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三浦 英崇の<<書評>>


博士の愛した数式
博士の愛した数式
【新潮社】
小川洋子
定価 1,575円(税込)
2003/8
ISBN-410401303X
評価:A
 「世界を表現する数式は、美しいものでなければなりません」(A・アインシュタイン)
 彼は、洗練された数式を記述することで、世界に眠っている「美」を掘り起こす天才でした。この作品の登場人物である博士の、数学への思いを読んで連想したのが、この言葉でした。
 博士は、80分ごとに記憶がリセットされてしまう障害を抱えつつ、生涯の伴侶とした数学への愛を、彼を世話する家政婦親子に伝えようとします。完全数、友愛数、オイラーの公式……数学上の偉大な発見が、博士にかかると、まるで一つの芸術作品のように語られます。その語り口の暖かさ。記憶がもたない、という人としてもっとも辛い障害を、数学への愛で克服した博士の姿に、私の高校時代のヒーローだったアインシュタインが重なりました。
 数学好きな方はもちろん、学生時代の天敵だった方にも。いや、むしろ後者の方にこそおすすめです。暖かく美しい数の世界への招待状です。

サウンドトラック
サウンドトラック
【集英社】
古川日出男
定価 1,995円(税込)
2003/9
ISBN-4087746615
評価:B
 東京は、なぜ滅ぼされなければならないのでしょうか。小説、アニメ、ゲーム……ジャンルを問わず、フィクションの中で幾度となく滅亡の憂き目を見てきたメガロポリス・東京。この作品は、そんな「滅びゆく東京」小説の系譜に連なる作品の中でも、かなり特異な位置にあるように思います。
 では、どこが特異なのか? それは、主人公たちが滅びを防ぐ側ではなく、むしろ滅びを促進する側に立っていることです。そして、困ったことに、まだ年若い彼らの視線に立って物を見る限り、こんな熱帯化して、生態系も社会秩序もへったくれもなくなった街なぞ、一度チャラにしちゃってもいいんじゃないか、とすら思えてきてしまうのです。
 この作品において、冒頭の問いに答えるなら「東京自身が滅びたがっているから」ということになるかと思います。東京の「自殺」する姿をたっぷり見せつけられて、今ある東京の姿に疑問を抱かせる、そんな小説です。

クライマーズ・ハイ
クライマーズ・ハイ
【文藝春秋】
横山秀夫
定価 1,650円(税込)
2003/8
ISBN-4163220909
評価:A
 昭和六十年八月十二日。流星観測に来ていた僕は、夜空に飛び交うヘリと、繰り返される青年団への出動要請放送を、今でもはっきりと思い出せます。乗客・乗員520名の命が失われた日航機墜落事故。あれから、もう18年か。
 凄惨な事故現場、不眠不休の救出作業、生存者の発見、遺族の悲嘆、涙無しには読めない遺書……新聞は、どの面も連日、事故報道で占められていました。この作品は、そんな数々の記事を生んた新聞記者たちの「熱い夏の一週間」を描いています。
「日航機」全権デスクとなった主人公・悠木は、友と挑戦するはずだった谷川岳の絶壁の代わりに、墓標と化した御巣鷹山への挑戦を、新聞報道という形で行うことになります。衝立岩に勝るとも劣らない凶悪な断崖(部内にも社内にも、家庭内にもある難所)に、幾度となく絶望しつつ、それでも登るのを諦めない悠木とザイルを結んで、420ページ。苦しかったけど、登るに値する「山」でした。

