『神狩り』山田正紀

●今回の書評担当者●さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜

 1974年──。
 白泉社が「花とゆめ」を創刊し、宝塚で初めて「ベルサイユのばら」が上演され、「サザエさん」が連載を終了したこの年。あるいは、長嶋茂雄が現役を引退し、セブン-イレブンが1号店を出店したこの年。
「SFマガジン」にある新人のデビュー作が連載された。

 情報工学を専門とし、言語解析の研究をしている主人公はある遺跡の発掘現場で、存在しない文字を発見する。そして解析の結果、人間が生み出した文字ではないことが判明する。
 古代文字は神の言葉なのか。何を意味しているのか。古代文字の解読を進めれば進めるほど、神の妨害がその行く手を阻む──。
 山田正紀の『神狩り』である。

 ここに登場する神は抽象的な存在として描かれる。姿は見えず、声は聞こえず──ただ、存在を感じるだけ。
『神狩り』はそんな神と人間との長きにわたる戦いを描いた小説だが、この作品を読んだ読者は作者の想像力に取り込まれ、脳内に神を想像することを促される。

 一般的なミステリは想像力の限界の、数歩先を示す。
 だが『神狩り』は想像力に限界などないかの様にどんどんと先へと進んでいく。古代言語という手がかりから神へと続く、壮大な謎解きの過程を読者に示す。

 著者自身の創作も加えながらも、あくまで科学の力──人間の頭脳を武器に神へと挑むその姿は、知力のみで謎を解こうとする名探偵の姿に重なる。

 山田正紀が書いた探偵小説──『ミステリ・オペラ』の帯には「探偵小説でしか語れない真実もあるんだぜ」とある。その言葉をもじるなら、『神狩り』に対しては「SFでしか語れない真実もあるんだぜ」という言葉が相応しい。


『神狩り』の神は人類をもてあそぶ。
 気まぐれにヒントを与えて自分の存在をちらつかせつつ、決定的な尻尾はつかませない。そのあげく、意思疎通は絶対的に拒絶する──そこにはコミュニケーションの断絶がある。

 一方で、そんな神にたどり着き、神を狩ろうとする主人公たちもまた、言葉も心も通じ合わない神を排除しようとしている点で、立場こそ違えど神と似た姿勢だといえる。

 相手の用いる言語を解読するということは相互理解の基本──主人公たちがやっていることに間違いはない。
 しかし、その目的は危うい。
 目的が間違っていれば手段がいくら正しくても良い結果にたどり着かないことは自明だ。
 だから彼らと神との戦いに最終的な決着はつかないだろうし、ついたとしてもそれは正しさの証明ではなく、力の大小しか意味しない。

 それなら。
 寄る辺なきこの物語に対し、読者はどう向き合えばいいのか──。

『神狩り』の神は相互理解を拒む神である。
 だが『神狩り』を生み出した神=作者は〝想像しえないことを読者に想像させる神〟である。想像しえないことを、物語を通して想像させること──それはまさしく、拒む神=コミュニケーション不全な神に抵抗する最適な手段なのだ。

 そう。
 武器ではなく言葉を、暴力ではなく想像力を。
 それこそが人間なりの戦い方に違いない。

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さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
1983年岩手県釜石市生まれ。小学生のとき金田一少年と館シリーズに導かれミステリの道に。大学入学後はミステリー研究会に入り、会長と編集長を務める。くまざわ書店つくば店でアルバイトを始め、大学卒業後もそのまま勤務。震災後、実家に戻るタイミングに合わせたかのようにオープンしたさわや書店イオンタウン釜石店で働き始める。なんやかんやあってメフィスト評論賞法月賞を受賞。