『空洞電車』朝倉宏景

●今回の書評担当者●丸善お茶の水店 沢田史郎

 SINUS(サイナス)というバンドが在る。ボーカルで作詞作曲も一手に担うミツトが中学一年の時に、兄と二人で始めたギター。そこにベース、ドラム、キーボード、そしてマネージャーが《RPGゲームのパーティみたいに》少しずつ加わった。そしてミツトが二十歳の冬、《このバンドで将来プロを目指していく》と全員で決めた。
 以来、8年。6人の男女は、着々と階段を昇ってきた。2年前にリリースしたメジャーファーストアルバムは、オリコン初登場11位を記録した。去年は全国ツアーも成功し、ライブDVDも発売された。《手を伸ばしても届かなかったものが、今、ようやく指先にふれようとしていた》。

 その矢先──。天才的な音楽センスでバンドを引っ張ってきたミツトが、死んだ。享年28。事故か自殺か、はっきりしたことは分からない。確かなのは、エンジンであり舵輪でもあったミツトを欠いて、SINUSの進路が大きく揺らぎ始めた、という事実。

 とここまでが、『空洞電車』の前提と言うか、スタート地点。そして、これまでの朝倉宏景であれば、残された5人による再起が、熱血6割ユーモア4割で、きっと展開したことだろう。デビュー作『白球アフロ』以来、『野球部ひとり』、『風が吹いたり、花が散ったり』そして、直近の『あめつちのうた』まで、若気の至りと紙一重の"勢い"と"情熱"を描いてきたのが、この作家だ。

 ところが今作は、少しばかり様子が違う。

 一人の天才に率いられて脇目も振らずに突っ走ってきたSINUS。その"天才"を失った時、彼らの胸に去来した思い。ミツトがいないSINUSに価値があるのか? ファンはついてきてくれるのか? プロとしてやっていけるのか?
 絶対の解などある訳もないその問いは、日常のふとした隙間から漏れ出して、彼らの心を灰色に染めてゆく。ミツトを欠いたSINUSが無価値だと言うのなら、そもそも自分はSINUSに必要だったのか? ミツトの代わりはいなくても、自分の代わりなら見つかるのか? だとしたら今後、自分がSINUSでやっていく意味は果たしてあるのか?
"ミツト以外"の5人はミツトを失ったことで、ミツトの大きさに気付く以上に、自分たちの小ささを思い知らされ歩みを止める。

 そう、今回の朝倉宏景が描くのは"勢い"ではなく"沈滞"。"情熱"ではなく"ためらい"。のみならず、そういったネガティブな感情を、それぞれがそれぞれのやり方で、新しい一歩を踏み出す力に変換してゆく、そのプロセスを派手な起承転結でごまかそうとせず、地味に地道に織り上げてゆく。そしてそれこそが、"新しい"朝倉宏景の読みどころ。

 SINUSは、ミツトの死で臨時停車を余儀なくされた。とは言え、勿論彼らは死ぬ訳にはいかない。バンドを一歩離れれば、親兄弟や夫婦、子ども、恋人といったSINUSとは別の日常があり、人間関係がある。
 そこに、映画やドラマのようなエンターテインメントの要素は無い。ヒーローもヒロインも、勿論勇者も存在しない。誰もが脇役のような人生を黙々と歩んでいる。
 しかしながら、ぞれぞれの人生に於いては当然ながら自分自身が主役の筈で、だからこそ、他人にはどうでもいいような些事小事で泣いたり笑ったり怒ったり落ち込んだりを繰り返している訳で、つまりは、人生というステージでは世間からどう見られようと"自分"こそがセンターであり、ならば、人生の全てを注ぎ込んできたSINUSに自分が必要か不要かは、他の誰でもなく自分自身で決めればいいではないか。

 とまで理屈づくめで考えた訳ではないのだろうが、《ミツトが右と言えば右に、左と言えば左に進んできた》5人は、ふと立ち止まった日常の中で、初めはレールを失って迷子になりかけ、しかしやがて、自分が進みたい方向に自分でレールを敷くことを知り、再びゆっくりと車輪を回し始める。
《一人一人はミツトの才能に遠くおよばなくとも、力を合わせれば強い光を放つことができる》。そう気付いた時、彼ら5人は遂に、"ミツト以外"ではなく〈SINUS〉になったのだ。読後感はただ一言。仲間って、いいもんだな。

 耳当たりのいいポジティブシンキングやギャグに頼らなくても、前に進もうとする物語は成立する。小説というものが、作家と編集者の協同作業の産物なのだとしたら、今回、全く新しい〈朝倉宏景〉を引っ張り出すことに成功した編集氏にも、僭越ながら拍手を送りたい。

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丸善お茶の水店 沢田史郎
丸善お茶の水店 沢田史郎
小説が好きなだけのイチ書店員。SF、ファンタジー、ミステリーは不得手なので、それ以外のジャンルが大半になりそう。 新刊は、なんだかんだで紹介して貰える機会は多いので、出来る限り既刊を採り上げるつもりです。本は手に取った時が新刊、読みたい時が面白い時。「これ読みたい」という本を、1冊でも見つけて貰えたら嬉しいです。