第六回 女の結婚、出産、育児:「母性」と生きがいの行方(中編)

【対談ゲスト:堀越英美さん(フリーライター)】

 

PTAの存在意義

平山(以下、平) 堀越さんにPTA(注1)のことも聞いてみたかったんです。梅棹忠夫さんは「母という切り札」(『女と文明』、中公文庫)のなかでPTAじゃなくてMTAだと書いてますよね。ペアレンツのPじゃなくてマザーのM、マザーしか参加しとらんやろ、と。

堀越(以下、堀) 男性は会長だけで、あとみんな女性というのはありがちですね。大昔は「父兄会」(注2)という組織もあったくらいですから、父親が主力だった時代もあったようですが。あと重要なのは、「父兄会」は保護者しかいない。

 なるほど。

 PTAだとT(teacher)、学校の先生も入ってる。とはいえ役員は保護者だけなんですけど。アメリカのPTAを日本に導入したときに、戦前の小学校の「母の会」が実質的にそのまま継続してしまった感じですね。そもそも「母の会」もPTAも、保護者サイドから自発的に生まれたものではなくて、国家の号令のもとに設置されたものなんです。1931(昭和6)年に「大日本婦人連合会」(注3)が発足して、政府による婦人の組織化がこの時代から始まりました。このあたりは『動員される母親たち――戦時下における家庭教育振興政策』(奥村典子、六花出版)に詳しいんですが、戦時下における家庭教育、母親を支配下に置くことで、子供達を軍国少年に育てようというもくろみがあったようなんですね。

 うんうん。

 それで文部省主導で「母の会」という小学校の母親の組織化が進められた。『PTAという国家装置』の著者の岩竹美加子さんによれば、これは母親の奉仕と修養を目的とした会だったようです。そしてPTAもおそらくその流れの中にある。「大日本婦人連合会」があり、「母の会」(注4)があり、全部官製ですからね、女性組織は。母親たちにしても堂々と外に出られる機会ができて、それが生きがいにもなりえた。

 そうか。社会とつながっている感というか。

 そうそう。それがおそらく大きくて。お姑さんにも怒られずに外出できて、社会活動ができるという。そういう意味では女性にも歓迎された部分はあったのかもしれないですけど。

 それが戦後はPTAに繋がる。

 直接ではないけど精神が受け継がれた部分はあると思う。だからこそ、PTAというのはずっと母親メイン。本来ならペアレンツだから「父兄会」みたいに男性がたくさん参加していてもよいところが女性中心になっていったのは、国家が母親を統率するトップダウン型の組織として作られたからではないでしょうか。

 なるほどね。ちなみにPTAって具体的に何をしているんですか?

 学校行事の手伝いとか登下校の見守りとか......私も旗振りとかやりました。それはまあいいんですけど子どもと全然関係ない作業もけっこうあるんです。講演会の設営とか、来賓の接待とか、ママさんバレー(注5)の手伝いとか。意味わからないですよね(笑)。

 いろんな仕事があるんですね。あと、ベルマーク活動とか?

 そうそう。「ベルマーク教育助成財団」(注6)という組織があって、当初はへき地の学校の援助という崇高な目的があったみたいです。ただ、仕事休んでベルマーク切って貼って送っても数百円分くらいにしかならないから、お金を直接寄付させてくれ!というお母さんも多い。

 一定数集めたら車椅子を買えるんでしたっけ。

 よっぽど集めたら車椅子ももらえるかもしれないけど。そこまで集めるには何年かかることか。

 ですよねぇ(笑)。でも今もありますよね。

 あります。今もバリバリ集めてますよ。結局それがPTAのなかで一番楽だから、必ず役員をやらなければならないならそれが一番ましだという人が結構多くて。だから続いているところもあるのかも。

 なるほど。

 町内会の祭の手伝いとかもあって。小学生すら行きたがらない謎のお祭イベント。

 え? それもPTAがやるんですか?

 PTAが、町内会が企画したイベントの下働きみたいなことをやらされて。

 ええ~、ひどくない?

