
作家の読書道 第244回:小川哲さん
2015年に『ユートロニカのこちら側』でハヤカワSFコンテストで大賞を受賞しデビュー、『ゲームの王国』が日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞、『嘘と正典』が直木賞候補になり、現在新作『地図と拳』が話題の小川哲さん。今もっとも注目を浴びているSF界の新鋭は、どんな本を読んできたのか。作家を目指すきっかけなども含めたっぷりインタビューしました。
その5「SFの論理と理性への信頼感」 (5/7)
――大学院に行こうと思ったのはどうしてですか。
小川:研究者になろうと思ったんですよね。僕の中で人から命令されない職業というのが、「社長」から「大学教授」になったんです。
――ブレてませんね。
小川:まあ、研究が好きだったし。勉強したり本読んだりするのが好きだったんで。
――大学院ではチューリングの研究をされたとのことですが。
小川:数学基礎論の中でチューリングの計算可能性の論文がかなり重要な役割を果たしていたんですよね。計算可能性とかアルゴリズムの研究なら理系的なアプローチになりますが、僕はチューリングの業績に対する人文系の研究をしていました。
チューリングって、初期は数学者として計算可能性の議論をしてて、中期は暗号解読をして、晩年はコンピューターの話、人工知能の話をし始めて、最終的には形態形成という生物学の研究者になるんです。僕はなぜ彼の研究内容がどんどん変わっていったのか、ということを研究していました。
――大学院生時代の読書生活はどんな感じだったのでしょう。
小川:またSFを読んでいましたね。文転した頃は文学を勉強しようという気持ちで無理して読む本もありましたが、大学院時代は論文や資料を読まなくてはいけない分、その他は単純に好きな本を読んでいました。国内作家では刊行点数は少ないですけれど伊藤計劃とか飛浩隆さんとか。神林長平さんや小川一水さんも好きですね。この時期に小松左京もいっぱい読みました。海外SFもまだ読んでいなかった名作がいっぱいあったので読みました。好きなのはヴォネガットとかテッド・チャンとか。まあテッド・チャンも冊数が少ないですけれど。
――ヴォネガットはどのあたりを。
小川:ほぼ全部読みました。一番好きな作品は時期によって変わるので選ぶのは難しい。ちょっと前に早川書房から『カート・ヴォネガット全短篇』(全4巻)が出たので読んだら、やっぱり短篇も面白いですし。
ヴォネガットも世界との距離の取り方が安吾ぽくて好きなんですよね。ちょっとひねくれていて、で、ユーモアがあって。
――今さらの質問ですが、小川さんはなぜSFに惹かれるのでしょうか。
小川:やっぱりSFって、論理と理性に対する信頼感があって、それを武器にしていくんだという根底がある気がするんですよね。もちろんそういう作品ばかりではないけれど。
世の中って感情とかヒステリーで物事が動くことが多いけれど、SFでは最終的に論理とか理性とか知性とかが世界を作ったり、あるいは世界を動かしたりする。それが昔から心地よかったのかもしれないです。
――大学院に進んでみて、環境の面はいかがでしたか。
小川:天職だろうと思って進んだんですけれど、大学教授の実態が見えてきて、これは駄目だと。
――人に命令されない人生を送れないと分かってきたってことですか。
小川:会議だらけだし、夏休みはどんどん短くなっているし、好きなように研究していけるわけじゃない部分もあると分かりました。じゃあ他に何かできるかとなった時に、小説を書こうかな、と。僕は誰かと一緒に働くのも嫌で、一人で出来ることというと漫画家やミュージシャンとかもあるけれどスキルがない。小説だったら日本語が分かれば一応誰でもチャレンジできるんで、それで一念発起して、長篇を書いて第3回ハヤカワSFコンテストに送りました。
――それが大賞を受賞した『ユートロニカのこちら側』だったのですか。いきなり小説を書けたんですか。
小川:厳密に言うと、前にも小説を書こうとしたことはあったんですけれど、ちゃんと書いたのはそれが初めてでした。まあ、書けましたね(笑)。いや、今思うとあれはぜんぜん書けてないです。
――いやいや、生活が保証されるリゾートのような特別区の設定とか、そこに行った人々のキャラクターが細かく作られていて面白かったです。SFの賞に応募しようとは決めていたのですか。
小川:純文学も結構読んでいましたけれど、応募する前に調べた結果、ちょっと厳しそうだな、と。僕は明確に専業作家になりたかったんですよ。そのためにどうすればいいか考えた時、本が刊行されないと話にならないと思ったんです。純文学の賞は獲っても本が出ないことがあるけれど、その点ハヤカワSFコンテストは第1回も第2回も、大賞受賞作以外も、最終候補に残った作品がほとんどが本になっていたんです。それで応募先を選んだ気がします。
――そして2015年に作家デビューを果たして、ついに命令されない職業に。
小川:いや、専業作家になるのが目標なので、その時点ではまだまだ油断ができないというか。ようやくスタート地点に立つ可能性ができた、くらいの感じでした。だからデビュー作が出た後もしばらくは大学院にいて奨学金ももらっていたし、塾講師のバイトもしていました。
――そして2017年に発表した『ゲームの王国』が大評判となり、日本SF大賞と山本周五郎賞も受賞されましたよね。これは1970年代から始まるカンボジアの話で、後にポル・ポトと呼ばれた男の隠し子とされる少女と、貧しい村の神童の少年の人生が激動の時代の中で絡み合っていきますよね。この作品はどういうきっかけで書かれたのですか。
小川:デビュー作を出した時、好意的な評価もあったんですけど、「翻訳小説みたいだ」「既視感がある」ってことを結構言われたんです。単純に分からなかったですね。僕は翻訳小説をたくさん読んできたけれど、なにが「翻訳小説みたい」なのか分からないし、「既視感がある」というのは言わんとしていることは分かるんですけれど、それぞれの作品はそれぞれの作家が書いているから、設定が似てたり登場人物の配置が似ていたりしても、作品としては別個だと思うんですね。
でも読者は抽象的に小説を読んでるというか、設定とか雰囲気が似ていると「読んだがことある」と感じるんだなとか、いろいろ勉強になったんです。それで、編集者と「なんか既視感がある、とは誰1人言わない小説を書こう」と話しました。その過程で、カンボジアというのはわりと早い段階で出てきた気がします。結局読者は舞台がどことか設定が何かとかで既視感を持つんだと分かったので。
――じゃあ、それまでカンボジアとかポル・ポトについて詳しかったわけではなく?
小川:まったく知らなかったです。最初は東南アジアにしようと話していたんです。東南アジアはバチガルピが書いてるけど、カンボジアあたりを舞台したらどうかと。
そこからカンボジアの歴史などを勉強しました。僕が調べなくても書けることはだいたいみんなもう知っていて、既視感があることになるだろうから、一から勉強するってことはもう確定でした。それはもう、僕が勉強すればいいだけのことなんで。
それでカンボジアや、東南アジア全体の歴史なんかも勉強しているうちにポル・ポトのことも学んで、これは書かないとまずいとなってああいう話になっていきました。おかげさまで、いろんな感想のなかで、既視感があるとは一度も言われなかったですね。