第5回 銭湯ペンキ絵師というオシゴトの巻
東京近郊の銭湯背景画を占めていた「ペンキ絵三羽烏」
本格的にあちこちの銭湯に通い始めたのは、もう20年も前のことだろうか。その頃は減りつつある「番台」のある銭湯をメインに周(まわ)っていた。番台のある銭湯はペンキ絵率が高いことに気づく。
銭湯のペンキ絵を描く人たちを正式に何と呼べばいいのか、銭湯背景画家、銭湯背景画絵師、銭湯ペンキ絵師などと呼ばれるが、ここでは個人的に馴染みのある「銭湯ペンキ絵師」と呼ばせてもらう。
当時、東京近郊のペンキ絵はほぼ3名で占められていた。早川利光さん、丸山清人さん、中島盛夫さんがその人たちである。



この三巨匠を我々はペンキ絵三羽烏(さんばがらす)と呼び、マニアなら二秒で誰の絵かを言い当てることができる。荒々しい波と青が濃い早川さん、静謐(せいひつ)な丸山さん、ダイナミックな松とリアルを追求した富士の中島さん。
三巨匠のうち早川さんはすでに故人となり、丸山さんは実質的に引退され、中島さんだけが精力的に活動されている。とは言え、昭和20(1945)年生まれだから今年(2026年)で81歳になる。梯子での高いところへの上り下りは正直心配だ。
以前、少しの期間だけ中島さんのお手伝いをしていたことがあった。お手伝いと言っても、描く前の古いペンキのバリを剥がしたり、重要ではないところを塗ったり、後片付けをしたりといった程度のことで、終わったらいつも御馳走をしてくれるのが楽しみだったのだが、それよりなにより、巨匠のオシゴトを生で見られる貴重な体験だった。2016年に厚生労働省から「現代の名工」として表彰を受けられたが、この時、なんとしても中島さんに獲らせたいと考えに考えて推薦文を書いたのを思い出す。
2025年に藤枝市郷土博物館で行われたライブペインティングでは、思いがけず久しぶりにお手伝いをさせてもらった。
現職の銭湯ペンキ絵師さんたち
かつては東京近辺でも30人くらいが活躍されていたと聞くが、銭湯ペンキ絵師の話題になると「日本に〇人の~」というフレーズがほぼ枕詞になるくらいの希少職である。そもそも資格や免許があるわけでもないので正確なところはわからないが、少ないのは確かだ。
ここで2026年現在、銭湯ペンキ絵師を生業(なりわい)としている、もしくはそれに準ずる活動をしている方を独断で4名ほど紹介させてもらう。
①中島盛夫さん:上述した通り、巨匠のお一人。福島県出身。丸山清人さんの弟(おとうと)弟子。最近では北海道、北陸、九州など、全国からお声がかかるようだ。
②田中みずきさん:中島盛夫さんの弟子として修業後、独立して多くの銭湯ペンキ絵を手掛けられている。明るい色調が特徴。
③(丸山)千奈さん:丸山清人さんのお孫さんで、美大在学中から丸山清人さんから学び、卒業後は銭湯ペンキ絵師(ご本人は銭湯絵師と呼称)として、丸山清人さんの絵の修復から活動を始められている。
④山本奈々子さん:この方だけ異色。本来関東の文化であるペンキ絵だが、京都を中心に活動されている。ペンキ絵のほかに広告看板も手掛けられている。田中みずきさんのお手伝いもされていたそうだ。それだけではなく、銭湯に納入している瓶ジュースの工場の閉業を知り、事業を引き継がれた。こんなにすごい人がいたとは!
このほかにも、イラストレーターさんが銭湯の背景画を描いたとか、地元の工務店に頼んだとか、広告会社が描いたとか、銭湯のご家族が描いたとか、無いわけではないが、個人的には絵師の下(もと)で修業をされた人を銭湯ペンキ絵師と呼びたい。
ペンキ絵は数年後には描き替えられてしまう切ない運命
さて、ずいぶん前だが廃業間近の銭湯に行った時のこと。
丸山さんが描かれたペンキ絵には富士と白砂青松(はくしゃせいしょう)、端には「美保の松原」と書いてあった。もちろん正しくは「三保の松原」だが、丸山さんは気に入られているモチーフのようで、いつも美保と書かれる。
問題は、故早川絵師も同様に綴られていたこと。これは偶然だろうか。
たとえば丸山さんと早川さんの間に「美保」という女性が存在していたのかもしれない。二人の絵師が同時に惚れて、激しいバトルが繰り広げられたのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながら、すこしぬるめの湯に浸かっていた。常連の爺さん100%。皆、来月からどこの銭湯に行くかが重要な問題で、美保のことなど気にも留めていない。
番台は優しく感じのいい女将さんだった。案外、この人が美保なのかもしれないと、上がりに牛乳を飲みながら考えた。
銭湯のペンキ絵ほど切ない運命の絵は、そうは無いだろう。数年後、早ければ一年後には描き替えられてしまう運命を生まれながらにして持っている。描き替えられるのはまだ良い方で、長年放置されてボロボロのまま店と共に最期を迎えることもある。
でもその運命を知るからこそ、絵師はその時の最高の命の輝きを絵に込めることができるのかもしれない。
「自分は芸術家ではなく職人」と丸山さん、中島さんそれぞれが仰るのだが、いやいや、卓越した職人であり表現者(芸術家)でもありますよ。

黄綬褒章を授与された中島さんを祝って
一昨年(2024年)、中島さんは黄綬褒章を授与された。御徒町の燕湯の女将さんが中心となって、近くのスナックで祝賀会が催された。歌の大好きな中島さんだから、途中からカラオケ大会みたいになった。私も指名されて一曲歌ったのはいいのだが、お開きの直前に締めの挨拶を頼まれた。いきなりかよ、と思いながらも酔っぱらった勢いでしゃべった内容が思いのほかウケたので、記憶をたどりながらここに再現しようと思う。
「中島さん、黄綬褒章、おめでとうございます」(パチパチパチ)
「2016年でしたか、『現代の名工』として表彰されましたが、あの時推薦文を書いたのが実は私です。賞金としてウン万円出たそうですね。......二万くらい貰えませんか?」(皆笑い)
「今回はお金は出なかったみたいですね......」
ここで中島さんから、
「としぞーさんが推薦文を書かなかったからだよ!」(皆笑い)
「ところで、『黄綬褒章』って何でしょう、正直よくわかりません。でも『黄』だから黄金、ゴールドに輝くようなお仕事や技術を残された方に与えられるものだと理解しています。
私を含めてここにいらっしゃる方々は同じ思いをお持ちでしょう。......どうかこれからも一枚でも多く、私たちに素晴らしい富士山を見せてください」(パチパチパチ)
「そして中島さん、どうかどうか長生きしてください!この度は本当におめでとうございます!」(パチパチパチ、中島さん泣く)
この素晴らしいオシゴト、文化がずっと残りますように。
