第十一回 昭和100年と明治100年

 昭和100年の前に明治100年があった!

 2025年が昭和100年に当たるとして始まった本連載だが、周囲を見渡してみるとどうも思ったほどの盛り上がりがないような気がする。まだ「戦後80年」の方が、戦争を繰り返してはならないという明確なイシューがあるぶん届きやすいのか、特別番組なども組まれている。

 試しに、「昭和100年」「昭和百年」を「出版書誌データベースBOOKS」で検索してみると、出版物は53点、Amazonでは70件出てくる(11/1現在)。

 内閣府が6月下旬に開設した「昭和100年」ポータルサイト

によれば、イベントは地方を中心にぽつぽつある程度。ニッポン放送や日経新聞などが協賛する「昭和100年プロジェクト」や、「昭和100年出版プロジェクト」なども不勉強ながら調べてみるまで知らなかった。

 実はかつて大々的に盛り上がった100年がある。

 1968(昭和43)年の「明治百年」、こちらははっきりと国家事業だった。

 日本武道館で政府主催の「明治百年記念式典」が開催され、昭和天皇・皇后をはじめとする約1万人が参列。歴史博物館(現国立歴史民俗博物館)が建設され、維新百年記念公園が造成され、全国10か所の森林公園が整備され、図書館が新設され、恩赦がなされ、農業祭、商工祭、芸術祭、体育祭が開催され、記念切手、映画、歌、テレビ番組40本近く(NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」などもそのひとつ。ちなみに司馬遼太郎『坂の上の雲』も同年連載開始)が作られた。

 「明治百年」で国会図書館サーチを引くと出版物は4,840件。なにしろ原書房が立ち上げた「明治百年史叢書」だけで474タイトルもあるのだから気合いの入り方が違う。

明治100年祭開催の経緯

 明治100年を祝うきっかけは、1955(昭和30)年にまでさかのぼる。

 フランス文学者で文明論者の桑原武夫が、歴史家の松田道夫との「新春対談 日本文化への発信」(『日本読書新聞』1955年1月1日号)のなかで、上からの抑圧に耐えた不幸な民衆という明治観には疑問があるといい、明治の学者たちがこぞって仕入れた西洋的なものの蓄積を活用すべきだと主張した。それを踏まえて桑原は翌年の元旦の朝日新聞に「明治の再評価」を発表。「明治以後の日本は、たしかに多くの欠点と矛盾をもっていたが、しかも明治の革命は巨視的にみて、ひとつの偉大な民族的達成であったと認めるのでなければ、私たちに希望はないのである」と書いた。おりしも神武景気が始まった「もはや戦後ではない」(中野好夫『文藝春秋』1956年2月号)時期、今の日本の繁栄の源には明治の「民族的達成」があるという論旨で、かなりストレートな「栄光の明治」式懐古である。

 これを受けて、中国文学者で批評家の竹内好は1960(昭和35)年2月15日号『週刊読書人』に「1968年を目ざして、論壇が共通の課題を設定すること、その課題は、明治維新百年を祝うべきであるか祝うべきでないか、祝うとすればどういう形で祝うべきか」(「"民族的なもの"と思想六〇年代の課題と私の希望」)という問いを立てた。但し竹内は、「明治維新は「未曾有の変革」を意図し、また実現したものであるが、明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」との視点に立っていた。つまり打ちこわしや自由民権運動など反動的な民衆運動も含めた明治像を論壇共通の議題として提示した。これを機に、『思想の科学』、『中央公論』、『朝日新聞』などで、明治論、明治100年論、近代化論などが活発に交わされた。

 しかし、『日本史研究』、『史学雑誌』、『歴史評論』、『歴史学研究』などの歴史学会誌が反発の声を上げた。曰く、「明治百年祭」は1940年に行われた「紀元2600年祭」(神武天皇即位から2600年に当たるとして記念行事が行われた)を思わせて軍国主義的な発想である。また、明治からの100年間を進歩と発展という視点でしかみておらず、過去の侵略戦争に対する反省を欠いている。戦後歴史学者の遠山茂樹は「戦前では、研究者が研究結果の政治的に悪用されるのを阻止することができず、その結果研究の自由が侵され、研究者が権力に従属するといった事態が生れた」ことへの反省から、学問の社会的責任を強く訴えた。しかし、小難しい議論とは別にデパートの催事や企業、地方紙などあちこちで「明治100年」が謳われるようになり、明治懐古ブームが到来した。

