『街とその不確かな壁』村上春樹

●今回の書評担当者●明屋書店空港通店 久保田光沙

「悔しい!」の一言に尽きる。

 あんなに村上春樹が苦手だったのに、この本はめちゃくちゃ面白い。

 私の村上春樹との出会いは高校生の時、どこかの大学入試の過去問だった。何という小説だったか忘れたが、浜辺で男女二人が寝転がっておしゃべりする場面だった。問題の解説をする時、現代文の先生が言った言葉が忘れられない。

「この小説、どエロいからな。よくこんなエロくない場面を抜き取れたなってぐらい、この小説、ずっとエロいからな。」

 ああ、村上春樹はエロいんだ。

 それが第一印象だった。

 その後、大好きな松ケンが映画をやるからと『ノルウェイの森』を読んだり、自分が仕入れた本だからと責任を感じて、色彩を持たない多崎さんの話を読んだりしたが、やはり好きにはなれなかった。

 今回、また村上春樹の新刊発売に立ち会うことになり、どんな感じかなぁと1ページ目を開いた瞬間、これは面白いと確信した。気づくと昼休憩中にレジへ持って行っていた。そして初めて、村上春樹を面白いと思えたのだ。

 本の内容を要約すると、少年時代に恋した女性を失った主人公は、その喪失感と彼女が残した「壁に囲まれた街」の物語を胸に残しながら大人になる。そして物語ではなく、実際に「壁に囲まれた街」を体験した彼は、職を辞してまでその謎を探るようになる。

 メルヘン少年が、そのままメルヘンおじさんになった話かと思うかもしれないが、決してそうではない。彼は大学も出て、大手出版取次へ就職し、ある程度の地位をもつ、いわゆるちゃんとした大人だ。ただ、少年時代の失恋が尾を引いているから、結婚はせずに独身貴族でいるが、そんな人、ザラにいる。そんなちゃんとしたおじさんが、会社を辞めてまで、少年時代の喪失感や謎に立ち向かう様は、私たちに勇気をくれるだろう。

 さらに、壁に囲まれた街の、その壁も面白い。壁はナイフの傷が入らないほど頑丈な時もあれば、ゼリーのようにふにゃふにゃの時もある。これはコロナ禍でできてしまった壁を表しているのだろう。現在、行政がコロナの制限を解除し始めたから、目に見える壁はなくなりつつあるが、私たちの心の中の壁は未だ残ったままだ。壁があれば疫病のような害は入ってこないが、外に広がる景色を見ることはできない。この壁を生かすも殺すも自分次第だと教えてもらった。

 村上春樹が私のレベルまで落としてこの本を書いてくれたのか、私が村上春樹を面白いと思えるレベルまで成長したのか、どちらか分からないが、後者だと信じたい。ハルキストさんはもちろん、苦手意識を持っている人、村上春樹を読んだことがない人にもおすすめしたい1冊だ。

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明屋書店空港通店 久保田光沙
明屋書店空港通店 久保田光沙
愛媛生まれ。2011年明屋書店に入社。店舗や本部の商品課などを経て、結婚し、二回出産。現在、八歳と二歳の子を持つ母でもあり、妻でもあり、文芸担当の書店員でもある。作家は中村文則、小説は「青の炎」(貴志祐介)が一番好き。昨年のマイベスト本は「リバー」(奥田英朗)。