
作家の読書道 第278回:丸山正樹さん
2011年に手話通訳士、荒井尚人が主人公の『デフ・ヴォイス』でデビューした丸山正樹さん。同作や『夫よ、死んでくれないか』はドラマ化され注目に。つねに社会的に弱い立場の人を掬い上げる作風は、読書歴を含めどんな道のりのなかで育まれてきたのか。幼い頃からの遍歴をたっぷりおうかがいしました。
その4「大学時代の乱読」 (4/7)
――大学は早稲田大学ですよね。どんなことを学ぼうと思って進学されたのですか。
丸山:浪人時代に、さきほど話した叔父さんが亡くなったんです。それまでは教師が自分には適任かなと思っていたんです。でも尊敬していた叔父さんが亡くなって、なんだか、好きなことをやれって言われているような気がして。方向転換し、映画をやろうと思いました。それで早稲田に行って、2年目から専攻が分かれるので演劇科にいきました。後から知ったんですが、村上春樹さんも演劇科なんですよね。私は直系の後輩なんです。
――演劇科では、お芝居の実践があったり、脚本を書いたりするのですか。
丸山:それがないんですよ。基本的には理論でした。歌舞伎や浄瑠璃といった古典や、映画・映像論みたいなことを学ぶんです。結局、大学時代にシナリオの学校に行って脚本を書き始めました。一方で、同世代の文学をリアルタイムで読み始めたのも大学時代でした。
――印象に残っている作家、作品は。
丸山:まず、村上春樹さんですね。私は『羊をめぐる冒険』以降は全部、新刊が出ると単行本で買ってきたんですけれど、『羊をめぐる冒険』が出たのが1982年で、私はもう21歳になっているんですね。なので、それまでにいろいろ読んでいる中で村上春樹に出会ったんでしょうね。
とにかく、今まで読んだことのないものを読んだ、という衝撃がありました。中学1年生の時にビートルズを聴いて、それまで聴いたことのない音楽だとショックを受けたのと同じような衝撃を受けました。村上さんが早稲田大学の演劇博物館に通っていたと知って、自分も通って戯曲やシナリオ集をいろいろ読みました。シナリオのノウハウというか戯曲の構造みたいなものは、授業よりもそういったところで学んだ気がします。
――大学時代、村上春樹さんのほかに読んだ作家、作品は。
丸山:筒井康隆さんは『虚人たち』から読み始めて『虚航船団』、『夢の木坂分岐点』、『驚愕の曠野』、『残像に口紅を』、『文学部唯野教授』あたりまでリアタイして、その実験精神にはまりました。同世代のスター作家の島田雅彦さんは『優しいサヨクのための嬉遊曲』から『未確認尾行物体』くらいまでリアタイし、山田詠美さんは『ベッドタイムアイズ』から『風葬の教室』あたまでリアタイしてますね。他には福永武彦さん『草の花』、高橋源一郎さん『さようなら、ギャングたち』。
佐伯一麦さんの、『木を接ぐ』『ア・ルース・ボーイ』の頃から始まり、やがて結婚して家族をつくるまで描く一連の私小説には〈デフ・ヴォイスシリーズ〉を書くにあたって影響を受けています。
それと、もしかしたら私は、村上龍さんにも直接的な影響を受けているかもしれません。村上龍という人は、小説家として以上に表現者としてアジテーター的なところがあったんですよね。『コインロッカー・ベイビーズ』は素直にすごいなと思って読みましたけれど、『テニスボーイの憂鬱』や『愛と幻想のファシズム』は、わりと思想的なことを受け取るところがありました。バタイユのいう「蕩尽」という考え方がありまして。生産的消費に対するアンチテーゼとしての非生産的消費ということなんですが、私はそれを村上龍作品から受け取ったんですよ。
この頃は作家って、小説以外のところで注目されることも多かったんですね。特に中上健次は、『岬』『枯木灘』といった小説ももちろんすごいんですけれど、その言動が注目されていました。中上健次が誰のことをどう言うかが、ひとつの文学的評価基準になっていました。
20代半ばの頃に「吉本隆明24時」というオールナイトのイベントに行ったんですよ。いろんな作家や評論家が入れ替わり登壇するイベントで、中上健次、島田雅彦、山田詠美、といった人たちを生で見て大興奮しました。その時の講演内容が全部おさめられたムックは大事に持っています。
――丸山さんはニューアカデミズムの世代ですか。
丸山:そうなんですよ。大学を卒業する頃には完全にニューアカブームでした。当時の文学少年って、本ばかり読んでいるから正義とは、善とは、ということに対して近視眼的というか、観念的になっているんですよね。そこにニューアカブームが来て、また違う価値観を与えられたという感じでしたね。
