第11回 本を買う理由、方便、言い訳。
「本を売って、お前さん何を買うんだい?」
「そりゃあ本だろ」
「じゃあ、最初から本売らなきゃいいじゃないかい」
「そういう訳にはいかないだろ、酒だって飲みたいし」
「だったら酒を売りゃいいじゃないかい」
「どうしてだよ、金を欲しいから金を売るのかい、訳わかんないよ」
そんな古本屋店主の旦那とおっかさんの会話を妄想する。元々本が好きではじめたような商売なので、本を売って稼いだお金でまた本を買っている。知り合いの古本屋でビアスの「悪魔の辞典」を買った数週間後にはまったく同じ本に出張買取で出会う。こうなるのだったら買わなきゃよかったかなと思いつつも不思議な縁にほくそ笑む。酒を飲み、本を買い、飯を食う。それ以外にお金の使い道がほとんどない。服はめったに買わず、買ったとしてもファストファッションで済ましてしまう。ネットショップで買物することがないので、クレジットカードも持っていなかった。(去年の春にやっと作った)
お客さんからツイッターにメッセージを頂く。「日本の古本屋に港野喜代子さんの『凍り絵』という詩集がでています。貴重な本であの値段だとなかなか安いと思いますのでよかったら」と。ここまで言われてしまうと注文しない訳にはいかない。港野喜代子、兵庫県生まれの日本未来派の同人。大阪文学学校の講師も務めた方だったそうだ。彼女の詩との初めての出会いは尾道での仕入だった。『魚のことば』という版画絵が表紙の小さな詩集。手にのせると妙な心地よさがある。読む前からどきどきする温度感を持っている。
今借りて来たばかりの紙幣(おさつ)に
せめて星がすかしを入れて
霧が脱脂をしてくれるまでは家へ入るまいと
わたしは家の前の畑の暗がりに立つていました
小さいのが「お母ちやんは?」
大きいのが「帰るに決まつている」
安心し切つて灯りの穴んこに浮んでいる子供達
わたしは、天の灯りでもう一度紙幣をかぞへて
家の灯りへ入りました
港野喜代子「紙幣」
天の灯りを受けた紙幣を持った母は、家の灯りへと帰ってゆく。ほんの一瞬の出来事が詩の世界で永遠となっている。あっという間に虜になってしまった。また、その本には著者直筆のサインと共に小さな詩がひとつ書かれていた。
両手でかばいたい
小鳥よ
霧の時間だ
今日を無事にくれてゆけ
注文した『凍り絵』も言わずもがな素晴らしい一冊だった。かつて生きた詩人の声が未来から届くような瞬間に出会うと、たまらなく幸せな気持ちになる。
同じ本を何冊も買っているお客さんもいる。尾道で絵描きをしている友人客の一人は安部公房の『砂の女』の文庫を買っては、布教活動として出会った人に無料で配っているという。またあるお客さんは各国さまざまな翻訳の『星の王子さま』を買い集めている。多言語を喋れるような人には見えない。が、そのコレクションを見せてもらったとき、物体としての本の魅力に改めて気づかされる。かく言う自分も好きな本は何冊も買ってしまうタチだ。
僕の地元、福山を生きた詩人木下夕爾。彼の処女詩集『田舎の食卓』は今や高額な値段で取引されており、おいそれと買うことができない。福山の古本屋がかつて出版した復刻版があるが、こちらも絶版。数千円はするので、気軽に買うことはできない。店に立ち寄っては、帳場裏の一番高いところにある『田舎の食卓』を取ってもらう。しげしげ間近で眺めては帰る。六〇〇〇円か、買えないこともない。けれど、もっと安く販売しているところもあるのではないか。それだけのお金があれば、二回ほど飲みにいけるだろう。出版した当の古本屋が定価よりも高値で販売しているのがうらめしい。そんな思いをめぐらし続けたある日、店の近所で呑んだ勢いで買ってしまった。店の主人は赤ら顔の僕を苦笑い気味に見ていたかもしれない。
厚ぼつたい本を閉ぢるやうに夏が終つた
宿題を終へた中學生のやうに
僕らはもう思ひ出さないだらう
地の果に消えた
幾何學的な線をもつた雲の連なりを・・・・
僕らの手にあるのは
乾からびた美しい昆蟲の死骸ばかりだ
木下夕爾「秋のほとり Fragments」
ついに手に入れた詩集の頁をめくると、そこには季節の色があった。寂しい青年の横顔を通る風があった。本を持つ手が震える。木下夕爾は文学者の夢を持って上京したものの、家業の薬局を継ぐため故郷の福山に帰った。それから生涯、町を出ることはなく詩や俳句を書き続けた。もしかしたら僕は、京都の大学を卒業し尾道にやってきた自分と重ね合わせてみているのかもしれない。井伏鱒二が疎開で福山に帰ってきた時に撮られた、記念写真。一緒に写る夕爾の顔を眺めては、たまらない思いになる。彼は詩人であり、ひとりの文学青年だった。
それからというものの、木下夕爾関連の書籍で手に入りそうなものはすぐさま買い求めた。『田舎の食卓』もついこの間、二冊目を買ってしまった。これは必要経費だと言い聞かせている。