第三回 インタビュー直前までの話

▼相手を見上げて訊け、から始まった

 僕のインタビュー仕事のはじまりは、フリーランスになる前の出版社の頃にさかのぼる。エロ系の出版社で、風俗嬢やアダルト・ヴィデオの俳優からエロ劇画作家までという幅がひろいといえば広く、狭いなと思えば狭い世界で徒弟時代を過ごしたといえる。
 いまだに忘れられないのは、カゼッタ岡さん。自称宇宙人だ。『対話式・こと座星系宇宙語辞典』という馬鹿な企画を思いついて、何度かお話を伺いに行った。岡さん、打ち合わせ中は、いたってまともな「昨日の巨人はダメだった」とか「焼そばバゴーンを焦って食べたらヤケドした」という話をする。いざ本番でレコーダーを回すと大まかな規則性だけを残す宇宙語でまくし立てる。意味を問うても日によって内容が変わるので、あてにならない。こっちも真面目な編集者一年生だったから、馬鹿げた企画でも真面目に辻褄を合わせようとしていた。だから度々、本気で怒ってしまった。途中で会社がおジャンになったので、この会話を録ったMDは押入れの奥に眠ったままだ。
 その時期に先輩編集者に教えてもらったことは、相手をいつも見上げて訊けということだった。当時、話を伺った方のほとんどが、ぶっ壊れ系の方で、通常のエロ媒体から斜め四五度ほどズレたひとが多かった。意識はしないが、はじめのうちの僕は「俺はまともだ、ノーマルだ」という態度が出ていたんだろう。相手は心を開いてくれないことが多かった。そこで悩んでいると「見上げて訊け」とアドヴァイスを受けたのだった。
 それからインタビューの仕事を数本続けて、フリーランスになったので、スキル皆無の状態で世の中へ出ることになった。会社在籍期間は一年もなかった。二〇〇〇年の十月のことだった。

▼誰に訊くか、という問題 

「今度、鈴木清順さんの新作があるので別冊を出すことになったんですけど、どうですか、ちょっとやってみませんか」
 と、河出書房新社のMさんから電話があった。二〇〇一年の一月ごろだったように思う。当時、僕は刊行せねばならない企画を前の会社から引き継いでいるだけで、失業初体験を引きずっていた。道端のシケモク拾いにも馴れた頃だった。出来れば、住む場所から追い出されずにまともに暮らせればと思っていた。だからMさんからの誘いに飛びついた。
 一冊のムックをすべてやる、と言うことは想像の埒外だ。僕はいままで一冊もフィニッシュまで持っていったことがないのだ。しかし、引き受けたからにはやり遂げなければならない。仕事をして金を稼がなくてはいけないのだから。
 この時の体験が、インタビューの基本を考えるうえで良い助けになった。この仕事、インタビューを行うまでの流れとしては左のような流れになる。

イ●誰に訊くか
ロ●何を訊きたいか
ハ●依頼を受けてもらう
ニ●日時を決める
ホ●相手の資料を読む

 鈴木清順ムックを手がけるにあたっては、誰に訊くのがいいか。誰ならば読み手が納得するか。そこをまず考えた。まず僕は東銀座にある松竹大谷図書館へ行った。ここには映画の資料がたくさんある。京橋フィルムセンターの図書室や番町にある川喜多記念館もあるけれど、貧乏による空きっ腹を抱えて歩くのがしんどかったので、近場を選んだわけだ。
 大谷図書館へ半日ほど籠って、鈴木清順の年譜にあたり、交友関係と映画出演者、スタッフなどを洗い出した。重要な評論などはコピーをして帰った。部屋はカネが払えず電気を止められているので、近くの激安喫茶店に入りノートをとった。評論の寄稿者は割合に地味でカタい人選でも成り立つ。インタビューは雑誌を好きで読んでる己としては、華のあるもんだ。だから当時のスターを中心に選んでインタビューすることに決めた。
 誰に訊くか、というのは予め主題が決まったものであればストレートな考え方でいいと思う。妙に通ぶってヒネるより、いいも悪いも「ああこの人か」と思ってくれる方がいい。
 僕が「月刊宝島」で原発関連のインタビューを行うときも「ご存知誰それ」というひとをまず候補に上げる。読者の安心を買うのである。事情によってNGが出たら、少し変わった人選を考えてみる。安心を買えないなら、内容の面白さを優先させてみる。読者が反感をもつひとでもいいのだ。良い例はさいきん僕が行ったロングインタビューでの渡辺恒雄だ。
 主題のないインタビュアーに一任されるような仕事の場合は、雑誌であればその号に即した、もしくは真逆の人選を考えるとかがある。あとは世間の潮目に浮き出ている、浮き出そうな事象やひとにスポットを当てる。
 ただ、インタビュアーは人間だ。
「こいつばかりは話もしたくない」
 という人物がいるはずだ。この判断は意外にパブリックイメージに左右されて好悪を考えるのが常だ。話を訊くことでそのイメージを引っぺがす好機(後述するが、逆に相手によって利用されることもある)でもあるので、じつは勿体無い選択なのかもしれない。
 けれど、それは間違いではない。プロとして誰とでも、というのもアリだけども相手が嫌いだったりすると話は弾まないものだ。ここは実生活だってそうなのだから、弾まない話を原稿にしてもいい仕事として残らないだろう。

