
作家の読書道 第269回:前川ほまれさん
2017年にポプラ社小説新人賞を受賞した『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』を翌年刊行してデビュー、昨年『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した前川ほまれさん。看護師でもある前川さんが、小説家を目指したきっかけは? その読書遍歴と来し方についてたっぷりおうかがいしました。
その5「小説を書きはじめる」 (5/7)
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- 『指の骨(新潮文庫)』
- 高橋弘希
- 新潮社
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――さて、小説を書き始めたきっかけは何だったのでしょう。
前川:看護師勤務の1年目は業務を憶えなければいけなくて大変なんですけれど、2、3年目になると落ち着いてくるんですね。それでふと、プライベートが暇だな、と思うようになってきて。その時期に、一緒にスタイリストアシスタントをしていた人と久しぶりに会ったんです。その人はアシスタントを辞めて自分でアパレル事業を起こしていて、夢を追っている印象だったんですね。それで自分も何かしたくなりました。村上龍さんがどこかで小説家は原稿用紙があればどこでもできる仕事だと語ってらしたので、確かにそうだなと思い、パソコンを新調し、ソフトも入れ、もう逃げられない環境を作って書き始めました。そしたら何百ページか書けたんですよ。村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』のパクリというか、パクリともいえないひどい話でしたけれど(笑)。結末まで書けたことが自信になって継続できました。
そこから7本くらい、300ページくらいの小説を書きました。内容については自分でも、これが純文学ではないのは分かるけれど、エンタメだとしたら何になるんだろうと思っていました。小説を書き始めて2年目くらいの時に『跡を消す』を書いたんですが、その頃ちょうどポプラ社の新人賞募集の概要に「広義のエンターテインメント」と書かれてあるのを見つけたんです。他のエンタメの賞よりも的が絞られていない印象だったので応募したら、たまたま受かって...。
――2017年に『跡を消す』で第7回ポプラ社小説新人賞を受賞、翌年単行本を刊行されましたよね。刊行時に「特殊清掃専門会社デッドモーニング」というサブタイトルがついている。これは一人で自宅で亡くなった方の部屋の片付けをする会社の話ですよね。こうした設定はどうして思いついたのですか。
前川:村上春樹さんを真似した青春小説や村上龍さんを真似したちょっとバイオレンスなものを書いているうちに、やっぱりそれじゃ駄目だと分かってきたんです。その時に、『冷血』のようなノンフィクションっぽいものを書いてみたいと思ったんですよね。何か題材を置いて、それを深掘りして、できるだけリアリティのあるものを書いてみたいと思っていた頃に、たまたまテレビで特殊清掃のドキュメンタリーをやっていたんです。それで「ちょっと書いてみよう」くらいの感じで選びました。テーマを置いて、文献などにも目を通して書くのははじめてでした。
――ああ、なるほど。それでデビューされたということは、他に小説のアイデアのストックが全然ないわけですよね。デビュー後は大変だったのでは。
前川:そうなんです。ストックがないんです。吉本ばななさんだったかな、雑誌のインタビューで「デビュー前にストックがあったほうがいい」と語られていたのがずっと頭にあったので、デビューが決まった後、「あ、やばいストックがない」と思いました。
その頃の自分はヘンに尖っていたので、小説を書き始めた時から絶対に医療系の話は書かないと思っていたんです。でもデビューが決まって、ポプラ社の担当者さんから「次はどうしますか」と訊かれた時、他にアイデアは全然ないし、自分が今書けるのは医療系しかないと思って...。でもちょっと外して、医療刑務所をテーマに選びました。
――それが2作目の『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』なんですね。期間限定で夜去という街の医療刑務所に配属となった精神科医の工藤が、医療行為を受ける受刑者たちと接していく。実は受刑者の中には、工藤の過去に関わる人物がいて...という話です。
前川:医療刑務所についてはどこかで耳にした程度だったんですけれど、そういう場所があるというのは一応知っていました。
2作目を書くにあたっては、文章に自信がなかったんです。文学賞に応募して落とされて鍛えられる経験もまったくしていなかったですし。
そんな時期に、高橋弘希さんの『指の骨』を読んだんです。芥川賞の候補になって書店に並べられていて、タイトルが面白そうだったのであらすじを見たら、戦争のことが書いてあるっていうので。モグラ時代に大岡昇平さんの『野火』を読んで好きだったので、それと似てそうだなと思ったんです。『野火』に通じるオーラを感じました。
それで『指の骨』を読んでみたら、作家としても読者としても、衝撃を受けました。もちろんストーリーも面白いんですけれど、文章がすごくタイトで。
本当に自分の感覚で感じたことなんですけれど、あまり心理描写はないのに、動きで感情が伝わってくるというか。とても引き締まった文体で、でも最後のほうで主人公の心情みたいなものが爆発して、すごく胸がえぐられるんです。書き方にしても物語の感じにしても、たぶん一番影響を受けています。
――そして『シークレット・ペイン』を書き、3作目は『セゾン・サンカンシオン』ですね。アルコールやギャンブル、万引きがやめられないなど、なんらかの依存症の女性たちが共同生活を送り回復を目指す家を舞台にした連作集です。
前川:デビュー後に余裕がなくて「医療系でいきます」と言った時に、候補のひとつに「何かを抱えている当事者たちの集まりの小説」という案も挙げていたんですね。そこで編集者と話して2作目は医療刑務所にして、それを書き終えたら当事者たちが集まる場所の話にしましょう、ということになっていました。だから最初は、依存症という設定はなかったんです。
――当事者たちの集まりに興味があったのですか。
前川:それもたまたまなんですけれど、何かの医療雑誌に精神療法の一環として、生きづらさの会、みたいなものをやっている方々の記事があって。小説にしたら話が広がるなと思ったんです。なのであまり深く考えずに候補に挙げていました。
決まってから、どうしようかと考えて依存症にしました。依存症だけだと小説としてどう書けるか分からなかったので、女性が抱える問題が陰にある、という人間ドラマを書くことにしました。
――看護師の仕事をしながらの執筆活動って、時間はあるのですか。
前川:やはりそんなに多作にはなれないんですけれど、書けることは書けるんです。看護師には夜勤もありますが、夜勤入りの日は午後まで家にいるので書く時間があるし、自分が勤務している病院は普通に有休消化率も良かったりもするので。あと、今自分にはまったく趣味がなくて。読書と映画を観るくらいで、ほぼほぼ家にいるんです。仕事との兼ね合いで時間的にきついといえばきついんですけれど、書くことに集中すれば書けるという感じです。
――『セゾン・サンカンシオン』を執筆している時期にコロナ禍が始まったわけですよね。医療従事者としても大変だったのでは。
前川:あれは緊急事態宣言などがあった時期に書いていました。今振り返ってみると、病棟で忙しくなってきた時に先の見えない物語を書いている辛さとキツさがありつつ、コロナという現実を忘れるために書いている部分もあって、執筆が救いにもなったりもしていました。