯をはめこんだ口によって語られた小説だと言うことができる。その新しい口から発せられる言葉は、当然ながら、ロシア語でもなければ自然なアメリカ英語でもない。〉 「乱視読者」シリーズは、掲載時にはまだ翻訳されていなかった本もどんどん紹介していて、当たり前ですけれど、日本語に訳されているのはほんの一部でしかないんだと気づかされ、英語の本をどんどん買うようになりました。すでに少しは洋書を読むようになっていたものの、すらすら読めるわけもなく積みあがる一方でしたが。ちなみに一番最初に読んだ英語の本は「The Hobbit」でした。

――邦題でいうと『ホビットの冒険』ですね。

酉島:子供向けだから読みやすいだろうと思っていたら、そもそもろくに単語も知らないからけっこう難しくて。ちょっとずつ読んで1年くらいかかってしまいました。でも、よく分からなくてぼんやりしていた文章が焦点を結ぶ瞬間にたまらない魅力を感じて、そこから色々と読むようになりました。邦訳されたものでも原文がどうなっているのか気になって照らし合わせたり。きわどい部分がカットされているのを発見したこともあります。
 スラスラ読めないからこそ味わえる面白さを日本語で再現しようとして、造語だらけの「皆勤の徒」を書いたところがありますね。

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