まひるの月を追いかけて
まひるの月を追いかけて
【文藝春秋】
恩田陸
定価 1,680円(税込)
2003/9
ISBN-4163221700
評価:B
 洗練された知性の持ち主たちが、互いの心の深層を探りあいながら続ける合宿。数々の恩田作品の中で見てきたシチュエーションです。しかし、幾度も見てきたからといって、決して安心感を与えてくれないのも、恩田作品。一章たっぷりかけて綴られてきた状況を章末のたった一行でひっくり返しかねないので、一文字たりともおろそかに読み飛ばせない。そう。彼女の作品は、いつも快い緊張を私に与えてくれます。
 この作品は、異母兄の行方不明を、彼の別れた恋人・優佳利から知らされた主人公・静が、消息をたどるべく、優佳利とともに飛鳥路を旅します。一見、女ふたり・のんびり二人旅なのに、会話と互いの心境は二転三転、四転くらいして、380ページの旅の終わりには、すっかり様相を変えてしまって……読み終わってから、どうしてこんなところに着いてしまったんだろう、と途方に暮れること必至。
 恐るべし、恩田マジック。まんまと連れて行かれました。

殺人の門
殺人の門
【角川書店】
東野圭吾
定価 1,890円(税込)
2003/9
ISBN-4048734873
評価:B
 直撃する悪意はどうとでもなる。なぜなら、仕掛けてきた相手の顔が分かるから。本当に始末に悪いのは、気が付くと周り一面を覆っている漠然とした悪意だ。最初に仕掛けた人間は確かに存在するはずなのに、どうしても尻尾が捕まえられないから。
 この作品の主人公・和幸の人生を狂わせたのは、まさにこの「始末に悪い悪意」だと思う。彼の場合、仕掛けた人間は分かっているんだけど、どうしても証拠がつかめず、また、なぜ相手がそんなことを仕掛けてくるのかすら分からない、という、更に嫌なオプションまでついてくる。 400ページかけて、人生をどんどんスポイルされてゆく和幸。読んでいて非常に辛い。いっそ「殺人の門」をくぐってしまうだけの勢いがあれば、こんな不幸にはならなかっただろう、とも思うが、簡単に踏み出せるようなら、それはもはや人でなしだし。
 20年もの間、ごく真っ当な人間に降りかかり続けた悪意に、戦慄しつつ読むべし。

日曜日たち
日曜日たち
【講談社】
吉田修一
定価 1,365円(税込)
2003/8
ISBN-4062120046
評価:C
 特に所用がある訳でもない日曜日は、たいがいスポーツジムのプールで泳いだ後、図書館で本を借りて、その後、書店に寄って帰宅。夕食を待ちながら、借りてきた本の冒頭をちょっと読み始め、薄暗さに部屋の電気を付ける時、ふっと「ああ、明日からまた仕事かー」と思う。特別じゃない日曜日の終わりは、たいがいそんな一抹の寂寥感が付き物。
 この作品には、年齢職業さまざまな男女の日曜日の寂寥感が描かれています。こんなにもたくさんの人がいる街で、何故かたったひとりで過ごしている心細さ。連作を通じて登場する幼い兄弟は、主人公たちの日曜日の過ごし方を象徴するかのように、途方に暮れています。それでも、周りの人々の親切を受けて、少しずつ明日へ向かっていきます。
 明日は必ずしもいい日じゃないかもしれないけど、でも、いつかは、心淋しくない日曜日にたどり着けることもあるかもしれない。明日をちょっとは信じてみたくなる連作です。

青鳥
青鳥
【光文社】
ヒキタクニオ
定価 1,680円(税込)
2003/8
ISBN-4334923976
評価:C
 人間関係の力加減が分からなくなることが、俺にはよくあります。好きな女性に振られたり、知人と絶縁したり、仕事で困難に陥ったりして、その場では懲りるんだが、またぞろ繰り返しては迷惑をかけ、自分もダメージを食う。そんな俺にとって、この作品は、今までの失敗を再検討する絶好の機会を与えてくれました。
 ぐっちゃんぐっちゃんになったプロジェクトを立て直すのに、人を見て絶妙な対応を下す、切れ者の変人・藤原部長の姿は、まさしく、企業で生き残る理想の「大人」像。いくらなんでもそりゃ危ないだろおっさん、とたまに突っ込んだけど。
 そんな大人たちにフォローされて、自分の仕事への誇りを貫き通そうと戦うヒロイン・小蔵。羨ましいなあ。なかなかこんないい環境で仕事なんてできないぞ、実際。こういう状況を「幸福」って言うんです、きっと。
 青い鳥は、いつも自分の側にいる。捕まえるためには、紆余曲折が必要だけど。俺も大人にならんとな、と思います。もう三十路ですし。