 ひどいですよね。その時はみんなで死んだ魚の目をしてました(笑)

 (笑)

 最近は中学生も内申に関わってくるからボランティアで寄越されて来るんだけど、中学生たちも死んだ魚の目で。イキイキしているのは町内会のジイさんだけ(笑)。

 じゃあ町内会の人が駆り出してるわけか。

 そうかもしれないですね。縁日を運営するんだけど、売上は全部町内会の人に渡さないといけなくて。このお金の流れ、どうなってるの!?って。

 ひどいなあ。PTAの役員はどうやって選抜されるんですか?

 立候補で決まればそれに越したことはないけど、まあなかなかいないんで。よく言われるのが入学式の日に体育館にお母さんを閉じ込めて「決まるまで帰れま10(テン)」形式ですね。あとはくじ引き。私が経験したのは、無記名で会長と副会長を推薦させて名前が出た人に選考委員が片っ端から電話をかける方式。選考委員の人も決まるまで辞めさせてもらえないから、もう必死で説得してくる。それで嫌々やらされている人が割と多くて。

 「介護があるのでできません」とか言っても許されないという話は聞いたことある。

 そうそう。吊し上げが始まったりとか。免除してほしくばみんなの前で病気の証明を出せ、説明して全員から許可をもらえ、みたいな。

 怖! PTAをなくそうみたいな話はあったりする?

 ありますし、実際になくなったところも最近はあるらしいです。日本PTA全国協議会という全国組織が小学生一人当たり年10円ずつ全国のPTA会員から集めてるんだけどそこで不正があったというのが報道され始めて。そういう流れもあって「無くしてもいいんじゃないか」なんてところも出てきているらしくて。

 ほう。

 でもそれは本当に最近の流れです。たぶん働くお母さんが増えたからというのもあるんだと思います。そこら辺は昔ながらの母性幻想が共働き化で解体されつつあるのかな。十数年前とかは本当にエライことでしたよ(笑)。「戦時中かな?」って。

 お子さんが二人いる場合はそれぞれであるってことですよね。

 そうなんですよ。保育園にも保護者会はあるんです。うちの子どもが通ってたところは割と平和な、やるにしても保育園内の夏祭りでヨーヨーすくいやったりとか、みんな働いているから大したことはやらないし、強制的にやらせることもないし、平和に保護者会の役員を何回かやって、これならPTAも楽勝だなって思っていたら、とんでもなかった(笑)。

 話には聞くけどやっぱり恐ろしい組織だ。ちなみに小学校と中学校だけ?

 公立の小学校、中学校が特に大変です。学校の中で完結してないっていうか、町内会とか地域のしがらみでがんじがらめで自由にやれないんですよ。上にも市のPTA連合や都道府県のPTA連絡協議会といった上部組織がいくつもあって、そこがやれって言ったことをやるしかなくって。やらないという選択肢はない。まさに母親の組織的支配が完成している。いけない、この話は熱く語りすぎてしまう(笑)。この話ばかりじゃよくないですよね。

 いやいや。これも昭和100年の歴史ですから。

 全然自由がないですね。PTA会長になって変えればいいじゃんと思うかもしれないし、思ってたんです、私も。でもPTA会長にそんな権限はないらしいということがわかって。

 恐ろしい。でもまあ、だんだん変わってくるのかな。

 そうですね、最近はパンデミックを経て合理化が進んでいますし、SNSや新聞報道なんかで「退会してもいい」という事実が広まりつつあるおかげで、だいぶましになってきているとは思います。

SNSが母にもたらすもの

 SNSというのも割と母性幻想からの解放に大きい役割を果たしてる気が、私はするんですよね。「これ、やらなくていいことだよ」って知ることができる。梅棹忠夫の言葉を待つまでもなく(笑)。それで若い人たちがだんだん解放されているところはあるのかなって気がします。

 確かに。みんな時間がないなかで集まって話すのはなかなかできないもんね。SNSなら簡単に繋がれるから。

 そうですね。あと、学校のママ友的な関係だと緊張してるんです(笑)。声が高いの、みんな。奥様声。

 ははは(笑)。子どもを人質にされてるようなところがあるのかな。

 そうそう、やらかしちゃいけない、みたいな縛りがある。だから地域のママ友どうしって本音を言えるわけでもなくて。そこはSNSの力だったと思うんですね。地域の目がない場所で本音を言える。

