第267回:大槻ケンヂさん

作家の読書道 第267回:大槻ケンヂさん

ミュージシャンとしての幅広い活動はもちろん、文筆活動でも絶大な人気を誇る大槻ケンヂさん。エッセイでも多くの本や映画に言及されてきた大槻さんに、いま改めて読書遍歴をおうかがいしました。ご自身が小説を書くきっかけとなった話や、最近、小説や読書について感じていることのお話なども。

その5「文筆業について」 (5/6)

  • 犬神家の一族 金田一耕助ファイル 5 (角川文庫)
  • 『犬神家の一族 金田一耕助ファイル 5 (角川文庫)』
    横溝 正史
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    748円(税込)
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  • 牛への道 (新潮文庫)
  • 『牛への道 (新潮文庫)』
    章夫, 宮沢
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    605円(税込)
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  • グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)
  • 『グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)』
    大槻 ケンヂ,江口 寿史
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  • くるぐる使い (角川文庫)
  • 『くるぐる使い (角川文庫)』
    大槻 ケンヂ
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  • ステーシーズ 少女再殺全談 (角川文庫)
  • 『ステーシーズ 少女再殺全談 (角川文庫)』
    大槻 ケンヂ
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    528円(税込)
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――ご自身で文章を書き始めたのはいつ頃ですか。

大槻:僕が最初に小説を書いたのが小学校2、3年生の頃でした。それはバラバラ殺人の話で、親に赤字で誤字脱字を全部添削されたっていうね。添削するのはそこじゃないだろうと思いましたよね。
その後は小学生の時に友達の遠山君とSF小説を連作で書いていました。その時、僕は伏線を張ったんですよ。たぶん『犬神家の一族』の影響だと思うんですけれど、ゲートルを巻いた謎の男を登場させたんです。そうしたら遠山君が、「突然出てくるこれはなに?」って言って、伏線というのを理解してくれなくて。それで途中で終わっちゃったことを憶えていますね。その後は中学の頃に、筋少の内田くんと漫画を一緒に描いて、これも途中で終わっちゃった。
あ、思い出しました。「ビックリハウス」にエンピツ賞というのがあったんですね。文学賞の敷居を外してなんでも書いてこいという賞があって、中学生の時だったかな、その選外佳作になったことがありますね。審査員が糸井重里さんで、原稿用紙ではなくノートの切れ端に書いてくる者がいたけれど、それはよくない、みたいなことを書かれていて。ノートの切れ端に書いて応募したのって僕だったんですよ。だからもし原稿用紙に書いて応募していたら佳作くらいにはなったかなと思ったりして。
あとは高校の頃に、蛭子能収さんの影響を受けて、13~4枚くらいのシュールな漫画を描いたことがあります。「オマンタのイケニエ」ってタイトルだった。その頃、白夜書房がエロとサブカルを混ぜ合わせたような雑誌を出していたので、そこに持ち込もうとして電話したら、午前中だったのでまだ誰も編集部に来てなくて、それで心が折れてやめたことがあります。

――その後、雑誌でエッセイをいろいろ書かれるようになりますよね。

大槻:80年代、90年代は、ミュージシャンがエッセイを書く機会が多かったんですよ。当時は「ビックリハウス」とか「宝島」といったサブカル雑誌があって、みうらじゅんさんとか、中島らもさんとか、いろんな人が書いていた。杉作J太郎さんのコラムも楽しみに読んでいましたから、自分もそうしたものが書けるとなった時は、嬉しかったですね。
あの頃、「週刊プレイボーイ」に対して「平凡パンチ」という雑誌があったんですけれど、だんだん部数が落ちてきたからか突然雑誌のスタイルを変えてサブカル寄りになった時期があったんです。「NEWパンチザウルス」っていう名前になって、すぐに休刊しちゃったんですけれど、その「NEWパンチザウルス」がめちゃくちゃよかったんです。ちょっと焼けクソ気味に作っていたという感じがした。そこで杉作J太郎さんがイラストと文章で面白いものをたくさん書いていましたね。どう考えてもおかしいだろうってことを、真面目に語っていて、ぷっと笑っちゃいながらも「でもそうだよな」って感心してしまうところもあって、あれは影響を受けました。あと、宮沢章夫さんの『彼岸からの言葉』『牛への道』とかも面白いエッセイ集でした。杉作さんと宮沢さんのエッセイみたいなものを自分も書こうと思って書いていた時期もありました。

