第252回: 木村紅美さん

作家の読書道 第252回: 木村紅美さん

2006年に「風化する女」で第102回文學界新人賞を受賞しデビュー、2022年には『あなたに安全な人』で第32回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した木村紅美さん。幼い頃から本が好きで中学高校では文芸部に所属、一時期は音楽ライターになりたいと憧れ、大学では映画史を学んだという木村さんが親しんできた本、そして辛い時期を支えてくれた作品とは? リモートでたっぷりとお話おうかがいしました!

その5「一生読んでいたい作家、辛い日々を支えた本」 (5/7)

  • ちくま日本文学004 尾崎翠 (ちくま文庫)
  • 『ちくま日本文学004 尾崎翠 (ちくま文庫)』
    尾崎 翠
    筑摩書房
    968円(税込)
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  • ダロウェイ夫人 (集英社文庫)
  • 『ダロウェイ夫人 (集英社文庫)』
    ヴァージニア・ウルフ,丹治 愛
    集英社
    825円(税込)
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  • 灯台へ (岩波文庫)
  • 『灯台へ (岩波文庫)』
    ヴァージニア ウルフ,Woolf,Virginia,哲也, 御輿
    岩波書店
    1,056円(税込)
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  • 屋根屋 (中公文庫 む 32-1)
  • 『屋根屋 (中公文庫 む 32-1)』
    村田 喜代子
    中央公論新社
    924円(税込)
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――卒業後はどうされたのですか。

木村:就職氷河期で初めから絶望していて就活をまったくしなかったので、卒業して最初の半年は日雇いバイトを転々として、丸一ヶ月も沖縄を貧乏旅行して。帰ってきて、三省堂書店神保町本店のバイトを週5で始めました。
 その後、父親の伝手で、馬喰町にあった商社に正社員として採用されたんですが。ここから、小6のいじめ地獄に次ぐ苦しい時期を迎えました。男は営業、女は男を補佐する事務。女は結婚したら退職し、若い子に入れ替わるのが暗黙のルール。社風がとことん合わなくてウツ気味に。その頃もやっぱり読書に支えられました。
 大学4年の秋に四方田先生と個人面談の機会があり、将来の希望を訊かれました。まさか中上健次と親しかった人に「作家になりたい」とは言えないでしょう。漠然と「文章を書く仕事に就きたいと思っています」と言ったら、「じゃあ、海外の古典をたくさん読むといいね。日本の現代のものは読まなくていいから」とあっさり言われたんです。そのときは、私はカミュにハマっていて。『ペスト』の感想で先生と盛りあがった記憶がある。他にも、ドストエフスキー、カフカ、フォークナーなど、近代文学の名作を手当たり次第読み始め。海外文学に目覚めました。現代の国内文学はよほど気になるもの以外は読まなくなっていきました。

――では日本のものだと、どのような作品を?

木村:ついに、尾崎翠と巡り会う時が来ました。私の書きたい理想の小説をもうすでにこの人が完璧なかたちで成し遂げている、という強い衝撃を受けました。

――『第七官界彷徨』とかでしょうか。

木村:そうです。ちくま日本文学全集の『尾崎翠』の巻が大きかったです。私はもう自分の小説を書くのはやめて、翠の小説を一生読み返しているだけでいいかもっていうくらいハマりました。それが24、5歳の頃です。
 尾崎翠は人間の根源のさびしさを書くのが絶妙に上手い。せつないのに軽やかで、可笑しみもあって。たったひとりで荒野を歩いてゆくような孤独を五感を震わせる詩的な文体で書いていて。私はヴァージニア・ウルフを読んで大好きになったのは、30すぎてからなんですけど、翠は実は、手法も、『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』を思わせる自由関節話法に近い書き方をしていたり、何度読んでも新しさがある。
のちに、翠好きがもとで、『第七官界彷徨』や『こほろぎ嬢』を映画化した浜野佐知監督と交流が始まって。監督は、私の『雪子さんの足音』も映画にしました。その主演の吉行和子さんも翠好き。自分にとって大きな出会いをいちばんもたらしてくれた作家です。
 文芸評論家の田中弥生さんとは、癌で亡くなる3年ほどまえに初めて会って仲良くなり。村田喜代子さんの小説を薦められ読み始め『屋根屋』『ゆうじょこう』など大好きになりましたが。2016年に浜野監督が企画し鳥取県でおこなわれた翠生誕120年記念イベントで村田さんの講演があり、はるばる聞きに行きました。
 話は二十代半ばに戻りますが、翠が好きな作家ということでチェーホフの小説をはじめて読み、これまた好みで。最初は新潮文庫の『かわいい女 犬を連れた奥さん』。自分の基礎にしたくて、古書店で全集を買いました。坂口安吾もチェーホフ好きらしいというのを何かで知って、『堕落論』から読み始め、『白痴』はよく読み返します。
 それと、森茉莉のエッセイに深沢七郎が出てきて。茉莉って毒舌なのですが、珍しく褒めるように書いてあり、そそられました。読んだらやっぱり大好きに。深沢七郎、田中小実昌、色川武大あたりは、会社で心を殺して働いている頃に読んで、支えられました。

