第11回 文字起こしと原稿整理

■機械や業者頼みではダメだった

 ICレコーダーが普及し始めた二〇〇二年の冬頃、先輩編集者に「自動的に音声を読み取ってベタで起こしてくれるソフトがあるらしい」と教えられ、すぐに新宿のソフマップへ走った。そんな夢の様な機械があるなら!
 この頃、僕は「『映画評論』の時代」(カタログハウス刊)を編集中だった。前年にカタログハウス社の斎藤駿さんに企画を拾ってもらい、往年の映画雑誌「映画評論」の傑作アンソロジーと、その成り立ちをまとめるという書籍を進めていたところだった。単行本フィニッシュ経験値ゼロの僕がやろうと考えたのは蛮勇というか......馬鹿なんだろう。いま、あれを独力でやれと言われたら断る。膨大なバックナンバーを前にして途方に暮れてばかりいたのだから。駆け出しの怖さというものである。
 さて、ソフマップで購入した自動認識ソフトだが、これがてんで使い物にならなかった。他の書籍の編集費を前借りして歩くような生活をしている僕には痛い出費だ。ホクホクで買って帰って、当時の愛機マックG3にインストールし、ICレコーダーを繋げたら「我でワタ之と場エヘヘ」とかいう文字が踊ったのである。ハラワタが煮えくり返った。インタビューを行った喫茶室の音全てを拾っているのである。確かに認識しているが、これが認識といえるだろうか、いや言えない(反語)である。機械に八つ当たりしても詮無いことだ。こういう文明の利器にすぐ頼ろうとする、僕の野比のび太根性がよろしくないのだ。
 機械がダメならば専門の業者さんに依頼するという手もある。しかし、これもフリー稼業の人間には痛い出費になる。一分につき二一〇円という会社もある。一〇分で二千百円は高い。出版社に泣きついてお願いしたこともある。が、この業者さんに頼んでしまうと、二度手間を食らったので懲りた。なんせ文字を起こすことが専門であるので、一言一句余さず活字になってくる。だけども、既に述べたようにベタ起こしは無駄な言葉が氾濫しているので、それを整理するのが大変だ。聞き手が起こす場合は基本的に流れがわかっている。だから端折っていい箇所がわかる。労力はかかるが無駄が少ないので、結局は自分の手でやるのが一番だということになる。仲間の編集者、ライターに手伝って貰う場合もあるが、余程、その腕を信頼している相手でないとお願いはできない。

■僕のさいきんのやり方

 さいきんでは、僕はベタ起こしは行わない。即日に原稿化するように努力している。取材ノートやインタビュー中にとったメモを元に話の流れを組み立てる。小見出しを予め書き抜き、ノート、メモ、記憶を頼りに原稿に着手するのだ。録音データはBGM代わりに流しっぱなしにしている時もある。聴きながら口調を確認。さらに漏らしたネタを拾って小見出し以外の話として原稿にし、最後にどこかへ挿入する。全体が制限字数に達したら、カットする箇所や順序を変えてみて、読者が楽しめるか、内容が理解できるかを確認する。
 この方式は高平哲郎さんが、インタビューでマッチ箱やナプキンにメモをして、それから原稿にするという逸話を知って参考にしたものだ。いまの録音機は相手に威圧感や構えさせるような大きさもない。それにやはり録音していないと僕は不安だ。なのでデータをとることはやるとして、原稿にする際は高平方式でインタビュー時の雰囲気と話し手の口調やノリが鮮明なうちに文字を打ち込むことにしている。
 ベタを飛ばして本番ということは、構成も頭に入れて書くということだ。ここで話を切り替えて、原稿整理について述べることにしたい。

■原稿整理の達人の逸話に学ぶ

 僕のなかで原稿整理の達人とは誰かというと、長部日出雄さんを真っ先に挙げる。長部さんは「週刊読売」のエース記者で、大島渚をトップにした新しい日本映画の波を〈松竹ヌーベルバーグ〉という名づけた。その後、作家へと活躍の場を移して直木賞を受賞し、映画監督として一作手がけた。コラム「紙ヒコーキ通信」には根強いファンがいる。長部さんには映画評論家(大島映画以外に市川崑のオリンピック映画擁護や虫明亜呂無や佐藤重臣との「映画評論」誌編集の協力)としての重要な一面もある。この「週刊読売」記者の後から作家として立つまでに空白期間がある。その間の仕事のひとつに吉行淳之介の対談をまとめたという裏方仕事の功績があるのだ。
 周知のごとく、座談の名手として吉行淳之介は知られている。多彩なゲストを迎え、洒脱な会話を交わす(桃井かおりなど)場合もあれば、文学談義として緊張感のある対話(川崎長太郎との場が鮮烈である)も行った。挿絵は和田誠。この挿絵の味もあり、吉行座談は流れるような構成と文字化された話術によって軽快に読めるようになっている。読者はそこに裏方の創意工夫があることに気が付かない。何気なく読めてしまう、というところが僕のような稼業をしている男には怖い。座談の整理において、まあ話の流れがわかってテーマも明確なら及第点だ。そこに脱線や場の空気が定着されているなら、立派に文学足りうる価値が生まれる。吉行座談を文学化したのが長部日出雄さん、その人だと知ったはご本人の随筆や和田誠さんのエッセイでのこと。吉行座談に頻繁に現れる同席の男性(編集者の場合が多い?)って誰だろうというのが発端で、関係者の書いたものを学生時代に漁って読んで知ったのだった。
 じっさいに自分が原稿整理を行うようになって長部さんの役割を意識的に読んで学んだことは至ってシンプルなものだった。僕なりに解釈して以下に書く。
 まず、ホストである吉行淳之介が出しゃばっていないこと、ゲストを立てる(かつ、立て過ぎない)。さり気ない会話を再現する。大きなテーマを掴んで、小ネタを挟み込む。重さを払拭し、軽さを重視する(軽薄とは違う)。「僕」や「あたし」、「俺」など人称を話題によって変化させ、対話中の空気を感じさせること。
 右以外にアタリマエのこととして、会話の重複を削り、ソリッドに仕上げるなどもある。こうした吉行+長部の工夫を敵うはずもないのだが、僕も原稿整理を行う場合に気をつけている。

