WEB本の雑誌>今月の新刊採点>【単行本班】2008年7月の課題図書 >佐々木克雄の書評
評価:
佐野さんの代表作『100万回生きたねこ』を読んだのは数年前のこと。主人公ネコに不思議を感じ、せつないラストに心が揺れた。どんな人がこれを作ったのだろうと思った。
「シズコさん」は、認知症が進んでいく作者の母親のことだった。本書は、その人に寄り添いながら、作者が幼い頃からの記憶をたぐり寄せるという構成になっている。母娘の関係を描いた物語なら数多くあるだろうが、この本にあるものは甘酸っぱい回想録ではない。愛されていないと自覚している娘が、母親を反面教師にしながら成長する過程で家族の確執を赤裸々に語っていくのだ。その言葉の辛辣さに、佐野さん風の諧謔もあるとはいえ、息を飲んでしまう。
だが、そんな母親を戦後の困窮を生きてきた人であると認めて、愛していたことを語るとき、作者自身も自らの老いを自覚するようになっていた……。
ああ、「100万回生きたねこ」は、ここにいたのだなと。
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無人島に人が漂着する──どんな物語が生まれるか?
概ね考え得るのは、自給自足でたくましく生き延びる男の冒険譚や、少年少女が力を合わせて云々てな話である。(近年だと、お笑いタレントをカメラで追っておりますな)
この東京島なる南海の孤島はというと、大勢の男たちの中に放り込まれた、ひとりの40代後半の女が主人公。で、描かれていくのは、おのれのエゴむき出しの権力闘争、他人を押しのけてでも脱出してみせる的な執念、愛憎、裏切り……ドロドロドロ。うわぁ、嫌だなと思いながらも、これが現実なんだろなと納得していたりする。(エグくてもいいじゃないか、人間だもの)
読みごたえ度120%の良質なフィクション。見どころはサバイバルな状況よりも、それぞれが腹に持つドロドロに違いない。固有名詞を頻繁に登場させてリアルを醸すが、終盤は寓話のよう……いや、神話のようにすら思えた。これ、今年の問題作になるかと。
評価:
あ、やべえ、「キュン」となった。
あだち充、小山田いく、高橋留美子らの漫画に自分の青春を重ねていた世代としては、このような底辺系高校生のドラマに思いきりハマってしまう。40過ぎのオッサンだというのに。
でも、この短編たちは世にある青春モノとは一線を画しているようだ。そのポイントは、どの話にもヒミツが隠されているからだと思う次第──浮気のカモフラージュであり、先生が覆面作家であり、敢えてのブスメイクであり……などなど。それらが彼&彼女らのココロを微妙に動かして、ミステリめいた話を展開させてるから、フムフム、よく出来てますがな。主人公に近い年代たちは、この本をどんな風に読むのかなと、個人的に気になってしまうところではある。
表題作はアンソロジーに収録されていたのを既読だったが、改めて読んでも面白いなあと。作者の正体について騒がれてますけど、まあそれはそれというコトで。
評価:
ふむ、これもまた直木賞作家・桜庭一樹の小説なのだ。
「子供以上、大人未満」の黒髪の少女・荒野の成長を描いた長編なのだが、桜庭さんが描く小説には「匂い」と表現したくなるようなものがあり、それを受け入れるか否かは別の話として、独特な世界は、相変わらずねっとりと読み手に絡みついてくる。
でも、中1〜高1のころ……って、もうえらい昔だし、でもって自分、男子でしたから、どうにも荒野ワールドに身を置けない。(有名出版社の編集長てなキャラもいるけど、あんなに脂っこくない)だからというワケではないが、やけに俯瞰的にページをめくっておりました。
多分に、読む人によって感じるものや浮かんでくる景色がまったく違ってくるのではと。少年少女にとってはドキがムネムネだろう。自分の中には「やらしいやろぉ」と呟いているトヨエツがおりました。こんなオジサンが読んでしまってスマン──という気持ちです。
評価:
芥川賞受賞作『ひとり日和』を読んだとき、自他の距離感を描くのが凄く上手な作家さんだなと感じた。多分に日頃の人間観察に長けており、社会における自分を深く内観されておられるに違いない。昨年出会った女性作家さんの中では注目のひとりだった。
