第12回 四人の花

 実家の庭には兄弟四人それぞれの木が植えられている。七歳上の姉は桜、六歳上の兄は栗、僕はさくらんぼの木、妹は夏蝋梅。今は亡き祖父が僕たちのために植えたものだ。女性は花を、男は実のなるものをという趣向らしい。姉の桜は日当たりの関係なのか、毎年咲くのが少し遅い。ああ、もう春なのかと慌てて後を追いかけるように咲く。姉自身もそのことを苦笑いしながらも受け入れている。彼女らしい桜だと思う。兄の栗はまだ青いうちからぼこぼこと実を落とし、庭の草むしりや掃除のときに間違えて触れて痛い思いをした。栗の花は独特の匂いを放つ。その匂いは男性のあれの匂いによく似ている。僕にすれば、アレの匂いは栗の花に似ているという順番だったが。

 高校生時代、僕の文学の水先案内人は兄だった。「『ノルウェイの森』は大学生になったら読みな」「『こころ』はちょっとBLぽいんよ」と軽い調子で話してくれた。失恋した時に太宰治『人間失格』を読んだのも兄の影響だった。日本文学の取っ掛りを作ってくれたのが兄だった。

 兄がまだ実家で暮らしていた頃、部屋には誰も容易に入ることは出来ず、普段は襖の向こうをめがけて声をかけるのみだった。時々、入ることを許されると妹と恐れつつもわくわくしながら部屋じゅうを眺める。天井の近いところにX JAPANのhideの切り抜きが額に飾られていた。隅にはエアーガンのライフルと木刀。雑貨屋ブルドッグで買ってきたよくわからない置物、その隙間にあった『キノの旅』シリーズと太宰治の文庫本、大量に積まれたゲーム雑誌。そこは兄の秘密基地のようだった。

 兄は作品に影響される人だった。「ハウルの動く城」を観たその日の晩、食卓で兄は手を厳かに組み、「うまし糧を」と言い始めた。ハウルのつもりらしい。大食い早食い選手権の番組を見れば家でさっそく真似をして、ペットボトルの一気飲みをした。映画「ピンポン」を見て素直に卓球部へ入り、一ヵ月もしないうちに退部した。ギタリストのhideの真似をして、ビーカーをコップ代わりにして麦茶を飲んでいた。一緒に暮していて愉快な人だった。

 庭を見渡せば、祖父と祖母が植えたありとあらゆる植物が季節ごとに花をつける。水仙、椿、花水木、ツツジ、紫陽花に芙蓉。金木犀に彼岸花。山茶花は兄弟の木登りでいじめぬかれ、兄と姉は双方の悪口を木に彫りこんだ。僕は不得意だったので、登ることも悪口を彫ることもなく大人になってしまった。

 姉の後ろ姿を時々思い出す。受験勉強のため、毎日机にかじりついていた姉の後ろ姿。僕は妹を引き連れて、襖を開けては様子を伺った。姉はひたすら背中で答えた。僕は子どもながらに姉の焦りのようなものを感じとった。彼女の目の前にある窓は結露で白く曇っていた。

 小学生のとき、読書感想文の課題で本選びに困った僕は姉におすすめの本を聞いたことがあった。彼女がおすすめしたのは『霧のむこうの不思議な町』。彼女のお気に入りの一冊だった。一生懸命この本の面白さを語ってくれたにも関わらず、最初の数ページで挫折してしまった。僕は霧の向こうには行けなかった。彼女は無事、霧のむこうの地方大学に滑り込みで合格した。引っ越しも慌ただしく、入学式の直前となった。姉の桜は控えめに咲いていた。

 夏の朝はラジオ体操の匂いがする。と言ったのは友人だったかお客さんだったか。小学生の夏休み初日、妹とはりきってラジオ体操にでる。近所の吹きさらしの駐車場。待てど暮らせど、近所の子どもも大人たちも来ない。今日は開始時間が違ったのかなと朝を佇む。ぼんやり空に残る月を見上げる。実はラジオ体操は翌日からだった。そんなことも知らずに二人で夏の匂いを嗅いでいた。あれがラジオ体操の匂いだったか。

 妹が生まれた時に祖父はすでに他界していた。妹の木だけ父が買ってきたものだ。普通の蝋梅と夏蝋梅を間違えて買ったもので、妹はそれを小さな頃から嫌がった。夏に咲く花は黒く地味だが、僕はこの木が好きだ。秋になると見事に黄色く紅葉する。それは静に華やかだ。そういう人生もあると思う。咲くばかりが花ではないと教えてくれる。

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