コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その22(最終回)
「「ディクスン・カー」の巻」

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 江戸川乱歩氏が、日本の探偵小説界におけるジョン・ディクスン・カー受容に、多大な影響を与えた(神話化した?)といわれる「カア問答」を発表したのは、1950年8月発行の〈別冊宝石〉10号誌上で、乱歩さん推奨の3長篇----「帽子募集狂事件」(高木彬光訳)、「黒死荘殺人事件」(岩田賛訳)、「赤後家(ギロチン)殺人事件」(島田一男訳)を収めた"世界探偵小説名作選第1集 ディクソン・カア傑作特集"の巻頭に置かれた、露払いでもあった。

 が、しかし、その後、『続・幻影城』(早川書房・1954年6月)に、「J・D・カー問答」と改題されて収録された際の「附記」には、

〈カーは思ったほど日本の読者には受けなかった。一つは私の前振れが大きかったので、読んで見れば「なあんだ」というわけであったかも知れぬが、一つは飜訳も悪かったのではないかと思う(飜訳の全部がそうだとは考えないが)。カーの作風の右の問答にも云っている通り、現実的には箸にも棒にもかからぬような突飛な筋を、ペダンチックな、気取った、ユーモラスな文章で、独特の味わいを出しているものなので、筋書き同然の拙訳では困るのである。カーの飜訳はチェスタートンほど面倒だとは云わないが、ややあれに近い神経を必要とするのだと思う。/だが、不評ながらも、いつの間にか、長篇の飜訳が九篇も出てしまった。左記のように、戦前の訳を加えると通計十二篇となる。(中略)この中では「皇帝の嗅煙草入」と「曲った蝶番」が、やや好評だったらしいが、この二つと同等又は以上の面白さを持っている「帽子」「黒死荘」「赤後家」の三篇が、ひどく不評だったのは、飜訳に慣れない人々の、しかも抄訳であったために、原作の妙味が殆んど出なかったからであろう〉

 と、当時、カーの評判を左右した翻訳の巧拙問題を指摘している。

 拙い翻訳の問題といえば、思い出すのは、いまは亡き月刊誌〈翻訳の世界〉で、1978年10月号から連載のはじまった「欠陥翻訳時評」。評者は上智大学文学部教授(当時)の別宮貞徳氏。毎号、書店の立ち読みで、下種な興味から当該ページを開くとすぐ、いやはや、恐ろしくなって閉じるほど、俎上に載せられた翻訳書は、犀利なメスでメッタ斬り......ツルカメツルカメ。

 この10年以上続いた人気連載は、文藝春秋社から『誤訳 迷訳 欠陥翻訳(正・続)』『こんな翻訳読みたくない』『こんな翻訳に誰がした』『悪いのは翻訳だ----あなたのアタマではない』『翻訳の落とし穴』などの単行本にまとまっている。世に悪訳の種は尽きまじ......とはいえ、こうした時評や翻訳指南書のおかげか、昔にくらべ、こと小説の翻訳は、編集者や校閲者の助けもあり、近年ではネット検索で疑問の調べがついたりして、全体的にかなりレベルアップしていると思う。

 では、ポケミスのカー作品の場合は、どうだったのだろう。

 試みに、ポケミスと、1976年4月発刊の[ハヤカワ・ミステリ文庫]に収録された、カー(およびディクスン・カー)の新旧の翻訳者対照リストをあげてみよう。書名のあとの( )はポケミス初刊年月、右の文庫側の表記は丸数字の著者別、巻数順を組み合わせた整理番号、×印は未文庫化のこと。



