第32回:京都で自由な気持ちになる
ある火曜日。朝起きて、昨日のことを思い返す。そこで感じた気持ちがまだ自分の中に残っているのを確かめる。
京都・河原町にある徳正寺というお寺に行ってきたのが昨日で、そこを会場に、小説家の保坂和志さんのトークライブ「ダンスは見るより自分で踊る方がずっと楽しい。」が開催されていたのだった。
保坂さんが徳正寺でトークをするようになったのはいつからだったのだろうか。とにかく数年前に一度そういう機会があって、保坂さんは鎌倉の方に住んでいるから、大阪にいる私が家から行きやすい京都でお話を聞けるというのは願ってもない機会だったので、当然行くことにした。
私は大学時代に保坂さんの小説を初めて読んで、少しずつ、時間をかけて好きになっていって、ある時期からは新刊が出るたびにすぐに買って読むようになった。東京で暮らしている頃も、保坂さんのトークイベントが都内で開催される時はできるだけ行くようにしていた。小説も面白いのだが、保坂さんの話の、内容はもちろん、声の抑揚とか話しぶり(話しているうちに元の話題から逸れていって、突然途切れて、また戻ったりするのだが、全体としては全部つながっているようにも思える)がまた面白くて、行くたびに楽しかった。
徳正寺は京都の河原町、あの、たくさんの人でいつだって賑わっている街の中にある。そんな場所にありながら、靴を脱いでお堂に上がってしまうと、のどかな、静かな気持ちになる空間だ。お堂の中には小さな椅子や座布団が置かれていて、みんな好きな場所に座って話を聞く。東京から大阪に移り住んで、またこうして京都で保坂さんの話を聞いているということを面白く感じながら2時間ほどのトークを聞いて「ああ、よかった。またこんな機会があったらな」と思っていたら、再び開催されることになった。
そしていつの間にか、それは恒例のイベントになり、今ではだいたい年に二回のペースで保坂さんが徳正寺に来てトークをするようになっている。聞きに来る人の中にもおなじみの顔ぶれが多く、私もそうだが、みんなこの機会を一年にいくつかある恒例行事の一つのように感じているのではないか。
お堂の中で保坂さんの話を聞くと、そこで話されることは毎度違うし、時には小説家の山下澄人さんと二人だったり、思想家の酒井隆史さんと二人だったりするのだが、いつも自分の頭の中がリフレッシュされるような気がする。
京阪電車に乗って祇園四条駅まで。駅の出口から外に出て、鴨川の流れを横目にしつつ、たくさんの人とすれ違いながら徳正寺のある方へと歩く。
富小路という通りを南へ向かうとすぐお寺の門が見え、そこをくぐったら目の前がお堂で、靴を脱ぎ、入場料を支払って空いている場所を見つけて座る。保坂さんは途中で休憩を挟みつつ、2時間ほど、ずっと立って喋っている。
入場時に、その日に話す内容の大まかなメモをコピーしたものが配られる。そこに書いてある文章がすでに面白い。たとえば、
"「この文章は何が言いたいんだ」は誉め言葉!
結論が明確だったら、書く必要ない 書くのは考えるためなんだから、進みさえすれば結論はなくてもいい(進まなくてもいい)"
と書いてあったりする。何が言いたいかわからない文章こそ面白い。というか、何が言いたいかをただ明確に伝えてくるだけの文章なんてつまらない。と、私もそう思うのだが、たしかにまあ、ビジネスの世界だったら、自分のビジョンを他人にうまく伝えられる言葉が重要視されたりするだろう。それはそうかもしれないが、そういう当たり前の言葉に背を向けて逆方向に走っていく言葉だって、あっていい。
何が言いたいかわからない文章をあえて書こうと思うと、かなり難しい。どうしても思考が、言葉をスムースに、一方向に流れるように繋いでいこうとしてしまう。「〇〇という理由があって〇〇したから、その結果、〇〇になった」というように、スタート地点からどこかを経由して予期したゴールにたどり着くようにしてしまう。それは国語教育を受けたことによる足かせのようなもので、そこから自由になるのは困難だ。そのことが、「〇〇してしまったんだから、〇〇という結果になって当然」みたいな、窮屈な因果関係に追従する思考の中に、私たちを閉じ込めているのかもしれない。
保坂さんは文章でも、話し言葉の中でも、因果関係のあまりに退屈な当たり前さから逃れようとして、もがいているように見える。もがいていると言うとなんだか苦しそうだが、そうではなく、変な踊りを激しく踊っているという感じ。その姿に感動する。自分が普段使っている言葉と、その言葉に規定される思考の型からもっと自由になれるんじゃないかと思えてくる。
事前に配られるメモはあるが、いざトークが始まると、そこからは即興で、そのメモの内容に触れることもあるし、まったく別の話になったりする。
こうすればもっと上手に生きられるとか、儲かるとか、素敵な自分になれるとか、そんなことのためにばかり言葉が使われるのはつまらない。もっと、言葉というこの使いづらい道具によって、いや、逆にその使いづらさによって、人間がこの世界に存在させられたことの幸せとか、それすらも超えた、遠い思考の先に、たどり着けるかもしれない。
保坂さんの話を聞いている間とその後のしばらくは、そんな気持ちが持続する。今の世界は、だいぶひどいことになっていて、もう本当に終わりかもしれないと思ったりする。みんなが柔軟性を失って、恐怖ばかり感じて、守りたい領域から他人を排除しようとして躍起になっている。もしかしたら本当にもう終わりなのかもしれないけど、でも、もう少しだけ、やりようがあるのかも......と思える。
お堂の中には本の販売コーナーもあって、そこで保坂さんの新しい文庫を買う。私の本も一冊、売られていて、うれしかった。買った本にサインをいただいて帰路につく。京阪電車の窓から鮮やかな夕日が見えた。