光ってみえるもの、あれは
光ってみえるもの、あれは
【中央公論新社】
川上弘美
定価 1,575円(税込)
2003/9
ISBN-4120034429
評価:D
 俺には、月1回ペースでボードゲームをやる仲間がいます。もう十年近く一緒にゲームをプレイしていると、いくら新作を持ってきても、ルール説明を読んだ段階で「あいつはこういう手を使ってきて、こいつはこう応じてくる」というのが、互いにある程度読めてくるようになるものです。
 この作品で、登場人物たちが、表現こそ異なれ、共通して訴えかけてくるものは、たぶん、俺が今思っているのと同じ「互いに読めてしまうが故の安定感」に対する不安なんじゃないか。そう気が付いた時、俺は初めて、この作品世界の人たちに親しみを感じました。
 どんな状況に対しても「うん、ふつう」と答える、相手にするのにこれほど張り合いのない奴はいないと思われる主人公・翠と、彼をとりまく世間の「ふつう」からちょっとずれた家族や仲間に、多少の苛立ちを感じつつ読了し、数日おいてから「あの違和感は何?」と突きつめた後の結論です。ああ、すっきりした。

安楽椅子探偵アーチー
安楽椅子探偵アーチー
【東京創元社】
松尾由美
定価 1,575円(税込)
2003/8
ISBN-4488012930
評価:C
 私の祖父の家には、年季の入ったロッキングチェアーがあって、従兄弟たちと一緒によじ登ったり揺らしたり、存分に悪さをしたものでした。この作品を読んで、まず思い出したのが「彼」のことでした。
 上海生まれのしゃべる安楽椅子・アーチーが、小学五年生の衛と出会い、衛の持ち込む日常の謎を、シャーロック=ホームズよろしく、部屋から一歩も出ずに解決してゆく様子を見ていると「あ。もしかすると、祖父の家の椅子も、悪ガキどもに辟易してただけで、実は話せたんじゃないのか?」という思いにかられました。
 連作の最終話「緑のひじ掛け椅子の謎」は、アーチーが、自分が意識を持つきっかけを与えてくれた、二番目の持ち主の正体をめぐる謎解きで、戦前の魔都・上海で起こった数奇な事件の解明に、「安楽椅子」探偵がついに自ら「動く」というアクション巨編(言いすぎ)。大層お気に入りです。
 あの椅子に揺られながら読みたい、そんな佳作の数々。

魔女は夜ささやく
魔女は夜ささやく(上・下)
【文藝春秋】
ロバート・マキャモン
定価 (各)2,800円(税込)
2003/8
(上)ISBN-4163221204
(下)ISBN-4163221301
評価:D
 魔女裁判。人間は正義の名の下に、いかなり非道でも行える、ということを示す歴史的証左の一つ。それはしばしば「一般」「普通」の概念から外れた、社会的弱者に対しての仮借ない攻撃と化しました。誰がいつ告発されてもおかしくない状況が、いかに恐ろしいものであるかを、この作品は存分に伝えてくれます。
 17世紀末の新大陸。判事書記を務める主人公・マシューは、魔女として告発されたレイチェルを救うべく、真相究明に乗り出すものの、非協力的どころか暴力的ですらある村人たちや、次々集まる不利な証拠を前に、幾度も挫折しそうになります。彼を立ち直らせるのは、常に知性。そう。無知によって生み出される恐怖に対峙できるのは、知性だけなのです。
 この作品を、ミステリとして見る場合、残念ながらあまり高い評価はできません。舞台設定に頼りすぎているきらいがあるからです。しかし、知性こそがもっとも尊い、とする姿勢には非常に好感が持てました。