 1966(昭和41)年3月、いわば世間の声に押されるかたちで百年祭記念式典に関する質問主意書が衆議院で提出され、政府による明治百年記念事業が動き始めた。

 そして晴れて1968(昭和43)年10月23日、日本武道館で記念式典が執り行われたわけである。

 ただ、興味深いことに式典自体は意外にあっさりしたもので、国民の関心もあまりひかなかったようだ。当日になって「何のおめでたいことがあったの?」と首を傾げる人もいたという。ただ、「今年は明治百年記念の年ですが、ご存知ですか?」という世論調査(『明治百年記念にたいする世論調査』1968年3月)には実に92%もの人が知っていると答えていたというから、認知度は高かったようだ。

明治100年祭、そのとき女性は

 ところで、ふと疑問に感じないだろうか。

 登場しているのは男性ばかり、女性たちの姿はどこへ? と。

 実際、管見の限り女性に焦点を当てた企画は「女性とモード」(『国際写真情報』1968年4月号)、「明治百年女性昨今」(『漫画見る時局雑誌』1968年1号)など、やや表面的なものばかり。女性史として正面から光を当てたのは読売新聞で、「おかあさんの100年史」(1968年1月4日~5月25日)と題し、「明治女の底力」「暮らしの開化」「良妻賢母」「新婦人の進出」「大正の谷間で」「自由のいぶき」「風雪の昭和」など全79回の連載を展開した。最終回「平和の願い もう黙っていない」では、主体的に社会問題にかかわる現代の「おかあさん」について触れている。女性ではなくおかあさんであることに少々引っかかるが、この切り口に頼らざるを得なかったことは想像に難くない。女性全般を取り上げるとどうしても負の歴史に触れざるを得ないからだ。

 遡れば、近世には女性天皇が存在していたし、「奥」の女性たちには高位へ昇進する道もあった。が、明治に入ると女性はことごとく公的、政治的空間から排除されてしまった。婚姻後に夫の姓を名乗るよう定められ、財産管理や訴訟は許されず、大学に行けず、選挙にも参加できなかった。明治に始まる進歩や発展について語るなら、寝ずに働く女工さんや家業や子守に明け暮れる農村の少女、痛ましい女郎屋の女たちなくしてはありえないが、世界に自慢できる存在ではないということなのだろう。ちょうどこの年、山本茂実『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』が発表され、長野県で野麦峠に碑を建てる計画が持ち上がった際、「いまさら、歴史の恥部をさらす必要はない」などという意見が出たという。恥部ですと!

 じゃあ「明治100年」って結局は男性史100年なのね。

 ......というツッコミは、少なくとも大っぴらにはされなかった。

 というのも、当時の女性たちはもっと現実的で大事な問題に奔走していたからだ。公害や教育問題、物価値上げ反対運動......生存権に関わるこれらの運動は、女性たちを連帯させ、後のウーマンリブにも一部つながっていく。1968年の女性たちは100年前を懐かしむほど暇じゃなかったのである。おかげで、公害対策基本法や消費者保護基本法など、安心安全に暮らせる今があるのだから、彼女たちにはまことに感謝しかない。

 ちなみに、明治100年の盛り上がりが忘れられなかったか、2018(平成30)年に明治150年という企画が立ち上がりロゴマークも作られたが、不発に終わった。もはや明治はあまりにも遠かった。

女性の昭和100年とは 

 では、女性にとって昭和100年とはなんだったのだろうか。

 ひとつ言えることは、女性が労働者として、また消費者としてクローズアップされた100年だったということ。

 それまで生計の手段でしかなかった労働が、中流階級の女性の自己実現の手段にもなったのが昭和初期の頃。事務員や電話交換手、販売員などあくまでジェンダー化された職種に限られたものの、実家を出て、自ら家計をやりくりすることで、女性たちは自立を意識し、社会に目を向けるようになった。

 戦中になると、徴兵された男性の代わりに軍需工場や農業の働き手となり、支援物資の準備や産児報国など「母」的役割も期待される。

 戦後には、GHQ主導により男女共学、女性参政権などが実現。男女平等に胸を膨らませて社会に羽ばたいたものの、ほとんどの女性は相変わらず事務員や電話交換手などの補助的職種に就いた。

 高度経済成長期、夫の収入だけで家族が生活できるようになると、専業主婦が登場する。電化製品の発展で余暇が増えた女性たちは、メディアなどを駆使して消費者運動、ウーマンリブ、主婦論争など、身辺問題や女性の生き方に関心を向け始めた。一方で、家庭の購買担当として消費の「王様」としての女性が脚光を浴び始める。

 男女雇用機会均等法が施行されたのは1986(昭和61)年。これによりコース別制度が導入されたが、ほとんどの女性は一般職(補助的事務)となり、むしろジェンダー化、「女女格差」を強化したとの批判もあった。なお、女性ゆえに男性と同じように昇進できないことを指す言葉「ガラスの天井」が人口に膾炙したのもこの年のことだ。

