第257回: 井上真偽さん

作家の読書道 第257回: 井上真偽さん

本格ミステリ大賞の候補になった『その可能性はすでに考えた』、2度ドラマ化された『探偵が早すぎる』、現在話題の『ぎんなみ商店街の事件簿 Sister編』『同 Brother編』など、話題作を次々発表している覆面作家、井上真偽さん。ロジカルな世界観を構築するその源泉はどこに? 好きだった小説やデビューのきっかけなどたっぷりうかがいました。

その3「工学部に進み、哲学書を読む」 (3/6)

――一人の作家が気に入ると、その作家の他の作品も読むタイプですか。

井上:そうですね。その作家の代表作を読むという感じです。
 京極夏彦さんの小説をよく読んだのも高校時代で、感銘を受けました。自分は理系だったので、量子力学の話があんなふうに妖怪の話に出てくるところにすごく影響を受けました。でもやはりミステリと意識していたわけではなく、語りが面白いので読む、という感じでした。

――理系と文系に分かれている高校だったのですか。

井上:あ、いえ、分かれてはいなかったのですが、自分の気分は理系でした。大学に行くんだったら理系だな、って。プログラミングをしていたこともあって、理数系のほうが好きというか、しっくりきたんです。

――それで、東京大学の理系の学部に進まれたんですね。

井上:工学部です。大学に進学してからは参考書や研究に関する本を読むようになって、あまり小説を読まなくなりました。流行っている小説を読む程度でしたね。他に哲学書的なものはちょっと読んでいました。

――哲学書的なものというのは、どのあたりですか。

井上:一通り読みましたけれど、いちばん興味があったのは認識論といって、どういうふうにものを認識するか、というものでした。高校時代から興味があったんです。
学者でいうと、プラトン、デカルト、カント、フッサールなど。そこから言語哲学にも広がって、ウィトゲンシュタイン、ソシュールとか...。認識するとはどういうことかを突き詰めると、言語の問題にいきあたるなと思ったんです。それは研究とはまったく関係なくて、ただ興味があったので読んでいました。
 昔から言葉については敏感だったみたいです。親がよく言うのは、自分は子供の頃、「スリッパってなんでスリッパって言うの?」などと訊いてたらしいです。親が「そう決められているから」と言うと、「じゃあこれからはスリッパのことをタオルって呼ぶね」と言い始めるから、「混乱するからやめて」と言っていたらしいです(笑)。そんな感じで、言葉とは何か、については前から問題意識があったようです。
 ああ、今思い出しました。プラトンが書いたソクラテスの対話編に『クラテュロス』という、「モノの名前」について論じた巻があるんですが、それを高校の時に読んで、子供の頃に考えていたこととぴったり一致して驚いたんです。そこからすごく哲学に興味を持ったんだと思います。 

――大学時代、将来は研究の道に進もうと思っていましたか。

井上:大学時代から小説家を目指すようになって、在学中に頑張って書いていたんですが、その時は文学寄りで、「すばる」などに応募していました。そこでは全然一次も通らなくて、卒業と同時にすっぱりと諦めました。
その頃書いていたものは、安部公房の影響が大きかったと思います。昔からファンタジーが好きで書いていた流れから幻想小説のほうに行った感じです。人間と同じような社会を作っている鳥みたいな種族の話なんかを書いていました。その種族の子供が親に糞と間違えられて嘴で巣から押し出されたところから始まるんです。今考えるとルッキズムの話でもあるかもしれませんが、その種族の中では醜いとされている主人公が、差別的な扱いを受けながらも生きていく話でした......って、なにを書いているんでしょうね(笑)。
あ、大学最後のチャレンジとして、漫画もひとつ仕上げて集英社に持ち込みました。それは剣と魔法の世界ですごく強い女の子が敵をやっつける、みたいな話で。目の前で編集者さんに読んでもらったんですが、読む前と読み終わった後で、何の表情の変化もなかったです(苦笑)。

――工学部ではどのようなことを学んでいたのですか。

井上:大学院でやっていたことのほうが話しやすいのでそちらをお話ししますと、遺伝子情報工学ですね。遺伝子情報は四種類の塩基の配列で決まり、そこからタンパク質を作るアミノ酸の配列が決まります。主に取り組んでいたのは、そのアミノ酸配列からタンパク質の立体構造を予測する、タンパク質構造予測といわれる分野です。それで何ができるかというと、シミュレーションで薬が作れるんです。タンパク質の構造によって反応するかしないかがわかるので。
タンパク質に興味があったというよりは情報工学がやりたかったんです。結局そこでも使われているのは、統計的な知識だったり、今でいうディープラーニングの前身のニューラルネットなどの技術で、つまり理数系の知識の応用なんですね。やりたかったのはそういう、理数系の知識を現実に応用するということでした。
その頃やりたいことはふたつあったんです。ひとつは、小説などクリエイターの仕事。もうひとつは数学的な知識を応用した技術を使ったサービスでの起業で、そのひとつの例がタンパク質の構造予測だった、という感じです。
大学院時代も研究などに費やしている時間が多かったので、小説はあまり読んでいませんでした。プログラムの本などのほうが読書の比重は大きかったです。

――院はいつまでいたのですか。

井上:修士課程までです。その後は企業に就職しました。でも若気の至りで結構早めに辞めました。起業したくていろいろやりましたがうまくいかなくて、また企業に戻って、しばらくは小説のことも忘れていました。読むこともあまりしませんでした。

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