ただ、私の場合はちょっと違って、ニューアカの前に笠井潔さんがいたんです。『バイバイ、エンジェル』から入ったんですが、これが小説を通して現代思想が分かるという画期的な作品だったんです。この矢吹駆シリーズを読み進めると同時に、笠井さんが当時発表していた評論も読みました。それで影響を受けたのが『テロルの現象学』と『戯れという制度』で、これはもう目からウロコでした。笠井さんによる党派観念批判で、自分のそれまでの善とか正義とかに対する観念的な考えがひっくり返されました。うまく説明できないんですけれど、どんなに善なる思想や理想も、それが党派観念にエスカレートすると、結局連合赤軍や新左翼内ゲバのような、他者を排除してよいとするテロリズムに転化していく、と主張していると私は受け取りました。
笠井さんの著作に吉本隆明さんの名前がちょくちょく出てきたんですね。中上健次も吉本吉本と言っている。それで吉本隆明の本も読みました。『言語にとって美とはなにか』とか『共同幻想論』とかを読むんですけれど、ぜんぜん分からなかった。ただ、『重層的な非決定』は、タイトルの言葉がストレートに入ってきました。物事は重層的に、さらに非決定的に論じなければいけないんだっていう。それは自分の、物事を多面的にフラットに見るというところに繋がっていると思います。当時、文学や映画を通して正しさや理想的なものを追求したいという思いと、左翼的な運動も含めた現実の政治活動に対する抵抗感の間でもだえていた私は、この二人の言説によって救済された思いがしました。エンターテインメントに哲学や思想を持ち込んでいいのだと思わせてくれたという意味でも、笠井潔と吉本隆明は、私にとって重要な人ですね。
――さきほど、大学時代にロス・マクドナルドの『さむけ』を読んだとおしゃっていましたが。
丸山:『さむけ』をいつ読んだのかは正直よく憶えていないんですけれど、大学時代にミステリも含めて翻訳ものをよく読んだので、この頃だと思います。『さむけ』は私にとって、目指すべき到達点だと思いました。その理由は、作品の完成度や物語の面白さに加え、事件の解決の過程で、「家族」の問題を中心とした社会的な課題や主人公自身のアイデンティティも同時に問われる、という構成の妙にあると思います。執筆時に強く意識しているわけではありませんが『デフ・ヴォイス』をはじめとした自分の作品には、自分もそうした作品が書ければ本望だという思いがあるような気がします。
この時期に翻訳小説を読むようになったのは、人の影響です。シナリオ学校では、まわりがだいだい年上の人で、その人たちから海外ものを読めと言われたんです。ジャック・フィニィの『盗まれた街』、『レベル3』、『ふりだしに戻る』、『ゲイルズバーグの春を愛す』、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』、ハインラインの『夏への扉』、レイ・ブラッドリの『華氏451度』、『何かが道をやってくる』、カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』、『スローターハウス5』、J・P・ホーガン『星を継ぐもの』...。SFが多かったですね。
ポール・オースターも読みましたが、それがはじめての同時代のアメリカ文学でしたね。最初はミステリだと思って『鍵のかかった部屋』か『シティ・オブ・グラス』を読んで、ミステリではなかったけれど「ああ、面白い」と思って。それで、柴田元幸という翻訳家と、翻訳家で選んで読むということを知りました。
ジョン・アーヴィングは、それまで読んだものと違うタイプだと感じました。『ガープの世界』、『熊を放つ』、『ホテル・ニューハンプシャー』、『サイダーハウス・ルール』などを読みましたが、SFでもないし、完全なリアルの小説とも違う。村上春樹をはじめて読んだ時に近い感覚がありました。他の人とは違うという、ちょっと特別な存在です。
アーヴィングは映画化された作品も多いので、映画も観ました。それでいうと、映画から入って読んだミステリもいろいろありましたね。パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』とか、セバスチアン・シャプリゾの『シンデレラの罠』とか。スティーブン・キングも映画化されたものが多いですよね。『キャリー』は原作を読んでから映画を観て、他には『呪われた町』とか『クリスティーン』とか『ミザリー』とか。『クージョ』は映画と小説をほぼ同時に体験しましたね。
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