『罪の轍』奥田英朗

●今回の書評担当者●ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理

 3年前、ノンフェクションの名著、本田靖春著『誘拐』を読み、吉展ちゃん誘拐殺人事件を知った。事件の全容、捜査、世相はもちろんのこと、犯人の生い立ちから徹底的な取材を積み重ね、淡々と書かれた文章は、重厚で、その事件の背景をも考えざる得ない骨太の作品で、自分の心のありかに動揺した。

 そして、今、小説として本書『罪の轍』が自分の前に現れた。
 まさしく吉展ちゃん事件をモチーフにした小説である。
 著者は奥田英朗。読まないという選択肢はない。

 礼文島、昆布漁に従事、窃盗で食いつなぎ、子供たちから「莫迦 寛治」と呼ばれる北国訛りの若い男が、番屋に火をつけ、金品を奪って逃げる。そして1年後に東京オリンピック開催が近づく東京に降り立つ。
 昭和38年東京、豆腐屋の幼な子 吉夫ちゃんが誘拐され、身代金を要求する電話がかかってくる。

 過去、警察は、電話の逆探知をしたことが一度もなく、身代金の札番をとっていない、連絡の不徹底等度重なる不手際で身代金を奪われただけという失態をおこしてしまう。
 報道協定、公開捜査、取り調べでの駆け引き、息詰まる展開に目が離せない。
 警察の威信にかけ、幼児の早期救出を願い、執念の捜査が臨場感たっぷりに描かれている。
 先が知りたくて、知りたくて、何の雑音も入ってこず、自分とその世界が一体化したようだった。

 貧しいながら懸命に生きる山谷の人々が登場し、その時代を物語るように濃く色が添えられていき、事件と絡まり、胸に迫ってくる。
 時代、世の中の理不尽に闘いながら、必死に生きてきた人たちがいた。

 犯人の不幸な生い立ち、貧困、圧倒的な孤独が自分にのしかり、容赦なく心に忍び込む。

 昭和の東京オリンピック前と東京オリンピック前の現在。
 本書が今現れたことは偶然ではないように思える。
 昭和のその時代に思いを馳せてみる。
 高度経済成長期に乗りきれなかった、置いてきぼりになった人たち。貧困が、格差が、この事件の背景にあったと。
 貧困、孤独。
 事件の結末はわかっているにもかかわらず、どうして、これほどまでに、貪るように我を忘れて読んでしまったのか。

 587ページ、一気読み、中断することなんて不可能、長さを全く感じなかった筆力。

 小説だから成しえた時代をより濃く描き出していた。
 一度目、貪るように読んで、二度目、かみしめるように読んだ。
 この時代の匂いを感じ、エレジー、慟哭が腹の底まで染み渡ってきた。
 確かに、本書を読んでいる瞬間は自分とその小説の世界だけの空間で、他のものが入り込む余地はなく、この時代の色に染まっていた。
 私は何度も読むたびに新たな自分の感情が刻まれると確信する。
 小説の醍醐味をこれでもかと堪能する傑作小説、心の震えが止まらない。

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ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理
ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理
生まれも育ちも京都市。学生時代は日本史中世を勉強(鎌倉時代に特別な想いが)卒業と同時にジュンク堂書店に拾われる。京都店、京都BAL店を行き来し、現在滋賀草津店に勤務。心を落ちつかせる時には、詩仙堂、広隆寺の仏像を。あらゆるジャンルの本を読みます。推し本に対しては、しつこすぎるほど推していきます。塩田武士さん、早瀬耕さんの小説が好き。