第253回: 高殿円さん

作家の読書道 第253回: 高殿円さん

ドラマ化された『トッカン―特別国税徴収官―』、『上流階級 富久丸百貨店外商部』などの多くのヒットシリーズを持ち、大阪キャバレーを舞台にした『グランドシャトー』や実在したコスメ会社創業者をモデルにした『コスメの王様』など、幅広い切り口でエンタテインメント作品を世に送り出す高殿円さん。幼い頃から水を飲むように本を読んできたという高殿さんの読書スタイルとは? 小学校時代の父親の入院、高校時代のワープロとの出会い、大学時代の阪神大震災など、その時々の重要な出来事を交え、読書遍歴を語ってくださいました。

その3「シャープの書院、阪神大震災」 (3/6)

  • グランドシャトー (文春文庫 た 95-3)
  • 『グランドシャトー (文春文庫 た 95-3)』
    高殿 円
    文藝春秋
    880円(税込)
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――その頃、ご自身では何か書きたいと思っていましたか。

高殿:さきほどノートがとれないという話をしましたが、でも高校1年生の時に、シャープの書院というワープロが出たんです。あれは神様が私に与えてくれたプロメテウスの火だったと思います。文字にアウトプットする手段がそこで得られました。カタカタとキーを押すだけで文章ができるので、はじめて自分も小説が書けるのではないかと気づきました。あれは人生で一番嬉しかった瞬間じゃないですかね。
 私、本当にシャープの書院を愛しています。書院を作った人にインタビューしたいと思うくらい。「ありがとうございます」と伝えたいです。

――買ってもらったのですか。

高殿:そうなんです。シャープの書院は当時流行ってましたし、昔から書道教室のお知らせを作るために家にコピー機があったりしたので、母もワープロに興味を持っていたんだと思います。母に「これが欲しい」と言って買ってもらった時はすごく嬉しくて、無我夢中でなんちゃってSFみたいなものを書いていたので、3日くらい記憶がないくらい(笑)。
 自分がまともな人間になれた気がしたんですよね。本当に嬉しくて嬉しくて、シャープの書院を抱いて寝ていました。ずっと一緒にいました。今まで頭の中の妄想でしかなかったものをアウトプットすることに夢中になりました。
 そうしたら、アウトプットするって、難しいんですよね。てにをはを含めて文章のロジックを学ばなければならないとわかって、それで今まで好きだった小説をもう1回、違う目で読み直して文法の勉強をしました。高校時代はずっとその作業に夢中でした。
 その後、NECのPC9801というパソコンが出て、それを買った時の喜びも憶えています。インターネットは私のようなハンディのある子に光を当てたと思います。テクノロジーは救う人を増やしていく。だから私は、子供にそういうものを与えることはどんどんやっていこうと思います。

――そのまま武庫川女子大学に進学されたわけですよね。

高殿:高校の頃になると要領よくなって、好きな日本史など丸暗記できるものは点数がとれたので、すーっとエスカレーターで上にいけました。
 でも、阪神大震災があったんです。大学1年生の時でした。
 自分の人生で大きかった出来事をふたつ言うとしたら、父が倒れたことと、これから大学で好きなことをするぞという時に阪神大震災で何もかも変わったことですね。本当だったら大学生活ではもっとオタク活動、創作活動をしていたかもしれない。だけど、当たり前のようにきれいで、当たり前のようにある程度豊かだと思っていた神戸がああなってしまって。電車が走ってなかったから学校にも行けないので、尼崎の友達の家に転がり込んで通っていました。
 ただ、神戸で電気が通っていない頃でも、なぜか本だけは読んでいました。それがあったから、あまり落ち込まずにこられたのかもしれない。小さい頃から本を与えられてきたことで、自分の心を癒す方法を知っていたのはものすごくありがたいことかもしれません。
 でも家の経済状況が大変になったので、大学2年生の頃はバイトの鬼になりました。なにが一番稼げるのか考えて、大阪の新地でヘルプとして働きました。当時、神戸が無茶苦茶になって、夜職で働く女の人が増えたんですよね。働いているうちに、性差とか経済格差とか、表と裏みたいなものを考えるようになりました。
 神戸は見渡しても電気が通っていなくて、ブルーシートしか見えない。でも新地はバブルの名残りがあってキラキラしていました。会社のお金で飲みに来て、お金をバンバン落としていくおじさんがいっぱいいたわけですよ。田舎で育った娘っ子には刺激的すぎました。その刺激を吸収しようとしたのは、やっぱり神戸があまりにもしんどかったから。明るいものを見ていたい気持ちがあったと思います。
 私は大阪のキャバレーを舞台にした『グランドシャトー』という本を書いたことがあるんですが、それもやはり、あの時に大阪で働いていたことが大きかったと思います。神戸で働けなくて、大阪で働いているうちに愛着がわいて、あそこを物語にしたいという思いがありました。それも、女同士が男の寵愛を巡って闘うような話でなく、もっと違う切り口で夜職の人たちを肯定的に書きたい、男の目線から切り込んだ物語ではないものを作りたいと思いました。
 なんでもやってみるものですね。あの頃はとにかく、お金のために夜職のバイトをしたり、工場のバイトをしたりしていました。合間合間に当たり前のように本は読んでいたと思うんですけれど、体験から摂取することも多かったです。