 バブル景気になると、女性たちはブランド品、グルメ、海外旅行などの消費を加速させたが、実情は非正規雇用が半数以上で、バブルが弾けると真っ先に首を切られてしまった。

 その後、「失われた30年」と呼ばれる長大な景気低迷期を迎えて今に至るが、非正規雇用者は増える一方で、運よく正社員にありつけても出産や育児、介護など女性ならではのライフイベントの影響で非正規になったり、職を失ったりしている。

 こう見ていくと、戦前、戦中、戦後とも女性は雇用の調整弁として扱われ、消費活動の担い手としてばかり評価された100年といえるかもしれない。そしてそれは今も連綿と続く悪しき傾向である。

 

 とはいえ、である。

 2025年に生きるわたしたちは「昭和100年」を話題にできるくらいには、少し余裕が生まれているのではないかとも思う。それは、社会が公平になったからというよりも、インターネットをはじめとするインフラの発達の恩恵が大きい。小さな声が拾われたり、時間的、環境的制約があって社会参加できなかった女性が参加できるようになったり、テクノロジーの進化によって不公平が可視化され、少しずつ人々の意識が変わってきたのだ。

 とくに昨今のコンプライアンス重視が叫ばれるが、その流れのきっかけは2017年の#MeToo運動だろう。それまでも、セクシュアル・ハラスメント裁判(1989年)など女性史にはいくつかのエポック・メイキングはあったが、世界的なうねりとなったのは#MeTooで、思えばたった8年前のこと。しかし、これにより多くの女性が我慢したり闘っていたことが表に出始めた。また、男性のジェンダー化に着目した男性学や、性的マイノリティの研究、失敗学やケアの倫理といった今まで顧みられなかったテーマに光が当てられている。この傾向は今後、さらに強まることだろう。

 

 読売新聞「おかあさんの100年史」最終回は「平和を願い、生活を守るおかあさんの足なみは、つぎの百年史の上にも、力強くしるされていくことだろう」と締められている。

 では、「つぎの百年史」こと2025年のわれわれはこう言おう。

 平和を願い、生活を守るのは、おかあさんでない女性も、男性も、LGBTQA+のひとたちもだよ、と。

 大仰なお祭りよりも、穏やかな日常を淡々とおくることの方が実は意外と難しい。

 それを叶えるためには、皆がそれぞれの場所で地道な努力を重ねることが肝要ではないかとあらためて思う、昭和100年のこのごろである。

 

参考文献

・内閣府『明治百年記念関係行事等概況』内閣府、1968年

・宮本司「明治百年祭の道程 -1960年代における日本戦後思想史考察の一ケース・スタディとして-」『明治大学人文科学研究所紀要』(83)、2018年

・梨本紫乃「明治百年:大衆社会における多様な歴史観とつくられる歴史像」『アジア地域文化研究』(18)東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会、2022年

・『明治百年問題 : 「明治百年祭」は国民になにを要求するか』青木書店、1968年

・日本基督教団宣教研究所・社会委員会 編『明治百年と神社問題』日本基督教団出版局、1968年

・「特集・明治100年のパラドックス」『朝日ジャーナル』10(46)1968年11月10日号

・小野俊太郎『明治百年:もうひとつの1968』青草書房、2012年

・鈴木洋仁「「明治百年」に見る歴史意識――桑原武夫と竹内好を題材に――」『人文学報』(105)京都大学人文科学研究所、2014年6月

・道家真平「「明治百年」と「近代化論」」『アジア遊学 』(185)、勉誠社、2015年

・小池聖一「昭和のなかの「明治」 : 明治百年記念準備会議を中心に」『日本歴史』日本歴史学会(806)吉川弘文館、2015年7月

・竹内好「民族的なもの」と思想 ―― 60 年代の課題と私の希望」『週刊読書人』1960年2月15日号(『竹内好全集』第9巻、筑摩書房)

・「明治維新百年祭・感想と提案」『思想の科学』1961年11月号(『竹内好全集』第8巻、筑摩書房)

・「特集・明治百年の女性たち」『潮』(68)潮出版社、1966年2月

・加太こうじ「新・明治百年記念特集 女性とモード」『国際写真情報』国際情報社、1968年4月号

・杉浦幸雄「明治百年女性昨今」『漫画見る時局雑誌』漫画社、1968年1月号

・日本婦人団体連合会編『婦人のあゆみ百年』大月書店、1978年

・斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年

・国立歴史民俗博物館編集『性差〈ジェンダー〉の日本史 : 企画展示』国立歴史民俗博物館、2020年