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今井 義男の<<書評>> |
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晴子情歌
【新潮社】
高村薫
本体(各)1,800円
2002/5
ISBN-4103784024(上)
ISBN-4103784032(下) |
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評価:AAA
晴子の歩んだ時代、人は波間に漂う小舟のように行き着く当てもなく、ただ身を任せていたかのように思える。が、個を歯牙にもかけなかった往時の趨勢から少し視線を下げれば、懸命に流れをかいくぐる石くれや、澱みで息を潜める枯れ枝が垣間見える。晴子が息子の彰之に一切の過去を包み隠さず語るとき、私がふと思うのは、彰之を許せない姉・美奈子には彼女に見合った晴子の人生がおそらくあったであろうということだ。人と人の繋がりはややもすれば紙縒りのように心細くはかなげだが、共に生きた証は残る。請われて初めて《青い庭》に晴子を描き加えた夫・淳三と、息子に手紙を書き続ける晴子の間にも微かながらそれはある。家を捨て自己の痕跡を含めたそれらすべてを嫌悪せずにおれない彰之の孤影はひときわ痛切だ。今度こそほんとうに行き場のなくなった平成の世に相応しい必読の母子文学。 |
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イン・ザ・プール
【文藝春秋】
奥田英朗
本体 1,238円
2002/5
ISBN-416320900X |
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評価:AA
いかれた病院長が看護人と患者を入れ代える、ポーの『タール博士とフェザー教授の療法』は笑えなかったが着想は買える。ドリフのコントに<もしも●●な●●があったら>というシリーズがある。こちらは毎回腹を抱えて笑った。そのコンセプトを精神科医に当てはめたのがこの『イン・ザ・プール』である。他人事でない病状も多々あり、面白がってる場合ではないが、面白いんだから仕方がない。春日武彦の著書によると、正常と異常の境界はくっきりした線ではなくて、幅の広いグラデーション状態らしい。誰がいつ横滑りしてもなんの不思議もないのだ。隠さず目をそらさず普通に病気の話ができる世の中のほうがいいに決まっているのだから、タブーは笑い飛ばすに限る。少々口に苦くても、である。 |
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夢の封印
【文藝春秋】
坂東眞砂子
本体 1,333円
2002/5
ISBN-4163209506 |
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評価:A
恋愛という言葉に、私はいつも砂漠をイメージする。掬っても掬っても尽きない砂の上には水を求めて地勢を調査する者、両手で曲がった棒をかざす者。また、諦める者がいれば、他人から奪おうとする者もいる。脱出しようにも奥地を目指そうにも、遠目に映る情景が現実なのか蜃気楼なのか誰にも分からない。確かなことはひとつ、人はそれでも砂の海に引き寄せられる。古来、数限りなく綴られた不滅の主題に作者はまた新たな一石を投じた。ここにはゴールのテープがない。生々しい幻想がいつまでもつきまとい現実を侵蝕し続ける。生活とは夢を食いつぶすことであり、それを我々は倦怠と呼ぶ。ウスバカゲロウの幼虫に捕えられたアリは幸運なのかもしれない。彼は自分を殺そうとしている相手の美しい姿を見なくてもすむから。
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子盗り
【文藝春秋】
海月ルイ
本体 1.476円
2002/5
ISBN-4163209603 |
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評価:B
罪を構成する三人の女性。跡取りを産めず辛気くさい人間関係に精神をすり減らす美津子。夫に娘を奪われ生きる意味を喪失した潤子。そして妊婦のひとみは……うぅ、口にするのもおぞましい。存在自体が犯罪だこの女。彼女らの行動を善悪で量れば悪に違いはない。だが、美津子と潤子の味わう受難、子盗りに至るプロセスは、そんな建て前などたちどころに強制終了させてしまう。閉ざされた母性、行き場を失った母性、そして命を生み捨てる母性、これら不幸の三重奏をありきたりの正論で片付けるのはいかにも空々しい。私は非常識な人間なので、子供が幸せなら法律なんかどうでもいいと思っている。従ってこの結末になんの異論もない。説明的になりすぎた後半にやや難があるが、ひとみが強烈なので大目に見ることにしよう。 |
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蚊トンボ白鬚の冒険
【講談社】
藤原伊織
本体 1,900円
2002/4
ISBN-4062111985 |
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評価:AAA
なんでいきなりガガンボなのか、あえて問わない。なんの不都合も感じなかったからだ。この小説は外野席にいちいち有無をいわせないパワーがある。つまり、リアリティごときに出来を左右されない、すこぶる付きの超お薦め面白本なのだ。TVドラマなどで脇役の人気が異常な高まりを見せることを<ジワ>というが、本書はさしずめジワの詰め合わせといっても過言ではない。敵味方とも個性豊かで立ち居に遜色なく、ヒロイン真紀、蚊トンボ白鬚のキャラも文句なし。さらにツボをくすぐるのが遠い昔を喚起させる白鬚と達夫の掛け合いである。ある日突然現われた異形の友、不可能を可能にする超人的能力、行く手に立ちはだかる悪、救いを求める白皙の美少女……そう、誰もが冒険を夢見る少年だった。だから、虫と人間の友情物語に熱くなるのは当たり前田のクラッカーなのである。 |
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水の時計
【角川書店】
初野晴
本体 1,500円
2002/5
