
作家の読書道 第275回:加藤シゲアキさん
小学生の頃から芸能界で活動するなか、2012年に『ピンクとグレー』で小説家デビューをはたした加藤シゲアキさん。『オルタネート』で吉川英治文学新人賞を受賞し、同作と『なれのはて』で直木賞の候補になるなど、作家として着実に前進中。多忙な生活のなかでどんな本と出合ってきたのか、なぜ小説を書こうと思ったのか。読書遍歴とその背景をおうかがいしました。
その1「人の機微が分からない子供だった」 (1/7)
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
加藤:それが、ぜんぜん思い出せなくて。母が秋田出身なんですけれど、秋田の祖母が大量に絵本を送ってくれたんです。段ボール2箱分くらいありました。それを端っこから取り出して読んでいたんですが、タイトルを憶えていないんです。グリム童話みたいな、一般的な絵本だったと思いますが、その頃はまだお話の面白さに気づいていませんでした。
ただ、自分で絵本を描いていました。それを母親がとってあったんです。文字はまだ自分で書けなかったのか、母親の字で補完してありました。ひとつの木にいろんな実がなっている話で、前にそれをもとにしてチャリティーで絵本を作ったことがあります。
――『ふしぎなきのみ』ですね。もとの絵本を描いたのはいくつの時だったのですか。
加藤:5歳です。だから、僕は読んだ記憶より書いた記憶のほうが早いんです。
――物語を作るのが好きな子供だったのでしょうか。
加藤:好きでしたね。見ていたアニメから影響を受けていたのかもしれません。そんなにアニメを見る子供ではなかったけれど、「キテレツ大百科」とかは見ていたので。
――加藤さんは広島生まれですよね。
加藤:そうです。でも5歳の時に大阪に引っ越したので、広島にいた頃の記憶はあまりないです。
――小学校は大阪なんですね。学校の図書室をよく利用しましたか。
加藤:してないです。小1から塾に行っていたんですよ。だから物語の文章で読んだものといえば、ほとんどが学校の教科書か塾の国語の授業の問題文という感じです。
どうして塾に通うことになったのかは憶えていないし、灘校を目指すつもりもなかったけれど、通っていたのは灘塾という進学塾でした。
小4で横浜に引っ越してからはしばらく塾に通っていなかったんですけれど、小5でまた進学塾に行ったら、一気に授業のレベルが上がっていました。そこの文章問題で衝撃を受けたことがありました。今考えてもありえないと思うし僕の記憶違いかもしれないけれど、問題の文章のなかに、誰かが嘔吐して、その吐瀉物を飲む、みたいな場面があったんです。なんじゃこりゃと思って、あまりの衝撃で問題が解けなくなりました。ただ、その時に小説というものの自由度は感じた気がします。
――小学生時代、国語の問題以外で記憶に残っている作品はありますか。
加藤:小学生になると、父親の本棚から本を手に取るようになったんです。そこで見つけた本だったかどうかは憶えていないんですけれど、最初に作家名を認識して読んだのは赤川次郎さんの小説でした。
――三毛猫ホームズシリーズとか?
