第6回 創刊号を読む 2

「ロッキング・オン」創刊号には、渋谷陽一が同誌の前身と呼んだ同人誌「Revolution」を主宰した水上はるこに言及した原稿があった。岩谷宏「エマーソンレイクアンドパーマーろん」には「「神は女です」――ボビ・ディラン/(ああ。そーすると、水上はる子なんてのもあれはやっぱし神なのだな。うーむ)」(※引用者注:「ボビ」「はる子」は原文のママ)という一節があるし、丹下雅之「アルバイト・ロック」には下ネタがらみで彼女の名を出す呆れた一文がある。また、加部燎子(「ミュージック・ライフ」で仕事していた石野真知子の筆名)「うたえないコロッケのノート」には、「この間、大貫憲章君が、今のニュー・フォークと呼ばれている一連の曲なり詞には、何かわからない部分が多いと話していた」と、後に渋谷、伊藤政則とともに音楽評論家の「若手三羽烏」と呼ばれた人物の名も出てきた。これらの軽口めいた言及には、ロックを語る者に対する執筆者たちの仲間意識のようなものがうかがえる。

 一方、「ロッキング・オン」の仮想敵である「ニューミュージック・マガジン」に触れたところもある。先の岩谷の原稿では「たとえば、NMMという雑誌の、こんぽんてきなマチガイは、すべて、各種各様の古典的実存どもが、いろんな文章書いたりレコード評書いたりしている、という点にこそあるのだ」と断定していた。そのうえで彼は、理解する能力、外的なものを鑑賞する能力と、どうしようもなく「やられる」能力は根本的に違うと書いている。岩谷が後者の能力を重視することは、ロックの愛好者(ロックに"やられ"た者)である自己から出発する渋谷の立場と響きあっていたといえる。

 それ以上に興味深いのは、渋谷陽一「アリス・クーパー試論(I)――ヤードバーズより遠く離れて――」が、明記していないものの「ニューミュージック・マガジン」創刊号を参照した内容になっていたことだ。渋谷の原稿は、黒人音楽のブルースと、その影響から白人の若者が生み出したロック・アンド・ロールやブルース・ロックの関係を論じている。なかでもサブタイトルにあるように、クリームのエリック・クラプトン、ジェフ・ベック・グループのジェフ・ベック、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジという3人の有名ギタリストが、それらのバンドを結成する以前に在籍したヤードバーズを原稿の中心にすえている。その文中に「ニュー・ロックとホワイト・ブルースはどう異なるかなんていたって象徴的な議論がなされたことからも解るが」という一節が出てくるのだ。渋谷がいう議論とは、19694月号として発行された「ニューミュージック・マガジン」創刊号の「特集 アート・ロックと白人ブルース」を指すと推察される。

 1960年代後半の米英では、サイケデリック・サウンド、フォーク・ロックなど、ロックが多様化していった(続いてハード・ロックやプログレッシヴ・ロックなどが形成されていく)。そうした新しい傾向がアート・ロック、ニュー・ロックなどと呼ばれ、中村とうようは「ニューミュージック」を名前に冠した新雑誌を作ったわけだ。編集後記で彼は「かつてはぼくも、ロックなんて低級な音楽だと思っていた。そうじゃないと考えるようになると、こんどは世間一般のロックに対する偏見・蔑視が気になってくる。気になってくると、ヤイノヤイノいわずにいられない性分で、それが嵩じて、雑誌を出そうというところまで来てしまった」と語っていた。ロックの新しい波に関心を持って創刊に動いたわけだ。

 ただ、中村はそれ以前から音楽評論家として中南米音楽、フォーク、ボブ・ディランなどに関する原稿を書き、ポピュラー音楽を幅広く聴いていた。19718月号で「ぼくたち自身のものとしてのロック――現場からの報告」と題した特集を組むなど、"ぼくたちのロック"という「ロッキング・オン」的でもある、聴き手が音楽を自分に引きつける同時代的なロックの聴き方を「ニューミュージック・マガジン」も共有していないではなかった。だが、同誌は、中村とうようのそれまでのキャリアを反映して、ロックの新しい波をポピュラー音楽史にどう位置づけるかにポイントを置いた。最新のニュースをピックアップし、近年の動向を歴史のなかで検討する。アメリカの「クローダディ」誌と契約し、海外での見方も紹介する。植草甚一や寺山修司など、すでに多分野で活躍していた人の寄稿や取材を盛りこむ。そのように作られた「ニューミュージック・マガジン」創刊号は、素人の作文集だった「ロッキング・オン」創刊号とは異なり、コーナーごとに原稿もレイアウトも整理整頓されたプロの雑誌だった。

