
作家の読書道 第275回:加藤シゲアキさん
小学生の頃から芸能界で活動するなか、2012年に『ピンクとグレー』で小説家デビューをはたした加藤シゲアキさん。『オルタネート』で吉川英治文学新人賞を受賞し、同作と『なれのはて』で直木賞の候補になるなど、作家として着実に前進中。多忙な生活のなかでどんな本と出合ってきたのか、なぜ小説を書こうと思ったのか。読書遍歴とその背景をおうかがいしました。
その4「大学時代、読んで震えた本」 (4/7)
――大学で法学部を選んだのはどうしてだったのですか。
加藤:先輩から法学部なら仕事と両立しやすいと聞いていたんです。授業でそんなに出欠を取らなくて、その代わりテストが厳しい、という。中高時代もそういうスタイルでやってきたので、だったら法学部がいいなと思いました。単位を取ることしか考えていなかった。
でも、入ってみたら法律の勉強も面白かったんですよ。なんか、読解みたいなところがあるんですよね。他人の敷地にどこまで入ったら不法侵入になるのか、とか。境界線の上なのかどうかとか、三苫の1ミリみたいな話になるんです。他にも、胎児を死なせてしまった場合、殺人になるのかどうかとか。どこからが人間なのかなんて、そんなところに線を引くなんて考えたことがなかったんですよね。その感覚が面白かったです。
そういう事例をどうやって判断するのかというと、結局判例なんです。だからそれが絶対的な正解ともいえない。結局、法律とは未完成である、みたいなことを学びました。
――大学時代はどんな本を読んだのですか。
加藤:友達の影響が大きいです。高3の夏休みくらいからみんな、いろんなカルチャーにハマっていったんです。急にダンスを始める奴もいれば、夏休みに映画100本観てきたという奴もいて。もう大人たちと仕事をしていたからかもしれないけれど、僕はある程度どれについても誰とでも会話ができたんです。ダンスの話もできるし、「加藤、あの映画観た?」「観てないわ」「とりあえず観てよ」みたいな話もできるし。そのなかで、お笑いとか映画の話をよくしていた友達が、高校時代に太宰治にハマって、その次に村上春樹にハマったんです。めちゃくちゃオーソドックスな小説ルートをたどっているけれど、周囲の同世代に春樹が好きな人はあまりいなくて、なんか格好いいなという印象でした。僕も高校生のうちに『ノルウェイの森』とかいくつか春樹は読んだんですけれど、やっぱりまだ人間の機微が分かっていないから、あまり理解していませんでした。読んでいて面白さは分かるし「なるほどな」という感じはあるんですけれど、その友達ほどのめりこめなくて。
でも、その友達はいろいろ薦めてくれるんですね。春樹好きは春樹訳のものも探っていくので、薦めてくれた中に春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があったんです。仕事で会った音楽プロデューサーの方も春樹が好きで、その人からは直接『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をもらいました。「僕あまり春樹ピンとこないんです」と言っても「絶対好きだから」って言われて渡されました。
友達も薦めていたし、じゃあ読むかと思って電車の中とか授業中とかに読み進めていたら、なんか、震えてきて。「なんだこれは」って。
その時の僕は、性格をこじらせて、ひねくれていたんですよ。正しく育っていなかった。機微が分からないまま芸能の世界に入って、いろんな大人の思惑にまみれて、自分の道が分からなくなって、迷える子羊になっていたんです。小さい頃の、赤川次郎を読むにしても三毛猫ホームズは読みたくない、と思っていたような自分が肥大化していたと思う。そういう時に読んで、「これは俺だ!」となりました。人に言われることはやりたくないけれど、本当は何かやりたい感じとかがすごく理解できました。それで、「ホールデンは俺だ!」となって。衝撃でしたね。みんなが太宰治の『人間失格』を読んで言っていた、「自分のことが書いてるのかと思った」という感想ってこれか、と思いました。
僕の感覚でいうと、『人間失格』より『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のほうがピュアなんですよ。あと、ラブがあまり出てこない。恋愛から一定の距離があって、シニカルなところも自分に合っていました。これは大人になって読んでも刺さらないだろうなとも思いました。
――加藤さんはドンピシャのタイミングで読むことができたんですね。
加藤:ドンピシャでした。19、20歳くらいでした。「これ俺じゃん、なんでこんなに俺のこと知っているんだろう」と思って調べたら、世界中でめちゃくちゃ読まれている小説でした(笑)。
でも、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が好きな人って、僕の周りには友達と音楽プロデューサーの人くらいしかいなかったんです。仕事では、周囲に茶化す人しかいなかった。僕が本を読んでいたら「お前本なんか読んで格好つけてるな」、ジャズを聴いていたら「ジャズなんか分からないだろう」。どこに行っても茶化されていました。映画の話ができる人はいなくはなかったけれど、好きなものを誰かと共有することがほとんどなかった。でも、だからこそ本がよかったんです。本を読んでいる時は、時代を越えて、自分以外の人と繋がれる感じがありました。「サリンジャーありがとう」って思いました。『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとゾーイー』なんかも読んで、めっちゃ分かるなと思って。それまで人間の機微が分からないから何を読んでも共感できなかった人間が、はじめて共感をおぼえたのがサリンジャーだったんです。
そこから春樹訳にちょっとハマって、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やカポーティの『ティファニーで朝食を』なども読みました。
――国内小説はどんなものを読んでいましたか。
加藤:大学時代に舞城王太郎さんにハマって、全作品ではないけれどかなり読みました。『好き好き大好き超愛してる。』とか『イキルキス』とか。いちばん好きなのは『煙か土か食い物』ですね。阿部和重さんも『アメリカの夜』を読んですごく好きになりました。
たぶん僕、メタフィクションが好きなんですよ。そういう作品がたくさん書かれていた時期だったとも思います。その後、自分の『ピンクとグレー』でも作為的にメタフィクションをやったんですけど、自分でやると余計にメタフィクション好きになりますね。「メタフィクションが好きなんでしょう」って、いろいろな本も送られてくるし。
3・11の時は、福永信さんの『一一一一一』とかも読んだりして。だから僕の読書って、あまりエンタメ寄りじゃないんですよね。大学時代からの友達も芥川賞とか純文学系が好きな人が多くて、芥川賞シーズンになると「今度は誰が受賞する」みたいな話になるんです。円城塔さんの『これはペンです』なんかの話もした記憶がある。円城さんが『道化師の蝶』で受賞された時は「おい、ついに円城塔が獲ったぞ!」みたいな感じになって、あれは事件でした。