【今週はこれを読め! ミステリー編】山白朝子の「作家小説」短篇集〜『スコッパーの女』
文=杉江松恋
作家という無限の暗闇を抱えた存在についての小説である。
山白朝子の最新短篇集『スコッパーの女』(KADOKAWA)の刊行を、私は心待ちにしていた。『怪と幽』に掲載された短篇を五つ集めた作品集で、分類すればホラーということになるのだろうか。山白朝子は他の筆名があると囁かれる、希代の奇譚作家だ。『週刊ファイト』編集長だった故・井上義啓に倣っていえば、正体は「底が丸見えの底なし沼」であり、山白朝子の小説には、背後にいるはずの作家の影を強制的に消されるような、人工美の平面性がある。本書記載のプロフィールにも2004年に旧・『幽』(現『怪と幽』)でデビューしてからのことしか書いてないし、個人情報に至っては「趣味はたき火」とあるだけなのだ。
別名義の存在も含めて、山白朝子が何者なのかについて言及するかは「しなくていいことである」という認識がいつの間にか成立し、広く共有されるようになった。作品に作者自身の影が落ちているか否かという検討も、山白に関しては皆消極的になる。これはおもしろいことだと思う。まったくの無からぽろりと生み出されたもののように、山白作品は扱われるのである。他にも自分の存在を消そうとする作家はいるが、これほど成功している例はないのではないだろうか。
『スコッパーの女』は、その山白朝子が手掛けた「作家小説」なのである。これが面白くないわけがあろうか。五篇の前に置かれた前書きには小説家の〈私〉が登場する。「長年、出版界の片隅に生息している」が「最近はスランプがひどくて執筆もままならない」。「平凡な考え方しかできないから」「奇人変人がやたらと多い」他の小説家に惹かれるというのだ。
こういう前向上を述べて〈私〉は、自分が出会ったさまざまな作家たちについて話し始める。
最初の「終焉を告げる作家」は、とある出版社主催のパーティーの後で起きた出来事についての話だ。そのパーティー会場で初めて会った、二十代後半ぐらいのL先生に強く誘われ、〈私〉は二人だけで飲みなおすことに同意する。バーのカウンターに付いたL先生は、幼少期から現在に至るまでの個人史を語り始める。
こどものころにL先生が気づいたのは、どんな漫画連載でもそれが終わるタイミングがわかってしまうということだった。不人気が理由ではなく、作者が不祥事を起こしたような場合でも事前に察知できてしまう。どんな物事にも終焉までの距離があり、それを自分は読み取ることができるのだ、というのがL先生が到達した理解だった。その終焉までの距離を【深さ】と呼ぶようになる。作品の連載期間だけではなく、たとえば登場人物にも深さはあり、そのキャラクターがいつ死ぬか、というようなことまでわかってしまうのだ。
未来が見えてしまう男の話、というのはよくある。そういう分類ができる短篇かと思って読んでいると、すぐにL先生の話は別の要素について語り始める。
読み取れる【深さ】は、現実や作中の時間経過だけに関係するのではなかったのだ。小説はいくつもの要素が絡み合って作られている総合芸術だ。登場人物、物語、テーマ、文章表現、それらのすべてでL先生は【深さ】を観測することができたのである。
たとえば物語には【父殺し】や【生きて帰りし物語】といった類型というものがある。それがL先生を惹きつけるようになった。絵本の『桃太郎』に予想を上回る深みの場所があったため目を凝らしてみたら、そこに【生きて帰りし物語】や【貴種流離譚】といった物語構造の『深さ』があることに気づいた、というように。
後にL先生は小説を書くようになるのだが、執筆の最中に自分と母を捨てていった実父に対する感情がこみあげてきて、まったく関係ないのに登場人物に注がれてしまうという体験をした。その結果、どこまでも陳腐だった物語が意外な【深さ】を獲得することになったのである。「事前に用意していたプロットを無視して、脈絡のない展開でもいいから【深さ】を維持するような場面を執筆する」というやり方で、L先生はプロ作家としてデビューすることに成功する。
未来が見えてしまう男の物語かと思ったら、小説がなぜ読む者を惹きつけるのか、という話に化けた。この化学変化こそ作品集『スコッパーの女』最大の特徴である。L先生が獲得した技法は、公言する作家も多い「プロットを立てずに書く」と共通するものがある。逆の言い方をすれば、事前に立てたプロットの通りに、行儀よく書かれた小説がなぜつまらなくなるのか、という理由にも本作はなっている。
分類としては作家小説がいちばんしっくりくる。この奇妙な物語はどこに落ち着くかわからないまま漂い続け、ある落ちに飛び込んでくる。このへんのツイストはミステリーのものなので、この欄で取り上げてもさほどお叱りは受けないだろうと判断したのである。ひねりの効いた物語が好きな方なら、たとえ作家小説というジャンルにさほど関心がなくても楽しんでいただけるはずである。
「小説講師の憂鬱」は、長いスランプに苦しむ〈私〉が、作家は廃業して小説教室の講師になろうと考えることから始まる。先輩作家に実際そういう人がいたと思い出して電話をかけると、なんとそのG先生は「これから死のうと思い立ちまして、富士の樹海へ行くところだった」というのである。〈私〉の事情を聞いたG先生は、「死ぬのを一日だけ延期」して話をするために会おうと言ってくれる。この「一日延期」が浮世離れしていていい。G先生が語るのは作家の才能に関する話だ。これも最後にとんでもないオチが待っているので、ミステリー読者に満足してもらえそうである。
実話怪談風の恐怖を感じさせられるのが「シンクロニシティ」で、そういう展開になるか、なるか、と思って読んでいるとその通りなので、ああ、これは比較的正統派のホラーだったな、と思うのだが、最後の数ページで当たり前ではない世界に連れていかれる。L先生に倣って言うと、【性格悲劇】に分類されるべき物語類型の【深さ】があるのだが、最後にそれとは別種の【深さ】が姿を現すために、読者は衝撃を受けるのである。
続く「青軸卿」は収録作の中で唯一恋愛物語の要素を含む作品で、読後にすがすがしい印象もあるのだが、法螺話としては最も途方ないものである。その噛み合わせの良さで読まされる。最後は表題作で「スコッパー」という言葉が実際にあるのか、山白の造語なのかはわからないのだが、小説を読む者の物語であると同時に、ページの向こうに潜んでいる作家の話にもなっている。小説を読むことで作家を理解したようなつもりになるが、それはどこまで的を射ているだろうか、と問いかけてくるような短篇だ。
最後の最後に無限の暗闇を見せて短篇「スコッパーの女」は終わり、同時に作品集『スコッパーの女』もこれ以上はないという完成度で幕を閉じる。おそるべき人造美。作家という人種が、人に文章を読ませるための作為を弄した結果でしかたどり着けない境地がこの一冊にはある。すごいぞ、山白朝子。いったいどういう人なんだろう。別に知りたくないし、ずっと謎のままでいてもらいたい。
(杉江松恋)