――では、学校で何か活動されたりとかは...。

高殿:小説と並行して漫画も描いていたので、漫画研究部にも行きました。いろんなものが好きなオタクの子たちがいっぱいいて楽しかったですね。好きな漫画やアニメや小説やゲームの情報を交換しながら、いろいろ摂取しました。
 ただ、大学には卒業という最終出口があるじゃないですか。私の頃の神戸は、震災直後とバブルがはじけたことによる大・大・大氷河期でした。好きなものに夢中になりながら、就職先なんてあるんだろうかという不安と闘っていた大学時代のようにも思います。

――プロの漫画家か小説家になりたいとは思わなかったのですか。

高殿:漫画研究部で出会った後輩がプロの漫画家さんだったんですよ。本当に漫画がうまかった。その子は、目の中を描くのに1時間かけるんです。「しんどくない?」ってきいたら、「いや、私はこれくらいしないと真似されるから」って。これがプロ意識なんだなと尊敬しました。私にはそこまでの情熱はないから、漫画家にはなれないと思いました。それに、早い人はデジタルで漫画を描くようになっていて、自分がこれまで「漫画を描くにはこうすべき」と思っていたことが覆された時期でもありました。シャープの書院が出た時はテクノロジーに助けられましたが、この時は「これからデジタルを一から学ぶなんて無理」と思いました。
 それに、私は物語を書くほうが好きなんだなとも思ったんですよね。大学4年生の時に、ふたたび小説をアウトプットする喜びを感じた瞬間がありました。

――何があったのですか。

高殿:大学1、2年の時に好きな中国文学は学び尽くして、ひととおり満足してしまい、ゼミはまだやったことない分野に挑戦しようと思いました、それで飛び込んだ近代文学のゼミが、福永武彦の研究でした。短編集や長編、翻訳やミステリなどむさぼるように読んで、どうやったらこんな文章が書けるんだろうと感動しました。私の知らなかった沼がこんなところにあったのかと思って。
 アウトプットのやり方を極めればこんなに素晴らしい文章表現ができるのかと思い、それでまた小説のアウトプットにはまりました。それまではふわっと書いているだけでしたが、ちゃんと一本書き上げることに対する情熱が生まれたんです。
 大学3、4年生くらいの頃にNECのPC9801が出たので、それで卒業論文も書き、ハプスブルグ家の小説も書きました。書き上げた時は脳内からよくわからない汁が出ていましたね(笑)。むちゃくちゃ楽しかったんです。こんなに楽しいことが世の中にあるんだって思うくらい。

――卒業論文のテーマは?

高殿:「芥川賞と直木賞の功罪」についてでした。なぜ福永武彦はこんなに評価されていないのだ、なぜ賞をとれなかったのだと思って芥川賞や直木賞の歴史を調べ、そうしているうちに純文学と大衆文学というカテゴライズはいつ生まれたのかなどの疑問が出てきて、めちゃくちゃ調べるのが面白くなってきたので。卒業論文は2日間で書けてしまったんです。自分は書けるという手応えを感じたし、パソコンがどんどん進化していくなかで、小説を書きやすい環境になっていって、楽しくてしかたなかったですね。

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