――それぞれで好きな作品はありますか。

木村:深沢七郎は『楢山節考』から読み始め、『笛吹川』『みちのくの人形たち』。『笛吹川』は、とにかく夥しい数の人が死んでは生まれ、死んでは生まれする話。人間ってこんな虫けらみたいにあっけなく惨く死ぬんだと頭に叩きこまれると、会社が大変辛かった自分としては、かえって、生きやすくなる気がしました。自分にとっては、へんにハッピーエンドを迎える小説より、徹底して救いのない小説のほうが読んで解放される感じがありました。その感触が今、自分の小説に活きているといいなと思うんですけれど。
 田中小実昌は...。当時、井の頭線の西永福で一人暮らしをしていて。会社帰りに下北沢のヴィレッジヴァンガードに寄るのが息抜きで、そこで推していました。従軍体験を基にした『ポロポロ』は、ひらがなが多くて飄々とした雰囲気の文体で書いているのに、ずっしり、重さが伝わってくる。句読点のひとつひとつ、神経を研ぎ澄ませ打ち方を選び書いているのに感銘を受け、文体というものについて考えさせられた小説でした。
 色川武大は『怪しい来客簿』『狂人日記』。後者はとくに、どん底をさ迷う人生経験をしているのに、突き放し方が心に残る。人間の暗く危うい部分でも、突き放して書くと、哀愁を帯びたり、ちょっと笑えるところが出てくる。
 その頃、オールドミスという言葉が気になって。田辺聖子さんの小説も読み始めて短篇集『ジョゼと虎と魚たち』の全部が好きなんですけれど、田辺さんの言葉に「嫌な奴ほど面白い」というのがあるんです。私は会社で自分にいやがらせをする女の先輩たちをそれに当てはめていました。
 ああ、現代の作家だと群ようこさんのエッセイも好きで読んでいました。疲れている時でも、読みやすくて。小説の『無印OL物語』も好きでした、OLだったし。群さんも、どこか「嫌な奴ほど面白い」という視点がある。そしたら、ある時、大の苦手だった先輩の一人も群さんの愛読者だって分かったんですよ。会社に出入している本屋さんがいたんですけれど、「なんでもいいから群ようこの新刊持ってきて」と頼んでるのを聞き、え、この人にとっても息抜きなのかと。耳を疑いましたね(笑)。と同時に、犬猿の仲の両者に好かれる群さんという作家を尊敬しました。

――その会社員時代は5年間ほどだったわけですか。作家デビュー前に辞めたんですか ?

木村:はい。同じ課の、合わなかった先輩が2人いるんですけれど、1人が休んでいる時に、もう1人に、いつも微妙に遅刻し出社するのを咎められて。逆上して「あんたたちはいつもピーチクパーチク私語がうるさい!」とフロアに響きわたる声で怒鳴ってしまったんです。それがきっかけで退職。

――なんと。辞めてどうされたのですか。

木村:会社員時代の一時期、帰宅して仮眠を2、3時間とって夜中に小説を書いて、朝4時くらいからまた仮眠をとって満員電車に揺られ出勤する生活をしていたんですが、倒れそうになるだけだったんですよね。それもあって、もう書くのはやめようと思っていましたが、ひまができたので再挑戦してみることにしました。
 有休消化中に「野性時代」が青春文学大賞という新人賞を始めたと知ったんですよ。無職になり初めて書きあげてその賞に応募したのが「島の夜」でした。後に2冊目の単行本として刊行する小説ですが、実は、デビュー作よりも先に書いたんです。
 最終候補にも残らなかったのですが、誌面に編集者同士の座談会があり、一人だけ推してくれていたんです。それが嬉しくて励みになって、年内にもう一作、全く違うのを書こうと思い書いたのが「風化する女」。純文学っぽかったから文學界新人賞へ送りました。
 投稿したのが、2005年の年末。1月に入ってからしばらく沖縄を旅行して、帰ってきてパソコンを開けたら、「野性時代」で「島の夜」を推してくれた編集者からメールが来ていたんです。「応募作は落としてしまったけれど、ぜひ一度お会いしたい」みたいなことが書かれてました。「実は文學界に応募しました」と返信したら、「それもいいところまでいくんじゃないでしょうか」と返ってきて、そうしたら4月に受賞。

――勢いで会社を辞めてから、それほど時間をおかずにデビューが決まったということですよね。よかったですね。

木村:びっくりでした。ただ、「風化する女」執筆時は、ハローワークに通ったり、転職が上手くいかないので、お客だった下北沢のヴィレッジヴァンガードで時給最安のバイトを始めて。けっきょく小説を仕上げるのに集中するため、12月の繁忙期で辞めてしまいました。受賞時には、派遣社員として朝日新聞社の経理課で事務をしていました。

  • かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)
  • 『かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)』
    チェーホフ,豊樹, 小笠原
    新潮社
    572円(税込)
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  • みちのくの人形たち (中公文庫)
  • 『みちのくの人形たち (中公文庫)』
    深沢 七郎
    中央公論新社
    649円(税込)
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  • 狂人日記 (講談社文芸文庫)
  • 『狂人日記 (講談社文芸文庫)』
    色川 武大,佐伯 一麦
    講談社
    1,540円(税込)
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  • 無印OL物語 「無印」シリーズ (角川文庫)
  • 『無印OL物語 「無印」シリーズ (角川文庫)』
    群 ようこ
    KADOKAWA
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