WEB本の雑誌>今月の新刊採点>【単行本班】2008年8月の課題図書 >『さよなら渓谷』 吉田修一 (著)
評価:
かなりの依怙贔屓があることを自覚してはいるが、吉田修一は当代もっとも小説らしい小説を書く作家だと思う。でもってその小説はというと、もはや小説の域を突き抜けてしまっているとも思える。とみに昨年の『悪人』、そして本作は、実のところ簡単には評しがたい。
新聞紙面を埋め尽くす夥しい事件の裏側には、当然ながら当事者たちの履歴があり、さらには彼・彼女らに関わる人々も存在する。角度を変え当事者たちの過去を遡ることで、深遠な「個の履歴」が露わになっていく。被害者の傷、加害者の贖罪、そして彼らを追うマスコミまでもが冷静に、均等に描かれているから、各々の「人間」がグッと浮かび上がってくるのだ。終盤には驚くべき事実が待っており……う〜ん、重たい。この本に対する感情をどう表現していいか未だわからない。
深読みしすぎかなあ? でも、これも吉田作品の傑作のひとつに入るのは確かだ。
評価:
冒頭を読んだとき、ああこれは自分の子どもを殺してしまった母親の事件をモチーフにした小説なのかなと思いましたが、物語は私の予想をはるかに超えたところに進み、最後は想像以上の哀しさを覚えることになりました。
隣家で殺人事件が起きてしまったため、身辺を探られ秘密を暴き出されたある一組の若い夫婦。この夫婦はある事件から互いに幸せを求めることができなくなってしまった2人であり、不幸になるために一緒にいることを約束した2人です。この2人が抱える事情が物語中で明らかにされていくたびに、2人の抱える闇は一層濃くなっていくように感じ、哀しみを覚えずにいられません。そして世間の無責任さに自分もその一員でありながら憤りを感じます。最後のシーンがこの哀しさのかすかな希望となることを願ってやみません。
評価:
吉田修一はすごい。
何がすごいって、上手く言えないところがすごい。……じゃあだめか。ええと、一つのところではなく、いろんなところがすごいところがすごい。
情景描写がすごい。月並みな表現だが、情景が頭に浮かんでくる。作中人物が住んでいる平屋家屋の風景がはっきり浮かぶし、作中全体に流れるじめじめした暑さや渓流の涼しさを現実のもののように感じる。
感情描写がすごい。一言では言えない思いを描くのがうますぎる。わかりやすい一単語にはできない複雑に絡まった思いが、読者にわかる形でさらさら描かれているのがすごい。
そして何よりこの作品は、人によって感じ入るところが違うであろうところがすごい。ここの部分について、こう思った。自分だったらこうしただろう、という意見が無限に出そうな感じ。過去の事件について、俊介とかなこの関係性について、渡辺や俊介の考えについて、結末について、深く共感する人も、対岸のものとして冷めた目で見る人も、強烈な嫌悪感を抱く人もいるだろう。たくさんの人に、どう思ったか聞いてみたくなる。
とにかくすごい。吉田修一はすごい。すごいんだからすごい。
評価:
小説としてはたいへんに興味深く、誤解を恐れずに言えばおもしろくすらあった。本書はある幼児殺害事件の発覚から始まるが、重点的に書かれるのはそれではない。著者本人がインタビューで語っていることなのでここでネタを割っても問題ないとは思うが、ミステリー的な興味も備えた小説なので予備知識をいれたくない方は以下の文章は無視してそのまま現物の方を読み進めてください。
レイプ事件の加害者と被害者。両者の間に愛情は存在し得るのか。ふたりが離れられない深みにはまっていく過程を著者は丁寧に描いており、説得力さえ感じさせた。
しかしながら、もしこの本を性犯罪被害者が読んだとしたらどう感じるだろうか。ほとんどの場合、被害者が加害者に対して恋愛感情を持つことなどあり得ないだろう。加害者側が自らの立場を正当化しているようで不快に思われてもしかたのないところがある。あるいは幼児殺害事件についても、ほぼ完全に装置として描かれているのを不謹慎ととられかねない恐れもある。
そういった反発を甘受してでも、極限状態の男女の姿を描くことを選んだ著者の姿勢に作家というものの業を強く感じた。
評価:
隣家でおきた幼児殺人事件をきっかけに、平凡に見える若夫婦のある秘密が、取材を続ける記者によって、明るみになってゆく…。
その秘密「ある事件」と、被害者と加害者の真実の行方を追うのに必死に読み進めていきましたが、その真実に驚嘆するよりも、そこに描かれる人間の心理の襞を飲み込むように読めました。
人間の気持ちが、通常の軸から逸脱してしまう瞬間を、くっきりと描写しています。著者独特のラストと、タイトルを関連付けて考えてしまったり…。
渡辺という事件を追う記者が、渋さと影を持っていて妙に気になる存在でした。効いています。
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