 しがらみなく。

 そうそう。しがらみがなく。それは大きいと思うんです。さきほどの話に戻りますけど、官製の婦人組織を政府が作っていったのも、同調圧力が民衆を支配する力としてかなり強力だからだと思うんですよね。

 ああ、そうですよね。

 「ご近所の目」が一番怖い。

 意外なほどに女性とか文化人がすごくノリノリですよね。自ら買って出ているっていう辺りがなかなか闇が深い。

 そうなんですよ。PTAも似たようなところがあるんですけどね。婦人をまとめる立場に立つと、そこでやりがいを見出す人もいるし。

 うん。

 下っ端は同調圧力でますます自由には振る舞えなくなってしまう。国家の価値観を内面化するしかなくなってしまうところがあって。だから機能はしたと思うんですね。官製婦人会っていうのは。

 そうね。

 戦前だとまだ尋常小学校しか出ていない女性も多かったでしょうし、そういう層には言論で母性幻想を煽っても届かない。婦人会が「お母さんかくあるべし」を広めた部分は大きかったんじゃないかなと思うんですよね。

 うんうん。そのうち隣組(注7)とかも出てきて。

 そうそう。隣組もね。

 やっぱり地域ですな(笑)。

 地域ですな(笑)。日本人に思想をインストールするにあたって地域の力ってすごく大きい。

主婦にとっての雑誌

 話を聞いていたら、戦争があって統制されていく、縛られていくというのはわからなくはないんだけども、戦後になっても縛られていくのは、やりがいを求めてのことなのかしら。大きなやりがいを見つけようとするとハードルがあるけど、身近なところで探せば育児になるということか。

 それだけ母性が神聖視されていて、逸脱が許されなかったのかもしれない。現代の女優さんでも「早起きして子どものお弁当作ってます」「PTAちゃんとやってます」と言わなければならない空気があるくらいですし。まして昭和の一般人がその空気を打破するのは難しい。結局「崇高なお母さん」が自己実現として一番身近で、実現可能性があるから、そこを目指すのが手っ取り早い。

 やればやるほど成果が見えるっていうのもいいですよね。

 そうそう。しかも社会的に褒められることだし。役割としてね。

 60年代以降になってくると趣味のサークル的なものとか、投書好きの主婦とかも増えてきたりして、新たなつながりも出てきますね。

 雑誌文化が既婚女性をつなげた部分って大きいでしょうね。子どもの頃の記憶で覚えているのが『婦人公論』(中央公論社)(注8)。80年頃の『婦人公論』って非常に分厚くて。それで私の記憶だと大半が読者投稿手記だったんですよね。そこに書かれていることは「ドキュメント女ののど自慢」(注9)的な......って今の人には伝わらないと思うんですけど。

 (笑)

 夫の暴力と借金に耐えてとか、自分の両親と夫の両親の介護でボロボロです、みたいな苦労話が多くって、それ読んで自分は絶対結婚しないって思ってました。既婚女性は全員不幸だと。

 『婦人公論』で学ぶとそうかもね(笑)。

 他の雑誌も読んだほうがよかった(笑)。でも、今その事を思い出して思ったのが、昔のお母さんってそんなにじっくり本読む時間ないじゃないですか。だけどあの分厚い『婦人公論』がちゃんと売れていたっていうのは、自分と近い立場、近い苦しみを抱えている人の文章を切実に求めていたというところが大きかったのかなと。

 うんうん。

 だからこそ主婦が投稿して主婦が読むっていうサイクル。インテリエッセイストじゃなくって、同じ既婚女性の「自分はこんなに耐えて頑張っている」という話を読みたかったんだろうなって。今にして思うと。

 確かに。

 厚みが完全に文芸誌でしたもん(笑)。

 すごいですね。平綴じですよね。

 平綴じです。今の『婦人公論』はグラビアページがいっぱいあってきれいな雑誌ですけど、当時は本当に婦人の手記が多くて。しかも一人の投稿がまた長いんですよね。往年の『ROCKIN' ON』(注10)の3倍くらいある。