■テーマが見えていれば整理は悩まない

 原稿整理の巧な技を学んだとて、じっさいに作業にかかると頭を悩ますのが常である。以前に書いた鎌田慧さんと小野民樹さんの対談も話題が拡散していくので、どこをアンカーにすべきか、切ったり貼ったりしての試行錯誤を繰り返した。試行錯誤が長引く原因はテーマを大づかみしているかどうかの違いだろう。テーマという幹がハッキリしていれば、他の話題は枝葉である。幹を隠す、眼(文字?)の保養として枝葉を伸ばしていけばいい。鎌田、小野対談は〈ルポライターと編集者〉〈ルポライターとして長年にわたって仕事をする〉〈鎌田慧の知られていない一面〉という三点と欲張り過ぎたテーマだったので、僕は困ったのだった。
 過去の仕事を振り返れば、映画評論家・佐藤忠男さんに訊いた「映画評論」時代の話、脚本家であり映画監督・新藤兼人さんに訊いた全脚本のことなどのロングインタビューでは時系列があったので、話題の構えが大きいぶん、整理に悩むことは少なかったように思う。伊集院光さんとの野球漫画の座談も話題がハッキリしているので一直線の構成になった。悩みが多いのは雑誌ベースのものと話者が市井のひとである場合だろうか。
 雑誌ベースで悩むのは話題の配列である。前振り(落語の枕的な話)、ズバリの話題、本題から派生した聞きたいこと、〆という構成があるが、意外と本題がつまらなかったりする。実業之日本社から出ていた「コミック伝説マガジン」のコーナー、「漫画しか頭になかった!」でのこと。高橋源一郎さんに漫画について話を伺うということだったのだが、本題の「フイチンさん」があっさりした感じになってしまった。

岸川「この『フイチンさん』の絵柄がいいですねえ。線の感じがスタイリッシュで」
高橋源一郎「でしょう? でもなあ、細部がけっこう飛んでるんですよ、僕の記憶では。いま読んでいる、読み返したい漫画の方は鮮明なんですがね」

 と、ここで僕は本題を諦めて高橋さんのお気に入り漫画について話題を転換した。八年前に住んでいらした鎌倉のお宅の静けさが、急げ次の話題だ! と急かしているように感じた(気が弱いのだ!)。なので、本題はあっさりと枕のようになって、メインは高橋さんの好きな漫画がズラーッと並ぶような内容になった。
 同じ雑誌で、山本晋也さんの時は別の意味で本題がしぼんでしまった。山本カントクには悪いことをしたが、手塚治虫へのウンチクがあまりに通り一遍の内容だったので、原稿整理中に相当オミットした。代わりにマニアックだが、ピンク映画の巨匠渡辺護さんの逸話とエロコミックの話などを挟もうとしたものだ。ジャーナリスティックなものでは昨年の渡辺恒雄さんで悩んだ。僕自身がポピュリズム政治の危険性は幹に据えられたが、枝葉が薄くて、なんだか話が短絡している印象になってしまいがちで、雑談を散らすことでカバーしようとした仕事だ。
 市井のひとに訊く作業は構成に困る。これはこちらが誘導しても話は別の方向へずれていくのだ。なぜか。例えば、昨年暮れに取材した戦前期を苦労した老人たちへのインタビューでのことだ。民主党政治から自民政権に変わるというなかで、彼らはひどく怒っていた。民主党が失策、失政を行なっているのはデモなどを起こせるぶん風通しがいい。いっぽう、自民は民主党政治を阻害した垣根を作った張本人で、強権的であるというのだ。その憤りの熱さによって話題は拡散し、止めどない長さになる。聞き手としては肚に溜まった言葉を全部引き受けるつもりだから、全部聞く。「時間があるので」などは同業者ならいざしらず、失礼で口が裂けても言えない。帰って整理しようとすると、頭がぼーっとなる。どれもが語り手にとって届けたい言葉なのだ。そこでの取捨選択は読みやすさやテーマ別に整理するなかで行うけれど、心理的に「ここは切らねばなりません。ごめんなさい」という気持になる。出来上がった原稿は、そこそこ読めるし、ご本人たちも喜んでくれるのだが、予定調和的に収まっているので、自分では不満である。いずれ完全な形で残したいという仕事だった。
 このように話題を整理するうえで、残したい言葉という問題が生まれてくる。趣旨と違うけれど残したい。その場合どうするか。また、直線的だが長いインタビューでの整理の話(非常に枝葉が広がるので、これまたどれを残すかということになる)を次回は述べようと思う。