第243回:砂原浩太朗さん

作家の読書道 第243回:砂原浩太朗さん

2016年に「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞してデビュー、長篇第2作『高瀬庄左衛門御留書』で野村胡堂文学賞、舟橋聖一文学賞、本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞、今年第3作の『黛家の兄弟』で山本周五郎賞を受賞と、快進撃が続く砂原浩太朗さん。歴史・時代小説に出合ったきっかけは? 本はもちろん、ドラマや映画のお話も交えてその源泉をおうかがいしました。

その6「フリーランスになってから」 (6/7)

――編集者時代、ご自身では小説は書いていなかったのですか。

砂原:出版社にいる間はあくまでも仕事中心で、精一杯やろうと思っていました。手を抜かず編集の仕事をやっていると余力が残らないので、小説は細々と書いているくらいでしたね。
 僕は20代のころから、自分は40代でデビューするって宣言していたんです。藤沢先生がそうだったので、作家は40代でデビューするもの、という思いこみがあって。ただ30歳で会社を辞めたときには、なれるものなら早くなりたいという気もちもありました。でもやっぱり、結果的に40代でデビューすることになります。30代でデビューすると宣言していたら、そうなっていたかもしれない。言霊って怖いですね(笑)。
 フリーランスになってじっくり作家の道を目指すつもりが、逆に忙しくなったんです。フリーって仕事を断れないんですよね。出版界ってよくも悪くも小さなコミュニティだから、一度関係性が出来上がると、どんどん仕事が来る。自分は何をやっているんだろうと思いながら、家族もいたので仕事を減らす踏ん切りもつかず、悩みながら15年を過ごしました。藤沢先生は44歳になる年、満でいうと43歳でデビューされているので、その年齢を超えた時の絶望は深かったですね。

――フリーランスになって、どんな仕事をされていたのですか。

砂原:最初のうちは編集、ライター、校閲...とやっていましたが、ある時期から校閲に特化しました。なぜかというと、校閲は取り組むべきゲラや原稿が常に何かしらあるので、食いっぱぐれがないんですね。フリーの編集やライターだとまず企画ありきだから、いつも仕事があるというわけではない。編集者の単なる個人的好みに沿って文章を直されることがあって、ライターが嫌になったというのもあります。

――時代小説や歴史小説の校閲もされたのですか。

砂原:それもやりましたが、じつは小説より役立ったのが、新書などを校閲する際の調べものですね。こういうテーマの時はこの本に当たればいいんだ、と学べたのは大きかった。あとは、自費出版の原稿を直した経験も大きいですね。プロの文章って、さすがにそれほど直しは要らないんですが、自費出版の原稿はそうもいかない。なにがよくないのかとか、こうすればいいのにと考えながらエンピツを入れていくと、だんだん見えてくるものがあるんです。ひとつわかりやすい例を挙げると、「の」が続く文章。「丘の上の家の窓の桟」なんていうのは格好悪いな、などと肌に沁みてわかってくるという貴重な経験でした。

――フリーランス時代、新人賞の投稿はどれくらいしていたのですか。

砂原:力を振り絞って何年かに1回は投稿していました。2010年ごろに投稿したのが渾身の一作だったんですが、それは阪神大震災のことを書いた、なかば私小説的なものでした。でも新人賞に送ったら1次通過止まりで、あれが駄目ならどうしたらいいんだろうとなって。
 なぜそういうものを書いたかというと、ロールモデルとして井上靖や辻邦生が頭にあったんです。純文学方向からスタートして、そこから文芸の香りがする歴史小説を書いていくといいんじゃないか、と考えました。
 その作品は今でもそんなに悪くなかったと思っているんですが、それが駄目だっただけに絶望感も深くて、そこから5年間くらいは何も書けなくなりました。それがいちばんきつい時期でしたね。

――その間、本は読めたのですか。

砂原:少しずつ。そのころは川端康成やトルストイを読んでいました。川端の『山の音』を読んだのもこの時期ですが、あれが『高瀬庄左衛門御留書』のヒントになりました。『山の音』は舅と嫁の話ですが、2人の間に微妙なあやうさがあって、この2人がもうちょっと近づいたらどうなるんだろうと思って。
 川端はこの時期にかなり読みましたね。最初に読んだのはもう少し前、『雪国』でしたが、僕はあの作品こそ、日本の散文の極致だと思っています。これは戦前の作品ですが、川端は戦後になると突然文章が読みやすくなるんですよね。『山の音』も戦後に書かれたものですらすら読めちゃうんですけれど、でも言うに言われぬ詩情のようなものが漂っています。

――5年間書けずにいた時期からどのように抜け出したのですか。

砂原:このまま死ぬのかなと自分に問うた時、やっぱりそれは嫌だと思い、でも忙しいのは変わらないからどうやったら書けるか考えました。今まで何回もこのままじゃ駄目だと思ったけれど忙しさに飲み込まれていたので、決意だけじゃ足りない。そこで書かざるをえないシステムを導入しようと考え、カルチャーセンターの小説講座へ行くことにしました。
 その講座は半年単位で、最初に10枚のショートショート、期の終わりに60枚の短篇を書きあげるのが課題でした。そういう強制力を使って書こうとしたわけですね。リハビリのつもりで取り組んだ最初の10枚が自分でもびっくりするほどうまく書けたし、何より楽しかった。「あ、書けるんだ」と思って息を吹き返し、じゃあ60枚書こうとした時、さらにモチベーションを上げるため、その作品で同時に新人賞へ応募しようと決めました。「決戦!小説大賞」は書店で見かけて面白い企画が始まったなとは思っていたんですが、その第2回の公募締切が近いと知って。ここで書けなかったら俺は終わる、とにかくやろうと決めて書いたのが、前田利家とその家臣を描いた「いのちがけ」で、幸いにもこの作品で受賞し、デビューしました。いろいろあったけど、結局は歴史に帰ってきたなと思いましたね。

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