第10回 文字を起こすということ

■インタビューの難関。文字起こし

 さて、ここまで準備、そして話を訊く、という段階まで進めてきた。ここからは最もめんどくさい、文字起こしについて書いていく。
 文字起こし専門の業者がいるくらいに、この作業は面倒臭がられている。喋ったことをまとめるんでしょ? 覚えてないの? 簡単じゃん。そう仰るならば、じっさいにやってご覧なさい。五分でいいので会話を録音してその内容を起こすだけでシンドイと感じること請け合いだ。
 人間の対話というのは、対面して言葉を交わしている間は字数なんてものを考えない。喋るぶんにはタダなんだから損とばかりに言葉は垂れ流される。ところが、読ませるものとして、いざ文字に置き換えていくとなると五分の会話でも果てしなく感じるだろう。僕がいま仕事でやっているインタビューでは、おおよそ三〇分をまとめると二〇〇〇字にはなってしまう。会話の内容をオミット、編集もなし、つまりベタ起こしを行うと倍になる。
僕は売れない小説家でもあるわけだけど、四〇〇〇字を三〇分で書き上げられるというのは夢の様な数字だ。つまり、会話というのは言葉の燃費が悪いのだ。

■初めての文字起こし体験

 僕が文字起こしを初めて行ったのは、学生の頃だ。恩師の佐藤忠男が映画史を受け持っていたのだが、聴講生が極端に少なかった。羽仁進「不良少年」なんてレアな作品をフィルムで鑑賞できるのに、出てくる学生は一桁という有様。佐藤先生は淡々と少ない学生相手に講義をしていた。これはもったいないなと感じたので、録音機を持ち込んで文字に起こしてみようと思った。まあ、それが講義録になって学校に寄贈でもしてやればいいや、と軽い気持であった。ところが録音をしたテープを前にして愕然とした。九〇分の講義が途轍もなく長く感じるのだ。講義が長いわけじゃない。文字にしていく手間暇の体感時間が長かった。
 ひとは「えー」とか「そのう」とか普段は平気で口にする。ベタ起こしは言葉を細大漏らさず拾っていく作業なので、先生が発する「えー」やら「あのう」「なんつったっけな」とかが原稿用紙(当時、ワープロすら打てなくて手書きで起こしていた)の升目が埋まっていく。その徒労というか、苛立ちというか、なんとも言えない感覚を味わった。つらい、なんだこのつらさは? とテメエで決めた作業なのに代わりに講義録も拵えない学校を呪ったりしたものだ。最初の講義九〇分をベタで起こし終えたのは録音日から数えて一〇日だった。これを佐藤先生のもとへ持ち込んだらまた凹んだ。
「手間がかかるだろう。けれどこのままじゃダメだね。重複箇所を取り除いて、各項目を作って読みやすく編集しないとね」
 普段は強面な佐藤忠男が口の端に微笑をたたえながらそう言った。僕は「はあ」としか応えられずに教務室を出ていったものだ。後で述べるが、このベタから編集構成という作業がまたキツい。長いものをまとめていくうえで必ず通るものだが、字数の縛りなどあると非常に頭を酷使する。経験の浅いひとにとっては、ほとんど、原稿をイチから書くくらいの苦労だと思う。僕はベタの講義を新しい原稿用紙に切り貼りして構成を考えていった。やっとこさ、ひとが読めるものになるまで一ヶ月近くかかった。
 けっきょく講義録の野望は七回で潰えてしまい、切ったり貼ったりして作成した原稿用紙は押入の奥に眠ったままだ。

■ドキュメンタリーで文字起こし

 学生時代、ドキュメンタリーを専攻していた僕はまたも文字起こし地獄に出遭うことになった。ドキュメントでの対話の起こしは講義を起こすのとは意味が違う。テーマである事象、人物を読み解く鍵を見つけるという性格が濃い。インタビュー中に何気なく流していた会話の端々に作品そのものを表現するようなキーワードが潜んでいるのだ。
 二年の短編実習で被写体になったのは同期の山辺健史(現在はライターとして活躍)だった。彼が、というかコイツがSMをネタにしたいと言い出して撮影スタッフに参加したのだが、肝心の撮影がモタモタしていた。女王様とお茶して帰ってきたとか、サドの一般女性と酒を呑んでキスしてきたとかそういうことばかりだった。というのは、被写体兼監督の山辺がSMをしたいのだが、心のどっかで怖がっていて、やろうにも踏み切れないでいたからだった。そこで僕が演出を買って出て、山辺を虐めに入った。無理にでもSMをやってもらうために。
 撮影は二週間で終えて、編集作業ということになる。僕が演出を始めるとコトがあらぬ方向へ行ってしまったので、文字起こしは必須となった。
「SMをカノジョとしたいって山辺が言ったのは、それまでの自分から解放されたいからだとかインタビューで言ってましたよね」
「そうだな」
「でも、カノジョに拒否られて、女王様とSMをやりましたね。でも痛がって泣いちゃうほどで」
「途中で女王様がやめちゃって、撮影を止めて説教始めたよな。マイクだけ仕込んでたっけか」
「お前の問題の本質はSMすることじゃないとか......諭されて......で家族のバラバラ感が極端な欲望に火をつけるんじゃないかとか誘導したら、一人旅に出ちゃったと」
 相棒のKくんと僕は編集室でテープを再生しながら相談した。とにかく、なんで一人旅に出ちゃうのか客にわかってもらえるために整合性を探そうよとなった。そこで文字起こしだ。僕はもう講義の件があったのでゲンナリした。結果、以下の会話になった。
「ダメじゃないですか岸川さん」
「なにが?」
「文字起こしになってないですよ、なんか単語だけ抜き出してて。僕は寝ないで他のテープを起こしてきたんですよ!」
「偉い!」
「偉いじゃないですよ。もう!」
「いや、大事な箇所を見逃してないかチェックしたんだ。そこで出てきた単語を抜いてだね、それを鍵にして字幕とかで区切ったりしてさ、構成してけばいいかなあってね」
「手を抜いただけですよ!」
 と、同期生に叱られた。僕の理屈は屁理屈だ。けれど、いま考えるとキーワードを抜き出すという発想は我ながら悪くない。そこは読み物ならば、小見出しになる。ただこの時は煩瑣なダラダラした会話が半分を占めるドキュメントの文字起こしから逃避したかっただけだったのだが。

■編集者になってからの文字起こし

 学生時代、けっきょく文字起こしを断固として拒否して卒業した。労苦を厭うて卒業製作では失敗してしまった(この卒業製作が後年に拙作「蒸発父さん」(幻冬舎文庫)になるのだが)。このチマチマした作業は本当に嫌だった。
 卒業後の助監督生活から編集者という転身を経たのち、文字起こしにぶつかった。市川崑作品の魅力を語り尽くすという趣旨で企画された、和田誠さんと森遊机さんの共著「光と嘘、真実と影」(河出書房新社)の編集をズブの素人同然で行った時のことだ。僕は和田さんにゲストの井上ひさしさんや宮部みゆきさんとの対談原稿を作る際の準備に何が必要かと訊いた。
「ああ、とりあえずさ、ベタで起こしてくださいよ。それをこっちで編集して戻すから。ああ、相手の会話をいじったりはしないよ。そこは向こうに見てもらって直してもらうから」
 明快な回答だった。僕は対談一回二時間半はあるものを六本、森さんと和田さんの対話を七時間ほどベタで起こすことになった。ハナから嫌いな文字起こしである。けれど、その時は駆け出しでもあり、ファンである和田さんに褒められたくて必死で文字にしていった。この時はテープではなくMDだ。だけどもズボラなところは治らない。結構な箇所で意訳気味の起こし原稿を作ってしまった。すると、森さんから「テープで聞き返すと内容が端折られてる。ガチっと起こしてね」と注意が飛んできた。僕はまたあらぬ方向へ怒りをぶつけながら作業を続けた。この作業中に会社をクビになってフリーランスになり、電気もガスも水道も止められてしまう生活に突入していた。作業場も公園や図書館を転々としたものだった。

■ベタじゃダメなんだ! とガックリ

 この長時間ベタ起こし作業をパン屋で貰った食パンの耳をかじり、見切り品の牛乳で飲み下しつつ続けていたある日のこと。何度か本稿でも触れている河出書房新社から出しているムック「文藝別冊」で鈴木清順監督を特集するので編集してみないかと誘われた。家賃の滞納も五ヶ月を超えるので、その誘いに僕は飛びついた。話をくれた編集者M村さんが「基本さ、インタビューで構成すればいいから!」と言うので、舐めてかかっていたのかもしれない。
 さっそくスターや鈴木清順関係者へのインタビューを行った。自分が訊くものであれば基本的に構成は自分だろう。そうひとり決めして、トントンとこなしていった。だが、対談原稿は手を入れちゃいけないんだろう、とこれまたひとり決めした。なので大林宣彦監督と石上三登志さんの対談、森卓也さんと石上三登志さんの対談はノーカットでベタ起こしをして対談者に送ったのだった。すると、深夜の電話が鳴ったのである。
「あのね、キネマ旬報の酒井編集長の対談原稿なんて素晴らしいものですよ! これはなんですか、ダラダラした会話ばかりで。これはイチから私たちが訂正して書き起こすしかない内容です!」
 森卓也さんからのお叱りだった。早口でまくし立てられ、独特のキーの高い声はいまでも忘れられない。僕は頭が真っ白で何も答えられず、五分ほどして、やっと「そのう、僕は」と理由を述べようと口が開いた。
「これから観たいテレビドラマがあるので失礼! とにかく直します!」
 と、電話を切られてしまった。これはマズい。真っ青になって石上三登志さんへ電話すると別冊から降板すると言う。僕はもうケツから血が噴き出る思いで、タクシーに飛び乗り石上さんが住む御殿山タワーへ伺った。
「まずね、非常識な時間に来てもらっても困るんですよ。言わないでおこうと思ったけども君はダメです。いくら恩師とはいえ佐藤忠男さんを佐藤さんなんて気安く呼ぶ、その姿勢ね。ラフな格好で大林さんところに来て、会話の途中で質問してくる。あなた、邪魔っけなんですよ」
 和製クリストファー・リーとも言える石上さんの顔が歪んでいた。僕は平謝りしかない。
「森さんも大林さんも呆れてたよ。これでは私の面目は丸潰れです。編集者がコンストラクションを立てずに対談をまとめてくるなんて愚の骨頂じゃないですか」
 一言も返せない僕を哀れに思ったのか、石上さんは語気を弱めて「まあ、私らもプロですから直します」と最後には言ってくれた。
 この対談原稿もコンストラクション有りきという大原則を知らなかったという最大のミスは痛すぎた。このことをこぼすと、皆から異口同音に「当たり前じゃない」と嘲笑われた。じゃあ、なぜ和田さんの原稿はベタでいいのか? 答えはこれだ。
「和田さんは『話の特集』でも対談を編集していたし、吉行淳之介の対談の挿絵もやってたでしょう? 基本的にエディター的力量が普通の編集者よりあるんだよ。だから原稿に手を出させない。これは特別なことだよ」
 森遊机さんは石上さんとの経緯を僕が言うとそう解説してくれた。なるほど、とバカのように得心がいった。ここで「コンチキショー、次に同じ失敗はしないぞ」と思ったのは、振り返ればよかったのだ。いまこうやって、インタビューや対談を生業の一角にしているのだから。
 石上三登志さんの訃報を聞いて悲しい気持は人並にあったが、それ以上に、正直に書くとホッとしたところがあった。それはたまに宴席などでお会いした際に必ず、会場の外へ連れて行かれて「あなたのことはみんなが見てるんですからね。大人の世界は甘くないんですよ」と脅かされ続けていたからだ。言葉は悪いが脅かされてる気がしたのだから仕方がない。ミステリ、SF、映画の知識の貯蔵庫であり、クリエイター気質の評論家であった石上三登志さんは、駆け出し編集者であった僕にとっての厳しい「大人」であり続けた。その畏怖の軛からの解放を味わったと告白しておかねばならない。だが、その一方で、僕は「大人」の眼を失い、独りで緊張を保って立派に仕事を続けていかねばならないことになったと言えるだろう。