●ジョン・ディクスン・カー
『臘人形館の殺人』(1954/11)     (妹尾韶夫)← 〈宝石〉(同訳)1951年1月〜7月号連載
                         → ×
『夜歩く』(1954/12)         (西田政治)← 〈宝石〉(同訳)1951年10月臨時増刊号
                         → ⑤-02 改訳(文村潤)
『皇帝の嗅煙草入』(1954/12)     (西田政治)← 〈別冊宝石〉12号(同訳)1950年12月
                         → ⑤-13 改訳(斎藤数衛)
『三つの棺』(1955/02)        (村崎敏郎)→ 改訂版(三田村裕)1976/01
                         → ⑤-03 (三田村裕)
                         → ⑤-21 新訳版(加賀山卓朗)
『火刑法廷』(1955/02)        (西田政治)→ ⑤-01 改訳(小倉多加志)
                         → ⑤-20 新訳版(加賀山卓朗)
『死の時計』(1955/04)        (喜多孝良)→ ×
『死人を起す』(1955/06)        (延原謙)→ ×
『曲った蝶番』(1955/09)       (妹尾アキ夫)→ ×
『嘲るものの座』(1955/12)      (早川節夫)→ ×
『眠れるスフィンクス』(1956/05)   (西田政治)→ ⑤-16 改訳(大庭忠男)
『疑惑の影』(1956/05)        (村崎敏郎)← [世界傑作探偵小説シリーズ](同訳)1951年3月
                         → ⑤-10 改訳(斎藤数衛)
『妖女の隠れ家』(1956/07)      (西田政治)→ ⑤-09 改訳(斎藤数衛)
『囁く影』(1956/08)         (西田政治)→ ⑤-08 改訳(斎藤数衛)
『バトラー弁護に立つ』(1957/05)   (橋本福夫)→ ×
『アラビアン・ナイト殺人事件』(1957/11)(森郁夫)→ ×
『喉切り隊長』(1958/01)       (村崎敏郎)→ ⑤-12 改訳(島田三蔵)
『毒のたわむれ』(1958/03)      (村崎敏郎)→ ×
『九つの答』(1958/03)        (青木雄造)→ ×
『剣の八』(1958/08)         (妹尾韶夫)→ ⑤-19 改訳(加賀山卓朗)
『四つの兇器』(1958/12)       (村崎敏郎)→ ×
『死者のノック』(1959/01)      (村崎敏郎)→ ⑤-11 改訳(高橋豊)
『ニューゲイトの花嫁』(1959/09)   (村崎敏郎)→ ⑤-15 改訳(工藤政司)
『震えない男』(1959/11)       (村崎敏郎)→ ×
『火よ燃えろ!』(1960/05)      (村崎敏郎)→ ⑤-05 改訳(大杜淑子)
『ハイチムニー荘の醜聞』(1960/06)  (村崎敏郎)→ ⑤-14 改訳(真野明裕)
『雷鳴の中でも』(1960/11)      (村崎敏郎)→ ⑤-04 改訳(永来重明)
『引き潮の魔女』(1963/10)     (小倉多加志)→ ⑤-06(同訳)
『ビロードの悪魔』(1965/07)     (吉田誠一)→ ⑤-07(同訳)
『ロンドン橋が落ちる』(1973/03)   (川口正吉)→ ×
『コナン・ドイル』(1993/08)    (大久保康雄)→ ×

*註/[ハヤカワ・ミステリ文庫]には、初刊の⑤-17 『月明かりの闇ーフェル博士最後の事件ー』(田口俊樹)、国書刊行会の[世界探偵小説全集]11が元本の⑤-18 『死が二人をわかつまで』(仁賀克雄)が収録されている。また、ポケミスには、ジョン・ロードとの合作『エレヴェーター殺人事件』(中桐雅夫・58年01月)、アドリアン(エオドリアン)・コナン・ドイルとの合作を含む短篇集『シャーロック・ホームズの功績』(大久保康雄・58年05月)が収録されたが、どちらも文庫化されていない。

●カーター・ディクスン名義
『ユダの窓』(1954/07)        (喜多孝良)→ 改訂版(砧一郎)1975/10
                         → ⑥-05(砧一郎)
『墓場貸します』(1955/07)      (西田政治)→ ⑥-06 改訳(斎藤数衛)
『修道院殺人事件』(1956/02)    (長谷川修二)←(同訳)[おんどり・みすてりい]
                         → ×
『プレーグ・コートの殺人』(1956/05) (西田政治)→ ⑥-04 改訳(仁賀克雄)
『時計の中の骸骨』(1957/04)    (小倉多加志)→ ⑥-02(同訳)
『五つの箱の死』(1957/04)      (西田政治)→ ×
『別れた妻たち』(1957/11)     (小倉多加志)→ ⑥-09/改題『青ひげの花嫁』(19同訳)
『読者よ欺かるるなかれ』(1958/05)  (宇野利泰)← 〈別冊宝石〉46号(同訳)1955年04月
                        ← 『予言殺人事件』(同訳)現代文芸社[モダン・ミステリー]
                         → ⑥-12(同訳)
『わらう後家』(1958/05)       (宮西豊逸)→ ⑥-08/改題『魔女が笑う夜』改訳(斎藤数衛)
『爬虫館殺人事件』(1958/06)     (村崎敏郎)→ ×
『貴婦人として死す』(1959/04)   (小倉多加志)→ ⑥-03(同訳)
『パンチとジュデイ』(1959/04)    (村崎敏郎)→ ⑥-13 改訳(白須清美)
『メッキの神像』(1959/06)      (村崎敏郎)→ ×
『弓弦城殺人事件』(1959/08)     (加島祥造)→ ⑥-01(同訳)
『騎士の盃』(1960/01)        (村崎敏郎)→ ⑥-10 改訳(島田三蔵)
『赤い鎧戸のかげで』(1960/07)   (恩地三保子)→ ⑥-07(同訳)
『恐怖は同じ』(1961/03)       (村崎敏郎)→ ×

