『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』マイケル・ボーンスタイン&デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

  • 4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した
  • 『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』
    マイケル・ボーンスタイン,デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート,森内 薫
    NHK出版
    1,940円(税込)
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 貨物列車でアウシュヴィッツに移送された数十万人の子どものうち、生きて収容所から出られた8歳以上の子どもは、たった52人でした。生存率0.052%以下の歴史上最悪最大の殺戮工場から、わずか4歳の子どもがなぜ生き残れたのか? この生存者であるマイケル・ボーンスタイン氏本人が、家族の全面的な協力のもと、かすんでしまった記憶を取り戻すために2年間の取材と他の生存者へのインタビューを経て描かれたのが本書です。

 印象的だったのが、胸を斧でえぐられるようなアウシュヴィッツの記録。そして、今まで描かれることの少なかったアウシュヴィッツのその後の物語など、それだけでも埋もれてしまった死者たちの想いや声を深く感じとることのできる一冊ですが、特筆すべきは、なぜ今著者がこれを書いたのか、だと思います。

『ブラックアース』や『ブラッドランド』で、ホロコーストの真因を明らかにした気鋭の歴史家であるティモシー・スナイダーはその著書『暴政』で、事実が揺らいでしまう「ポスト・トゥルース」の現代を、はっきり「ファシズム前夜」と書いています。悪意のある嘘を見過ごすことからファシズムははじまるのだという指摘は、日々報道されるニュースをみていると、決して他人事ではありません。

 著者が70年の沈黙をやぶり、家族に聞かれても先延ばしにして決して語らなかった戦争時代を語る決心をしたのは、「ホロコーストは嘘で存在しなかった」と主張するウェブサイトに、自分の写真が使われているのを発見したからです。この切実さは、アンネ・フランクが『アンネの日記』を後世に読まれるために書き直したのとも、強制収容所から生還した精神科医のヴィクトール・E・フランクルが『夜と霧』の新版で、旧版では使わなかった「ユダヤ人」という言葉をあえて使ってイスラエルへの複雑な思いを表現したのとも、決定的に違っています。

 自分が書かなければ、アウシュヴィッツでの出来事がなかったことになってしまう。しかし、著者は科学畑の人間で文章が書けない。どうしたらいいのか? ジャーナリストになった彼の娘は、父の相談にこたえて力強くいいます。私が書く。そして、「誰かがホロコーストについての嘘を語るなら、その100倍もの声で真実を語ればいい」。

 細かい事実の断片をつなぎあわせて、戦争から半世紀以上も経って記念館で発見された一枚の書類から浮かび上がった著者の奇跡の生還の真実。また、懸命に生きようとして生き残ることができなかった父と兄の記録を丹念に調べ、決して歴史の上で語られることのなかった、平凡な父親の非凡な戦いを解き明かした著者たちの執念。70年間語ろうとして、語れなかった思いが、隅々まであふれています。

 意外だったのは、絶望という言葉でも足りない生き地獄で、むちゃくちゃに踏みにじられた著者たちのつむいだ言葉が、途方もなく明るく感じられたことです。ヒトラーもうちくだくことのできなかった家族の絆。「私は楽観的なのだ」という著者の生き方には、どんな困難があったとしても、前を向いて生きていく限り人生には希望があるのだ、と気づかされました。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki