第七回 リラックスした場を提供する

▼渡辺恒雄インタビュー

 まず、このインタビューは月刊宝島で行われた。春に盛り上がりつつあった維新の会の話題を受けて僕が企画した。横行しているポピュリズム政治について訊きたい、原発推進派としての持論も訊きたいということでだ。ダメもとで依頼をすると、承諾の電話を讀賣新聞広報の方から頂いた。
 オーケーが出たらすぐに準備だ。渡辺恒雄は著作が結構ある。片っ端から読むために古書店で持っていない本は購い、既に読んでいたものも再び目を通した。魚住昭の研究ルポは以前に読んではいたが、がっかりするほど紋切り型左翼調な筆致でげんなりさせられていた(その後、小泉改革時に氏と対談する魚住を目にした。一度筆誅を加えた者が、いかに相手が魅力的だったとはいえ、あれでいいのだろうかと考えたものだ)。
 僕は二〇〇七年の夏の浅草にあるマクドナルドで、二〇一〇年の冬には有楽町ビックカメラの一階で、ジーッとメニューや液晶テレビを見つめる渡辺さんを目撃していた。その姿がやたらに印象的だった。魚住描くところの権力亡者とは程遠いものだ。好奇心の塊が二本の脚を生やして歩いているというイマージュだった。なんだか面白そうな人だ、という気持がずっとあったので、資料読みは苦もなかった。論者としては意外なほどリベラリストであることも理解できた。保守ではあるが、中道的共和主義者という印象だった。
「月刊宝島と言えば、僕を貶したりしてたねえ。上げたり下げたりと忙しいもんですね」
 讀賣新聞社屋で行われたインタビューは開巻から軽い皮肉なジョークで始まり、リラックスしたものだった。
 けれど、序盤は渡辺持論の展開が硬い調子で語られていたので、僕は打開点を探していた。そこで思い切って、自分の持論をぶつけてみた。予定にはなかったが、己の政治観を生硬でもいいから開けっぴろげてみるのがいいと直観したからだった。
「僕はですね、現行憲法の理念は大事だと思います。だけど九条の不備は是正することは求めたいのです。つまり交戦権がないことですね。これがないと自衛隊すら働けない。それと財産権の再検討も。ただエネルギー問題では鼻から原発は反対なんです。国防上、五四基も国土に配置するのは危険です。その上で、これからの政治を伺いたいのです」
 渡辺さんはパイプを口から離して、震災についてや現政権について質問してきた。まさかこうも素早く返す刀が振り下ろされるとは思わなかったので、僕はうろたえた。
 震災に関しては阪神淡路大震災での体験、僕がボランティア参加した当時の話をした。現政権については震災国防を説いた寺田寅彦の本の感想や福島の自主避難者の方々の苦労を口にした。彼はその一つ一つにコメントし、自主避難者の苦悩(住民票が移動していないので補助制度を受けられないこと)にため息をついた。それからおもむろに、敗戦直後の思い出、保守政治のスタート時の頃、外遊中のことを語り出した。
 予定は一時間だった。それが伸び、終わってみると三時間になろうとしていた。ロングインタビューの場合は「こぼれもの」が大事だ。原稿整理する際に、色合いの深みがつく。人物の陰影が読者に届く。だから、側近の方々には迷惑をかけるな、と思いつつも渡辺座談をどんどん聞いた。分かる場所で合いの手を入れる。合いの手も変に入れると話の腰を折る。自分が分かる部分だけで「なるほど」とか言えばいい。政治から話はドイツ哲学に及び、その咀嚼力の強さに正直感嘆した。
 話題を多く持ち、こちらよりも経験も豊富だと先に理解できる相手の場合は、話のきっかけ、キューを送るだけでいいと僕は思っている。下手にいろいろと訊こうとすると、相手の気持を折ってしまう。喋りたい、何かを伝えたいと思っているひとには、場を提供するだけで、現場のインタビュアーの仕事の大半は成る。邪魔立てしないことだ。
 ただひとつ気をつけることは、情報の整理を戻って机に向かう際に困らないように、終わったその日にメモを付けておくことだ。出来れば、構成の素案くらいは考えるようにしておくことだろうか。