加藤:いえ、違うんです。三毛猫ホームズシリーズって、みんなが読んでいるでしょう。僕はみんなが読むものじゃないものが読みたかったんです(笑)。それで読んだ赤川次郎さんの本が『砂のお城の王女たち』でした。めちゃくちゃ好きでした。
――お父さんは読書家なのですか。
加藤:人並という感じですが、ちゃんと自分の本棚を持っていました。自分が大人になってから思い返すと、ファンタジー小説が多かったですね。父は今でも「ハリー・ポッター」シリーズとかが好きなんです。本棚には他には漫画の『ゴルゴ13』とかもありましたね。
――学校の国語の授業は好きでしたか。
加藤:嫌いでした。国語の文章問題って、答えを探すまでに時間がかかるじゃないですか。「この登場人物の気持ちを答えよ」という問いがあると、文章を読み返さないといけない。その部分だけパッと見つけて読むコツもあるんだろうけれど、僕は最初からちゃんと読みたくなっちゃうんです。それで時間がかかって、試験時間が足りなくなる。でも算数は数式を解けばすぐに答えが出るじゃないですか。そっちのほうが好きでした。だから自分は理数系なんだなと思っていました。
――作文や読書感想文も嫌いでしたか。
加藤:それは楽しかったです。別にすごく好きだったわけでもないですけれど。読書感想ですごく憶えているのが、小学生の時に読書感想画のコンクールがあって、課題図書が『大造じいさんとガン』だったんです。猟師と雁の話ですね。毎年渡ってくる、賢くて仕留めることができない雁がいて、その雁が仲間を助けるために体を張る様子を見て、大造じいさんは仕留めるのをやめる、という話です。いい話だなと思いました。
それで、読書感想画を描きましょうとなった時、僕は面白いお話という贈り物をもらった気持ちだったから、プレゼントみたいな絵を描いたんです。感想を絵にするんだから、自分の気持ちがイメージできるものを描けばいいと思ったんです。でも、貼りだされた絵を見たら、他の全員、鳥の絵だったんです。自分はズレているんだなと思いました。でも間違っているとは1ミリも思いませんでした。むしろ全員アホだと思った(笑)。感想画なのに感想じゃなくて好きなシーンの絵を描いたってしょうがないんじゃないの、って。
――確かに。
加藤:それはすごく憶えています。でも、その時周囲から馬鹿にされたりはしなかったんですよね。大阪から横浜に来てからは、変な奴だと思われていたはずなんですけれど。
――今振り返って、どんな子供だったと思いますか。活発だったのか、大人しいほうだったのか...。
加藤:よく喋るほうだったと思います。転校生だから、自分から入っていかないとサバイブできないんですよ。大阪にいたせいか僕はまあ喋るし、男子の友達も女子の友達も多かったけれど、かといって男子の中でイケてる人みたいな感じではなかったです。言葉がきついから小学生の頃は人に嫌なことも言ったと思うし、それで嫌われたこともありました。でも、わりとよく喋っていました。積極的に発言しないと生き残れなかった。
――どんな遊びをしていたんですか。なにか夢中になったことや打ち込んだことは。
加藤:ゲームもやったし、一輪車もやりました。小学校低学年の時には塾のほかに、少林寺拳法とピアノを習っていました。それって全部一人でできるものなんですよ。僕は一人っ子だし、それで協調性が欠けていたんです。
今グループで活動しているけれど、やっぱりパス回しみたいなものは苦手なんです。先天的に周りが見える人っていますよね。サッカーでも、視野が広くて的確なパスを出すことができる人はいる。自分はそういうことができないんです。後天的に身に着けた部分はありますけれど。
なにかを一人で黙々とやることが好きでした。昆虫とかも好きで、図鑑はよく眺めていました。図鑑はいまだに好きです。小さい頃、家に五十音順にいろんな項目を紹介する図鑑があったんです。「き」で「恐竜」とか「ち」で「地球」とか。あれがものすごく好きで、ずっと眺めていました。小さい頃は一回読んだだけでは分からないんですけれど、定期的に読み返してだんだん分かるようになっていくのが楽しかった。それでいろんなことを憶えて、世界中の国旗を全部言える子供でした。
――すごい。
加藤:今はまったく言えません(笑)。小さい頃のああいう記憶はなくなりますね。乳歯みたいなものなんだと思う。
なにかを憶えたり勉強をするのは好きでした。あまり感情とか情操的な部分には興味がありませんでした。10歳くらいまではご飯を食べて「美味しい!」ということもなかったし、なんか、人間的な機微が全然なかったんです。
ゲームをしていてもストーリーの部分を飛ばしていました。その頃は「ドラクエ」とか「ファイナルファンタジー」をやっていたんですが、ちょうどゲームの物語が分厚くなってきた時期なんです。大人になって「ファイナルファンタジーⅦリメイク」をやった時、「こんなにいい話だったんだ」と思いました。