*註/[ハヤカワ・ミステリ文庫]は、初刊の⑥-11 『第三の銃弾[完全版]』(田口俊樹訳)を収録。


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 一見して、西田政治(にしだ・まさじ)、村崎敏郎の両氏の訳本が多いのに気づくだろう。西田氏は、同郷の横溝正史氏と探偵小説の洋書を漁った盟友であり、戦前から関西探偵文壇の中心人物で、〈新青年〉にビーストン作など数多くの短篇を訳した古参の探偵小説翻訳者。村崎氏は、1904(明治37)年生まれで東京商科大学卒、ポケミスでは他にアンブラー『デミトリオスの棺』、ジョセフィン・テイ『時の娘』、クイーン『九尾の猫』、チェスタートンの"ブラウン神父"物などなど、多種多様な作品を手がけているのだが、小林信彦氏の『地獄の読書録』に収録されている〈宝石〉誌の連載月評「みすてり・がいど」のカー作品評では、〈この作品(引用者註・「ニューゲイトの花嫁」)は翻訳で大分損をしていると思う。カーのBクラス、Cクラスの作品というと、この訳者がやるようになっているみたいだが、日本語として実に読みづらいのですよね、これは。「くそッくそッ」というコトバがやたら多いのも品が悪くて困る。原文にも多いんだといわれればそれまでだが、とにかく、正常な日本語の神経を欠いているとしか思えんよ。くそッ!〉とか、〈カーの「火よ燃えろ!」(早川書房・二六〇円)、「ハイチムニー荘の醜聞」(早川書房・二二〇円)などは、作品の出来もとにかく、誤訳・悪訳・珍訳をもって鳴る村崎敏郎氏訳なので、残念ながら読者におすすめ出来ない。「火よ燃えろ!」の冒頭の数行を読めば、この訳者が日本語を知らぬことは明瞭である。その翻訳をいくら叩かれても一向に止める気配のない図々しさとシブトサと無神経は、自民党幹部に似ている〉と指弾されている。

 また、ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(森英俊・高田翔・西村真裕美訳/国書刊行会・1996年11月)の「訳者あとがき」で、森英俊氏は、〈カーの不遇の原因は、第一に適切な翻訳者に恵まれなかったことである。(中略)ハヤカワ・ポケット・ミステリが誕生してからはさすがに完訳紹介されるようになったものの、当時カーを手がけていた翻訳者たちの技量はとうてい水準に達しているとはいえない。へたな訳ならまだしも、誤訳は日常茶飯事で、『臘人形館の殺人』にいたっては、抄訳の上に登場人物の名前や各章の小見出しまでも訳者が変えてしまうという、わけのわからない珍訳になっている。『火刑法廷』を手がけた翻訳者が有名なエピローグの意味を理解できず、その部分を削ろうとしたという逸話もあるくらいだから、当時の翻訳水準が推察される。意外なのは、悪訳の代名詞ともいわれた村崎敏郎の翻訳が、たしかにうまい訳ではないが意味のとり違えの少ないことで、かえって後年の改訳のほうに、『三つの棺』の叙述上の致命的な誤訳、『死者のノック』の中心の密室トリック部分のまったくの誤訳などの欠陥が目立つのは皮肉である〉

 と記している。なお、改訳版の欠陥を指摘したのは二階堂黎人氏とのこと。

 ぼく自身、今回初めてカー作品を読んでみて、西田氏の訳書にも、日本語として意味が通らぬ訳文が散見し、頭を抱えてしまうこともシバシバであった。だから、上記のリストでわかるように、両氏の訳書のほとんどが絶版になり、文庫化の際はひとつも採られていない。編集部の英断というべきか?