▼何を訊くか、は意外に絞れなかったりする

―ズバリ、吉田さんはかなりのつげ義春フリークだとか。ラジオでよくお話を聴いてました。つげ忠男さんもいいと以前の放送で。
吉田「え! よく知ってますね、そんなに漫画について喋ったかなあ」

―吉田さんはつげ義春のどこが一番いいと思ってらしたんですか? 「紅い花」とか激賞してらして。
吉田照美「やっぱり魅力は、あの、生活感がありながら、それとは間逆な現実とのシュールな違和感ですね。それとさっき説明したように、自分と共通点、そのう、つげ義春さんも僕と同じ赤面症だったというのがね、心に刺さってたんですよ」
(2002年「伝説マガジン」05号 実業之日本社「マンガしか頭になかった!」)

 右の引用は僕がコーナーを務めた著名な漫画ファンへのインタビューのやり取りの一部である。この時は、依頼前からキャスターの吉田照美へのリサーチは完璧にやれていた。と、いうのも僕が彼の番組である「吉田照美のヤル気MANMAN」(文化放送)以前からのディープな「吉田リスナー」であったことがあったからだ。ネタの投稿者としてのハガキ職人として、ファックス職人として十五年、コーナーの飛び入り参加者として三回という経験があって「吉田照美のつげ義春好き」は知っていた。そして「何を訊くか」が明確だった。吉田がファンなのはつげ義春であるということで、その作品を巡ればいい話は聞けるはずだと。彼が好きだとラジオで語っていた作品もすべて読んだうえで本番に臨んだのだった。
 ところが、失敗すると次のような事が起こる。

二谷英明「............で、何か?」
―え? ああ、あの清順さんの現場は......
二谷「あれ、さっき話しましたよ(苦笑)」
―あ、すみません。では「東京流れ者」の撮影についてはここまでにしまして、ダンプガイ時代の思い出を」
二谷「ああ、でもちょっとその時代のことは」

 これはもう放送事故である。
 録音機を止めたくても止められないという全身冷汗の状況だった。あの気まずさはいまでも思い出せる。この責任は僕にあるのだ。清順映画である「東京流れ者」以外の日活作品を訊こうとしてしどろもどろになっていた。依頼の際に、もう少し突っ込んだ内容を訊くつもりがあることなどを伝えるべきだったのだが、それを省いた。また訊く前に、どこでダンプガイ時代のことを質問すべきか整理しておくべきだった。その結果は原稿がボツ書になり、改めて寄稿をお願いするという事になったのだった。
 このひとに訊きたい! という欲望が成り立ち、それが編集部に承認された途端の陥穽が「訊くことを絞る」ということだ。相手は自分とは違う時間や体験を積み重ねている。ということは、話の抽斗がそれだけあるということだ。限られた時間で相手の過ごした時間と思いを引き出すのだから、こちらはポイントを絞ってかからねばならない。訊く側がアタフタしていてはあちらは困惑するだけで、インタビューにおいて得るものはない。
 二谷英明はインタビューを受けることに、「もう昔のことなので」とはじめは難色を示していた。そこを僕は失業中の身の上で、いまあるムックの編集職を失う恐怖もあり、ゴリ押しで交渉を行った。二谷の渋い演技が見られる「特捜最前線」の細かいエピソードを話した。彼が以前、長崎でアナウンサーの経験があることを知ってると話した。その上司にお世話になったことも語った。そこでようやく承諾を受けた。で、本番でこの失態なのだから悔やんでも悔やみきれない。
 次はインタビュー前段階の「依頼を受けてもらう」「日時を決める」「相手の資料を読む」ことについてを喋ろう。戦端を開く前の準備が、インタビュー全体の三割の出来が決まると思うからだ。