▼鎌田慧と小野民樹の座談

 「雲遊天下」というクオータリーがある。僕はこの雑誌の常連寄稿者の一人だ。ここの五十嵐編集長とは特集などで意見を交わすことが多い。昨年の秋、僕が大患をし、さらには三度目の失業を味わっていた頃、新宿で五十嵐編集長と会った。この時に「雲遊天下」の特集の話題が出た。
 僕は「エンタクシー」誌で掲載されている文芸編集者と作家を呼んでの座談を読んで、ひとつの不満を持っていた。それはその雑誌に対する不満ではなく、「何故にノンフィクション分野ではこのような座談の機会がないのか。時代性というものも浮かぶ良い企画であるのに」というものだ。そのへんの事を語ると、鎌田慧とその担当編集者であった小野民樹の座談をやろうじゃないかという話になったのだった。
 僕は小野さんに師事している身であると思っている。なのですぐに依頼をし、承諾を得た。編集者と作家の座談だと編集者の芸談みたいなことも出るので、そういうのは回避したいなという注文が出た。なるだけ黒子に徹したいという小野さんの気持にグッと来た。僕はこういうひとに弱いのだ。
 次は鎌田さんへ手紙を送り、電話をかけた。夫人に取り次いで頂き、二回目で話が出来た。
時間と場所も決まって、僕は進行役として復習をせんといかんと思い、小野さんに教えられた著書や二人が生み出した本を読み返した。
 ここでひとつ情けないハプニングがあった。一回予定していた対談が、直前の確認を僕が怠ったために対談者の一人が欠席してしまったのだった。「勘違いしていた」と仰ってくれたが、詰まるところ、こちらのミスである。時間と場所の確認は前日に! というのを再確認させられた失態だった。
 仕切りなおしての座談は三鷹の喫茶店で行われた。鎌田さんとは、僕は二回目にお目にかかる。一度目は小野さんの出版記念会でチラッと会話に加わっただけだったので、ほとんど初回といっていい。緊張した。
「ああ、このひとがあれだ、小野さんの友達の変なひとね」
 と、一発目で言われて笑ってしまった。鎌田慧さんの本や文章は重厚だとか言われるが、よく読むとユーモアも豊富だ。このユーモアは地のものなんだなあと、座談のはじめは思った。しかし、話が進むにつれて「おや」と思った。鎌田さんのユーモアは多くの人達に取材するうえで大事な仕事道具ではないのかと。それは修練なのか、対談の進行(ほとんど聞き役だったが)に気を取られて質問をしそびれた。
「岸川さんはあれだねえ、本当に幸せだよ。小野さんにシートノックされるんだから。力のある編集者にやってもらえるほど幸せはないねえ」
 ゴーリキー三部作である『母』(岩波文庫)などの話題やイリヤ・エレンブルグのことでついくちばしを挟んだ折に、「へえ、古いの読んでるんだね」と感心されたので「いや小野さんに教えられて読んだんです」と答えたら右のような鎌田さんの発言になったのだった。僕はへへへと照れながら頭を掻いたが、慌てて話題を移した。
 この時の読ませる目玉は鎌田さんの編集者時代のこと。記録芸術を提唱した花田清輝との出会い、そして寺山修司とのことなどを聞き出すことだった。そこからロシア文学的な味わいが鎌田ノンフィクションにあることの源流についても。そして小野さんの岩波新書でのノンフィクションシリーズのことだ。僕にとっても大事で、しかも興味深い話題なので、そっちのことを強引に訊こうとして失敗し、小野さんがその役目を果たすということになった。
 そこで小野民樹さんから改めて学んだのは、質問の間とリラックスした雰囲気を壊さず、相手が話すまで質問を隠すという芸当だった。
小野さんは鎌田さんの脱線に「へえ、そうだったっけ」とか「そういえば、あの雑誌の原稿は『シラノの晩餐』のあとがきになってましたね」など会話に寄り添い、花田や寺山などのキーワードを隠して話題を進めていく。そして自然に、ごくごくナチュラルなトーンで花田や寺山、ゴーリキー、イリヤ・エレンブルグに繋がって、果ては裁判官の根底にある意識や大逆事件のことにまで広がっていくのだから舌を巻いた。僕もまだまだ未熟も未熟、小僧っ子である。
 ずいぶん下手な司会進行になったのだが、個人的には得をした気分だった。知識の上でも、仕事の芸当についても学ぶ機会を得られるというのは、まったく幸せなものである。