 同誌の創刊号には、植草の「ニューロックの真実の世界が覗いてみたい」や、福田一郎の「ヤードバーズOBたちが活躍」というレッド・ツェッペリン(文中では「レッド・ゼッペリン」)結成の記事がある。それらのほかに「特集 アート・ロックと白人ブルース」があり、桜井ユタカ、水上治(水上はるこの変名)、中村とうようによるディスカッションが行われたのだ。渋谷のいう「象徴的な議論」である。当時、ニュー・ロックとアート・ロックの区別は曖昧であり、ディスカッションの論点だったアート・ロックに白人ブルース(渋谷原稿でいうブルース・ロックに近い)を含めるかどうかも人やレコード会社によって見解が分かれていた。「ニューミュージック・マガジン」の議論が、アート・ロックや白人ブルースが隆盛だった1969年に行われたのに対し、「アリス・クーパー試論(I)」はすでに述べた通り、渋谷がロックの過渡期ととらえていた3年後に書かれている。

 渋谷は、「ニューミュージック・マガジン」的な客観主義、文化人的議論を嫌い、ロックを愛好する当事者が語る場として新しい雑誌を立ち上げた。だが、「ロッキング・オン」創刊号の彼の原稿は、黒人ブルースと白人によるブルース・ロックの関係史をヤードバーズ以後に着目しつつ考えるといういかにも音楽評論家的なテーマのためか、「ニューミュージック・マガジン」創刊号の議論を受け継いだようなところがある。今読み比べると、それが面白い。

 渋谷は「アリス・クーパー試論」を次号以降も書き継いでいく。だが、それを念頭に書き始めたと想像されるアリス・クーパー自体は文中で話題にならない、不思議なシリーズとなっている(クーパーについて直接書いたのは、なぜか197312月号の「アリス・クーパー試論番外編1」であり、しかも末尾に「未了」とある)。それはともかく、「アリス・クーパー試論(I)」では、黒人ブルースの影響下で自己表現の衝動を持った「白人ヤンガー・ゼネレーション」が、ロックを誕生させた経緯をふり返る。そのうえでエルヴィス・プレスリー初期のロック・アンド・ロールに意義を認め、後期の商業化に対する低評価を示す。

 1980年代に渋谷陽一は、「僕は売れるポップ・ミュージックが大好きだ」(「ロッキング・オン」19854月号)と発言する一方、ジャーニーやフォリナーなどの売れていたバンドを産業ロックと呼び批判した。売れるものに対する彼の二面的な態度は、「アリス・クーパー試論(I)」にすでに萌芽がある。渋谷は、ロックが一般性獲得を目指すのはノーマルなことだという。ただ、プレスリーの変化などをめぐり、一般性を「自分達の衝動を冷静に見つめ直していく事によって得る」のはいいが、「虚構としての不特定多数の一般的な聴衆といったものを仮想して、それに媚びを売る」ことは否定するのだ。売れるものに関するその種の峻別を、渋谷は後年にも行うことになる。

 また、「アリス・クーパー試論(I)」は、黒人ブルースを解釈し続ける白人ブルース・ロックの姿勢をブルース信仰、ブルースの物神化だと批判する。それに対し、ヤードバーズ出身のクラプトン、ベック、ペイジは「自己固有の音楽世界をある程度構築した」と一応の評価をみせ、ロックのブルースからの自立を望むような論調が続く。「批評する側にもそういった危険はついて回る」と書き、「ブルースとの癒着と聖化」が、ミュージシャンだけの問題ではないことを指摘するのだ。

「ただロックが自分達の内にそのブルースに拮抗しうるものを形づくる為には、ブルースが生まれる時に持ったのと同じような生みの苦しみを味あわなければならない」と渋谷は、ロックに向けて語る。同時に「黒人ブルースを形成するところの衝動をリロイ・ジョーンズ風にブルース衝動と呼ぶなら、我々は自分の中にそのブルース衝動をバイ養しなければならないだろう」と、「批評する側」の「我々」の問題としてもとらえ直すのだ(ここでいう自分の中の「ブルース衝動」は、やがて渋谷が批評用語として多用し始める「初期衝動」につながるものだろう)。この引用部分には、ブルースの影響下で誕生したロックが自立するための議論が、ロックの聴き手によるロック評論がロックと並ぶ自立的な表現になるための議論と、いつの間にか重ねられている気配がある。その意味で「アリス・クーパー試論(I)」は、渋谷陽一らしい、「ロッキング・オン」の出発にふさわしい原稿だったと思える。