さて本作、今度は弟できましたか。根無し草生活の弟を自宅に居候させたOLさんの日常を描いたものだが、この日常を一本の小説に仕上げてしまうあたり、青山さんは巧い。
「ほのぼのとした日常って、続きすぎると苦痛だよなあ」とこぼす弟君の台詞は、何かしらの非日常がないと成立できない世の物語たちに素朴な皮肉を投げ与えていると考えるのだ。
それでいてお姉さんの日常は続いているかというと、そういうわけでもなく、弟の友達に想いを寄せたり、人付き合いのバランスを変えたりと──でも、これらもまた日常なのだけど。
できますれば次作は、視点の違うもの(三人称とか、主人公が男とか)を読んでみたい。
評価:
あの映画の原作者だったのですね。(予告編でしか見てないけど)
「訳者あとがき」等を拝読するに“日本でもっと知られて欲しい”作者のようですし、作者自身も「日本版への序文」を寄せているし、たいそう熱のこもった本なのだと。
八つの短編から構成されているのですが、ええ、どれも情感のこもった、ミステリアスな良作ばかり。自分のお気に入りは最初の二作品でした。入り組んだ時空で交差する人々の思いが、どうにもこうにもセンチメンタルな空気を醸し出しておりまして、読後「あふん、せつないのお」と柄にもなく遠い目をしてしまいました。
でも後半、おぞましさとエロティシズムがうねうねと襲ってくるんですね。気がつけばそっちの方が印象深かったのかも知れない。嫌だな、夢に出てきそうな気がする──なもんだから、もう一度、最初の二作品を読み直してしまったりして。う〜ん、クセになりそう。
評価:
現代のミステリ小説&映画は、携帯履歴、監視カメラ、DNA鑑定などなど、科学技術の発達にリンクしなくてはいけないから大変だ。たいていは科学的検証をもとに犯人の特定が行われるから、書き手は取材力、知識を試されるワケだし。
半世紀前に描かれたこの本格ミステリは、呪いの言葉をかけられた男が衆人の前で絶命、しかも数時間後、デロデロに腐乱するてなアンビリーバボーな設定。むろん、今の技術をもってして事件が解明されるのではないからギャップは感じるが、それが却ってイイ味出してる。今読んでも古くさい感じがしないのだ。前言と矛盾するけど、ミステリの不易性なのかと。
登場人物が多いし、狂言回しが誰だか分からなくなって、途中までは我慢の読書だったが、後半の展開は「ホオオオオ」ってなる。でも犯人やトリックの解明よりも、アメリカンの小粋な会話の方が魅力的だったと感じたのは自分だけだろうか。
持論だが、映画・音楽・演劇などと違って、小説は能動的なエンタテインメントだと考える。だって「あーこの小説、つまんねー」と思えば、パタンと本を閉じればいいのだから、あくまでこっち側が主導権を握れるのだ。だが開高健の『輝ける闇』を読んだとき、言葉のリアルに、ひたすら「受け身」になったのを記憶している。この感覚を経験したのは、ほかに中上健次と三島由紀夫だったかな?
前置きが長くなりました。没後10年以上を経ても、この人の言葉のパワーは薄れるどころか、ますますブ厚く、研ぎ澄まされていくようです。単行本未収録のエッセイや対談などを継ぎ合わせたものですが、酒、食、釣り、文化、文明、小説などなどを語る言葉の一句一句が、そりゃあもう重たくて、のしのしと押し潰されそうになります。
最近、こういう作家さんに出会わないなあ。
私事ですが、寂聴さんと抱き合っている夢を見ました。(あの坊主頭が胸元に……)ご利益がありそうな気がしてなりません。だからこの本、というワケではないのですが。
八十も半ばを越えられたご本人の前書き曰く「何が愉しかったと思いをこらせば、それは人との出逢いとおびただしい縁であった」とのこと。大正、昭和、平成を生きてこられた寂聴さんですから、それはそれは凄い文人たちとの出逢いが──総勢二十一名。
島崎藤村にはじまり、川端康成、三島由紀夫らとの交流は知っていたのですが、谷崎潤一郎と佐藤春夫との「妻譲渡事件」の真相にはひっくり返り、女流文学者会の宴席中央で、どっかとあぐらをかいていた平林たい子に親しみを感じたり。その他にも日本文学史のテストに出てきそうな先生方との逸話が次から次へと……。少しずつ読もうと思ったのに、面白すぎてノンストップになってしまった。フアァ……寝不足。
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