ISBN-4048733826 |
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評価:B
ひとつひとつの挿話が淡々としすぎているが、重苦しさを感じさせずに読ませる工夫は評価できる。テーマがテーマなので軽々しくも扱えないし、力んで説教くさくなっても面白くない。臓器移植への理解が十分に浸透しているとはいえないお国柄であるから、そのへんの匙加減は難しい。主人公・昴の役割から当然、カー・チェイス連発のハラハラ展開だと予想したが外れた。かといってタイトルほどにはファンタジー色も強くない。シフトをどちらかに振り切った方が読後の印象はより鮮烈だったと思う。葉月と昴に運命的なつながりがあれば、いっそう深みのある物語になったのでは。
追伸。トンデモな説を取り入れるのは別にいいが、時代遅れな情報は困る。それと冒頭『幸福の王子』の抄訳から最後の場面を省略した理由を知りたい。 |
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偶然にも最悪な少年
【角川春樹事務所】
グ スーヨン
本体 1,800円
2002/6
ISBN-4894569396 |
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評価:AA
『晴子情歌』とはまた別の意味で時代が芽吹かせたとしかいいようのない獰猛な小説。ただでさえ希望の持てない今日の日本に、身もふたもない在日コリアンの状況。良識が社会を維持するための安全弁なら、引っこ抜きたくなる気持ちもよく分かる。<無為>をここまであっけらかんと書かれると、棘でも毒でもまあ別にいいか、と非国民の私などは簡単に同調してしまうから困ったもんだ。目くじら立てる人になにをいっても詮ないことだが、問題作扱いは相当ではない。このような物語は自然発生的に出現するから、いくら間引いたって無駄である。いまや『時計じかけのオレンジ』も『さらば青春の光』もすっかり色褪せた。花の命と反社会的作品の賞味期限はことほど左様に短い。反則技大いに結構。以後もこの調子をキープして我々の神経を逆なでしてもらおうではないか。 |
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ゼルプの裁き
【小学館】
ベルンハルト・シュリンク
本体 1,900円
2002/6
ISBN-4093563314 |
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評価:D
かつて、寝る間も惜しんで読みふけったミステリを、近頃あまり読みたいと思わない。理由は簡単。探偵や死体が出てこなくても面白い小説が山ほどあるからだ。もちろん実際に読んで面白ければ評価するにやぶさかではない。やぶさかではないが、なんなんだこの男はいったい。年寄りのくせに暴力は振るうし、女を見れば下心丸出しだ。事件のお膳立てはシリアスそのもので、ハッカーによる企業イジメはドイツ近代史の暗部に端を発している。ドイツ人であの時代を振り返って胸を張れるのは、レジスタンスと当時子供だった者ぐらいである。舞台に登場するのは罪をまっすぐに自覚し、正しく屈折した探偵であるべきだった。人選ミスといわざるを得ない。 |
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第四の扉
【早川書房】
ポール・アルテ
本体 1,100円
2002/5
ISBN-4150017166 |
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評価:C
かつて、寝る間も惜しんで読みふけったミステリを、近頃あまり読みたいと思わない。理由は簡単。探偵や死体が……もういいか。しかし、いまどき<初めに不可能犯罪ありき>で張り切られてもなあ。N大の犀川助教授が常々指摘しているように、犯行現場を密室にする必然性なんてほとんどないのである。たまたま本書の旧態依然としたつくりには、ある仕掛けがあって、その点はクリアされているものの、動機は単純、プロットは強引、肝心要の密室トリックは、うーんやっぱり古くさい。後日談もなんだか取って付けたようでそれほどのインパクトはなかった。作者は熱狂的なカーの信奉者だそうだが、ポケミスも創元推理文庫もないフランスではきっと選択肢も狭かったのだろう。
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食糧棚
【白水社】
ジム・クレイス
本体 2,200円
2002/5
ISBN-4560047464 |
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評価:A
永年の偏食習慣のせいか、ショートショートにはひねりの利いたオチが絶対不可欠だと思っている。しかるにこの店の棚に並んだ64の食材にはそれがない。厨房の前では若いコミドランとシェフドランが耳打ちしながら、不満をアペリティフで飲み下す私を窺っている。おおかたSFやミステリに馴らされた私の舌をいぶかっているのだ。ほどなく運ばれてきた前菜は、控えめな盛り付けに反しておそろしく手が込んでいた。密度の濃い味と、刺激的な色取りが苦々しい胸をさらに圧迫する。結局私は一皿一皿を味わうどころか料理に組み伏せられたような気分に陥った。店を出る間際、オーナーが近寄ってくる。なかなか結構な料理だった、と強がる私に彼女の表情は瞬時に曇った。聞けばスタッフの一人が食前酒にビネガーを注いでしまったという。通常のお客様ならその時点で激怒されるのですが、と横から初老のメートルドテルが口を滑らせる。すかさず彼を叱責するオーナーを、私はさも余裕ありげにとりなしたが、ドアの両側で再度深々と頭を下げる二人は、笑いを噛み殺しているようにしか見えなかった。後日、届いた詫び状には川端と芥川の店の招待券が同封されていた。(註:この意味不明な文章は、意にそぐわない短編集に錯乱した採点員が、お筆先によって書き残したものと推察される。編集部ではこの原稿を重大な服務規程違反として、即刻処分の検討に着手した模様である。尚、当該採点員は心神耗弱を盾にとり全面的に争う構えを示している。) |
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