 大論文が載っている(笑)。

 大論文(笑)。一人6ページぐらいあった気がするんですけど。ハガキじゃなくて封書で送られて来ていたんだと思う。

 いわゆる文筆業じゃない人がそれだけの分量を書いているのがすごい。

 そうそう。逆に文筆業の人が書いた文章だったら長すぎて読み飛ばされたかも。自分と同じ立場だから読んでもいいと思えたのかな。

 まあ『中央公論』の女性版っていうところをちゃんとやっていたということなのかな。私、今一番読んでる雑誌は『婦人公論』かもしれない。職場にあってつい読んでしまう。やっぱり今も投書が多いんです。

 そうなんですね。

 大論文ではないんだけど、たぶん普通の雑誌よりは全然多くて。自分よりも世代が上の方たちだと思うんだけど、来たるべき未来に備えて読んでます......(笑)。

 上の世代だと介護とかの話?

 そうです。介護とか健康とかだったり、夫や子どもとの関係だったり。その年代になるとまたいろんな問題があるじゃないですか。

 そうですよね。確かにね。

 あとはエクササイズ的なものとかもついつい見ちゃったりしますよね。今の時代、SNSがあっても、やっぱり雑誌で交流したいっていう需要はまだまだある。

 たまに上の世代の人がSNSで今のお母さん世代に合わないことを言ってボッコボコにされているのを見ますけれども(笑)。

 (笑)

 上の世代は雑誌の方がいいかもしれない。

 そうだね。SNSは即レスだしね。

 句読点の多さを許さないからね(笑)。

 (笑)

母の呼称問題

 そうそう、昭和初期の『主婦の友』誌に〝ママさん〟って言葉が登場したといただいた年表にあったので、気になって国会図書館デジタルコレクションで〝主婦の友 ママさん〟で検索したんですよ。そうしたら、1920年からあったの。

 マジで?

 与謝野晶子も〝ママさん〟と書いてました。

 おお。

 大正時代の『主婦の友』にはママさん、パパさんがすでにあったと。

 デジタル化が進んでいくと、どんどん新事実がわかりますね。

 デジコレ(デジタルコレクション)は大変ありがたい。実例を見ると、男性の書き手による「ママさん」「パパさん」には「ハイカラぶりやがって」という揶揄を含むことが多いということも見えてくる。

 なるほどね。そういえば1939(昭和9)年に当時の文部大臣が新聞記者に「パパ、ママの呼称は日本古来の孝道が廃れる」と語って、パパママ禁止令が出るんじゃないかという噂がたったことがあったそうですね。

 これ、ちゃんと掘ったら絶対面白そうだなって。でも、そもそもお母さんって言葉もけっこう新しいんですもんね。明治時代の小学校の教科書に「オカアサン」と書かれて、そこから「お母さん」という呼称が全国に普及した。それまでは武士階級は「母上」、庶民は「おっかあ」「おっかさん」とか。階級や地域によってバラバラだったはずです。

 そうか。そうだよね。

 それが明治時代に〝お母さん〟という形で統一されて、大正時代にさらにまた差別化する形で〝ママさん〟が出てきたのかなって。

 (笑)なるほど。そういえば〝おふくろ〟っていつから言いだしたんでしょうね。

 ああ~。昭和の成人男性は基本おふくろと言う印象はありますけど。たしかにおふくろっていつからいい始めたんでしょうね。

 ね。だって〝袋〟ってすごくない?(笑)

 そのまますぎるかもしれない。確かに(笑)。

 (笑)それでおふくろに対してお父さんを親父っていうのも非対称な気がして。

 そうですね、親母とは言わない。

 男の子をもつお母さんはある時から「おふくろ」って言われて「えっ、私のこと!?」ってびっくりするっていう話がありましたが。

 最近はあまり聞かないですけどね。

 聞かないですね。     (後編に続く)

注1 PTA "Parent-Teacher Association"の略称。各学校で組織された保護者と教職員による「任意加入」の団体。1897年にアメリカで2人の女性によって結成されたことに端を発するが、日本ではGHQや極東委員会の奨励により、1947(昭和22)年6月に『父母と先生の会 教育民主化への手引』が作成され、翌年4月に全国の小・中学校の7割が設置に至った。1952(昭和27)年には全国団体が結成されるなどし、今に至る。2007年頃から強制加入、個人情報漏洩、労働搾取、不明朗会計などの問題が浮上し、連合会を解散する県や運営代行の民間企業なども生まれている。

