【今週はこれを読め! エンタメ編】名もなき人の思いを描く短編集〜小川洋子『劇場という名の星座』
文=高頭佐和子
「ホタルさん」に、一度お世話になったことがある。ある大きな劇場で行なわれた公演に、電車の事故で遅刻してしまった時だ。公演中に、暗闇の中を客席まで案内してくれるのが「ホタルさん」と呼ばれる案内係である。「ホタルさん」が持っているライトを頼りに、同じように背を低くしてコソコソと歩いた。慌てすぎて息も絶え絶えになっていた私を気遣ってくれた彼女は、今も劇場で働いているだろうか。
2025年、建て替えのため休館した帝国劇場を舞台にした短編集である。ミュージカルファンで知られている小川洋子氏の、劇場への愛が溢れ出る1冊だ。最初の一編には、新人の「ホタルさん」が登場する。
主人公の紗和子は、亡くなった父の部屋で冊子を見つける。1978年に帝国劇場で上演されたミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』のパンフレットだ。父にミュージカルを観る趣味はなく、その頃には病気で視力も失っていたのに、なぜパンフレットを大切に持っていたのか。ページの間から、チケットと共に劇場案内係からの手紙が滑り落ちてくる。1978年は、紗和子が結婚した年だ。早くに妻を亡くし、一人娘である自分を愛情深く育ててくれた父は、結婚を喜んでくれた。迷いながらも手紙を開くと、父がひとりで劇場を訪れた理由と、真摯に仕事をする新人の案内係とのつかの間の温かい交流が書かれていた。
舞台の進行と役者の動きに合わせてエレベーターを操作するエレベーター係、舞台裏で起こるあらゆる困りごとを解決する幕内係、ロビーにある「幸運の椅子」の場所をただひとり知っている売店のスタッフ、名優の付き人、演出家の通訳......。劇場にはさまざまな人が働いていて、その人にしかできない役割を果たしている。この小説集の主人公となるのは、パンフレットやチラシにはおそらく名前が出ることのない彼らと、劇場を訪れる観客たち、そして、ステンドグラスの裏にひっそりと住んでいるひとりの少年である。大きな声で誰かに語られることのない彼らの矜持や密かな思いを、いくつもの名作ミュージカルのエピソードに絡めて、著者は優しく掬いあげるように描いていく。
帝国劇場には何度か行ったことがある。初めて訪れた時、そこが特別な場所だと言われている理由がわかった気がした。内装の重厚さや刻まれてきた歴史の気配だけでは説明のできない空気があって、これから始まる舞台の世界に足を踏み入れるのだという期待が高まっていったことを懐かしく思い出した。
大千秋楽の日、帝国劇場に思いを寄せたすべての人が登場人物となる奇跡のような最終章では、もう訪れることのできない場所とそこでみた作品への愛おしさが込み上げてきた。劇場を愛するすべての人に読んでほしい一冊である。
(高頭佐和子)