――小説を書いたのは、編集者から「書きませんか」と言われたのがきっかけだったそうですね。

大槻:あれは若さゆえの無鉄砲というか、何も考えていなかったというか。90年代初頭かな、僕が23、4歳の頃にミュージシャンに文章を書かせるブームがありまして。「月刊カドカワ」という雑誌が中心になっていた。それで僕にも話がきたんです。編集さんが「オーケンちょっと小説書いてよ」って言って下さって、本当に何も考えていなかったから、気軽に「いいですよ」って言っちゃったんですよね。
編集さんが「前田日明がタイムスリップして力道山と闘うみたいな話はどう?」って提案してくれたんですけれど、「それもいいけど自分で思いついたものを書いてみます」と言って、原稿用紙24枚分くらいの「新興宗教オモイデ教」をスケッチブックにダーッと書いたらば、「好評だったから続きを書いてよ」ということになって。「え? あれは短篇のつもりだったんですけれど」と言ったら「いや、なんとかなるでしょ」と返され、「そうですか」と言ってまた書いちゃったんですよね。それが1冊の本になったら評判がよくて、「また書いてよ」となって、「はあ」と返して。
『グミ・チョコレート・パイン』なんかも最初は短篇だったんです。そうしたら編集さんがまた「オーケンこれ最高だから続きを書いてよ」と言われ、結局そこからズルズルと書くようになりました。
ミュージシャンって本業の音楽があるから、みんな1度か2度は文章を書くんだけれど、だんだん書かなくなるんです。それが普通なんですよ。だって本業は音楽だもの。でも僕はたまたま周りが天才的に楽器のうまい人ばかりで、彼らとバンドをやっていてデビューしちゃっただけで、自分がミュージシャンになりきれていないっていう妙なコンプレックスがあったんです。それで、なんか他に自分に向いてることないかなと、いろんなことに挑戦してみようと思っていました。その中のひとつに、文章を書く、というものがあったんです。あと、やっぱ本屋小僧だったので、自分の本が書店の書棚に並ぶのがうれしかったんでしょうね。で、ズルズルというか、続けちゃったんですよ。続けたらだんだん書くのがきつくなってきたな。

――それで「くるぐる使い」や「のの子の復讐ジグジグ」で星雲賞を受賞されたり、両作を収録した『くるぐる使い』が吉川英治文学新人賞の候補になったり、『ステーシー』が日本SF大賞の候補になるなど、注目されて。

大槻:ありがたいことに『くるぐる使い』が吉川英治文学新人賞の候補になりましたが、その時の選評を読んだら、「明らかに全然その域に達していない作品もあった」みたいなことが書かれてあって、それは完全に僕のことなのよ。そんなの勝手にそっちが候補にしたんだろうがよと思ってちょっとイラっとしましたけどね。でも、変な言い方になるけれど、あれは落ちてよかったです。もしも何か間違って吉川英治文学新人賞を受賞していたら、僕、勘違いしていたと思うんです。そのまま泥沼を匍匐前進してジャングルを進むがごとき小説執筆沼に突っ込んで、自滅していたと思う。いろんな仕事をさせていただいたけれど、小説を書くのは本当に大変でしたから。
だから、職業小説家の人たちのことは、心の底から尊敬しているんです。いや〜スゴい。本を書くというあの大変な作業をお仕事にされているというのは実にスゴい! さらに面白い小説を読むと、素直によくこんなの書けるよなって思いますし。
ロック、テレビタレント、ラジオパーソナリティ、作詞家、俳優、もうなんでもやってみたけれど、小説仕事が一番きつかったよ。

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