注2 父兄会 日本国語大辞典精選版によれば「大正末期頃から、第二次世界大戦後の新教育になるまでの児童・生徒の保護者の会の通称。また、その会合。学校との連絡、学校への援助を目的とし、実質的な出席者は母親が大多数であっても、父兄会という名称が用いられていた。戦後はPTAの会合をいう。父母会。保護者会」とある。

注3 大日本婦人連合会 1931(昭和6)年から1942(昭和17)年まで存在した、軍人援護・防空訓練などのために婦人団体。愛国婦人会、国防婦人会、大日本連合婦人会を統合・結成されて誕生した。なお、解散後は報国運動団体大日本婦人会に統合された。

注4 母の会 1930年代後半、国民精神総動員運動のなかで文部省社会教育局が全国の小学校に設置を奨励した組織。父親が中心となって財政的な学校後援を行う父兄会と異なり、奉仕と修養が主眼とされた。「母の会」の組織化を進めることで、「皇国民の錬成」を担う学校教育を補完する家庭教育に母親たちを取り込む基盤の整備を目指したものとみられる。

注5 ママさんバレー 子供を持つ女性が行うバレーボールに関する活動の名称。1964(昭和39)年開催の東京オリンピックの女子バレーチームの活躍を受けて全国に普及した。1970(昭和45)年には日本バレーボール協会が発足、朝日新聞社共催による第1回全国ママさんバレーボール大会が開催されるなどし、今に至る。

注6 ベルマーク教育助成財団 通称:ベルマーク財団。朝日新聞社が創立80周年記念事業として1960(昭和35)年に始めたベルマーク運動を運営する団体。学校などで商品のパッケージについている「ベルマーク」を集めて財団に送ると、1点1円として計算され、貯まった預金で設備品などを購入できるシステム。ただ、切り取ったり集めたりする時間をパート労働に充てたほうがよほど効率がいいなどの批判もある。

注7 隣組 戦時中に各集落に結成された官主導の銃後組織。町内会、部落会の下部組織として10軒前後の世帯を1組とし、物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行ったが、同時に相互監視の役目も担っていた。

注8 『婦人公論』 1913(大正5)年に「自由主義と女権の拡張を目ざす」をコンセプトに中央公論社から創刊。実用記事ではなく、女性に関するオピニオンを掲載する雑誌として「母性保護論争」(1918~19年)や「主婦論争」(1955年)などの舞台ともなった。現在は「女性の幸せを追求する」、「年齢にとらわれない自由な生き方を応援する」をテーマにA4版の中綴じの月刊誌として発行されている。なお、

注9 「ドキュメント女ののど自慢」 1979(昭和54)年から2001(平成13)年まで日本テレビ系ワイドショー番組『ルックルックこんにちは』で水曜日に放送されていた視聴者参加型コーナー。毎回一般女性が数人登場し、それぞれの人生における困難が紹介されたのちに歌を披露する。出場者の人生ドラマの中身も審査に影響した。

注10 『ROCKIN' ON』 1972(昭和47)年、大学生で音楽評論家の渋谷陽一がミニコミとして創刊したことに始まる。1977(昭和52)年に月刊となり、1982(昭和57)年に株式会社化し、今に至る。なお、対談で堀越さんは『婦人公論』の投稿大論文を『ROCKIN' ON』のトレードマークのひとつ「2万字インタビュー」になぞらえている。

 

【対談ゲスト】堀越英美(ほりこし・ひでみ)

1973年生まれ。文筆家。著書に『ささる引用フレーズ辞典』(笠間書房)、『エモい古語辞典』(朝日出版社)、『不道徳お母さん講座』(河出書房新社)、『女の子は本当にピンクが好きなのか』(Pヴァイン/河出文庫)、『親切で世界を救えるか』(太田出版)、『スゴ母列伝』(大和書房)など。翻訳書に『世界は私たちのために作られていない』(東洋館出版社)、『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界』(翔泳社)、『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?(晶文社)、など。