 ともあれ、最新の『ハヤカワ文庫 解説目録』(2019年01月)で、残っているのは、⑤-20 『火刑法廷[新訳版]』と、⑤-21 『三つの棺[新訳版]』の2点のみである。

 というわけで、「ポケミス狩り」は、これにて終了。その実情は、古本屋で廉価入手した具象画表紙のポケミスの手持ちが、書影だけ載せてもらう『名探偵登場①』(蛇足ながら、村崎敏郎氏は「探偵小説の濫觴----『スザナの物語ー経典外聖書ー』『ベルとドラゴンー経典外聖書ー』『ヘラクレスとカークスの物語ーウェルギリウス「アエネーイス」第八巻ー』」、M・P・シール「S・S」、ロバート・バー「遺産の隠し場」の3篇を訳出している)を最後に、底を突いたからという、だらしない理由。

 せっかくの、具象カバー画をお披露目できるのを好機に、いつの間にやら溜まっていたポケミスの各作を読んだのだけれど、やはり、"本格物"にはあまり興味をもてず、ポケミスが売り出した戦後作品のほうを面白く読ませてもらった。そんなわけで、門外漢の世迷言ばかり書き連ねたような次第で、妄言多謝。どうも、ご退屈さまでした。どっとはらい。



1961(昭和36)年・下半期[奥付準拠・発行順リスト]
7月15日(HPB 624)『ラバー・バンド』R・スタウト(佐倉潤吾訳)
7月15日(HPB 644)『ドアは語る』M・R・ラインハート(村崎敏郎訳)
7月31日(HPB 254)『名探偵登場 ⑤』早川書房編集部編
7月31日(HPB 645)『ファーガスン事件』R・マクドナルド(小笠原豊樹訳)
7月31日(HPB 646)『アデスタを吹く冷たい風』T・フラナガン(宇野利泰訳)
7月31日(HPB 647)『影をみせた女』E・S・ガードナー(宇野利泰訳)
7月31日(HPB 648)『ぎろちん』C・ウールリッチ(稲葉由紀訳)
7月31日(HPB 650)『殺人稼業』B・ハリデイ(山下諭一訳)
8月15日(HPB 649)『逃走と死と』L・ホワイト(佐倉潤吾訳)
8月15日(HPB 651)『運命の宝石』C・ウールリッチ(永井淳訳)
8月31日(HPB 643)『日曜日は埋葬しない』F・カサック(中込純次訳)
8月31日(HPB 652)『猫は夜中に散歩する』A・A・フェア(田中小実昌訳)
8月31日(HPB 654)『見ざる聞かざる』M・エバーハート(村崎敏郎訳)
8月31日(HPB 655)『生きている痕跡』H・ブリーン(鷺村達也訳)
9月15日(HPB 653)『死に賭けるダイヤ』M・プロクター(森郁夫訳)
9月15日(HPB 656)『虫のくったミンク』E・S・ガードナー(信木三郎訳)
9月30日(HPB 657)『シェーン勝負に出る』B・ハリデイ(中桐雅夫訳)
9月30日(HPB 658)『死の配当』B・ハリデイ(丸本聰明訳)
9月30日(HPB 659)『若い野獣たち』E・ハンター(井上一夫訳)
10月15日(HPB 660)『おんな』C・ブラウン(田中小実昌訳)
10月31日(HPB 661)『ギデオン警視と部下たち』J・J・マリック(吉田誠一訳)
10月31日(HPB 662)『死は深い根をもつ』M・ギルバート(中川龍一訳)
10月31日(HPB 663)『地下洞』A・ガーヴ(宇野輝雄訳)
10月31日(HPB 665)『おせっかいな潮』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
10月31日(HPB 668)『ろくでなし』R・ブロック(稲葉由紀訳)
11月15日(HPB 667)『娼婦の時』G・シムノン(日影丈吉訳)
11月30日(HPB 664)『わが名はアーチャー』R・マクドナルド(中田耕治訳)
11月30日(HPB 666)『見知らぬ町の男』B・ハリデイ(田中小実昌訳)
11月30日(HPB 669)『黒は死の装い』J・ラティマー(青田勝訳)
11月30日(HPB 670)『車椅子に乗った女』E・S・ガードナー(田中融二訳)
11月30日(HPB 671)『あつかましい奴』C・ブラウン(田中小実昌訳)
12月15日(HPB 673)『バッファロー・ボックス』F・グルーバー(中桐雅夫訳)
12月31日(HPB 672)『死の目撃』H・ニールスン(神谷芙佐訳)
12月31日(HPB 674)『牝牛は鈴を鳴らす』E・S・ガードナー(船戸牧子訳)
12月31日(HPB 675)『モルダウの黒い流れ』L・デヴィッドスン(宇野利泰訳)
12月31日(HPB 676)『素肌』C・ブラウン(田中小実昌訳)
12月31日(HPB 677)『犯罪の進行』J・シモンズ(小笠原豊樹訳)
12月31日(HPB 678)『完全脱獄』J・フィニイ(宇野輝雄訳)

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