第12回 脱線は切るか残すか

■泣いて「脱線」を斬る

 常にインタビュー原稿で悩むのは「この語ってる内容は本筋と違うけど、すごく面白いんだよなあ」という部分を切るかどうかというところだ。枚数制限がある場合は泣いて馬謖を斬る感じでカットする。しかし、書籍の場合などでは躊躇は七日以上に及び、出版後も「あれでよかったろうか」と気に病むことになるのである。
 いいフレーズなんかは転用しやすい。一行くらいは本筋と違っても、ボヤキという位置にして処理する。かえってスパイシーなイマージュを読者に与えて清新だ。ところがまるまる1パラグラフを構成する〈脱線〉が出現するのがインタビューの常だ。
 現在、こうして書いてる間も「あれは勿体無い話だ」とモヤモヤしている。政治家、亀井静香への通算二回目のインタビューで、第二次安倍政権の話を訊いているのだが、その話題が日本の保守勢力になったのだ。大物系の話者はハンドルを切りやすい。語り慣れしているのでノンシャランと面白そうな話に逸れるのだ。これは歓迎すべきことであるが、字数制限を設けられた雑誌での場合はみすみす良い内容を切るはめに陥りやすいので、内心、「収まるんかなあ」と危惧するのだ。
 亀井さんが語る保守勢力の話題は半分は構成の上で活用できたものの、1パラグラフ落とした。それは在特会や右翼に関する見解とアメリカの情報操作に関する費用の使い方についてだ。切りながら、「まあ、いずれこの内容はもう一回訊くことにしよう」と言い聞かせて仕事を進めている。

■思い出す話たち①都筑道夫篇

 振り返れば、印象に残るカットした話が僕の脳内にいくらか蓄積されている。物覚えの悪い僕でもかなりな量を記憶してるのだから、録音データでは倍以上あるのだろう。活字にされなかった内容で思い出すことを順繰りにここで紹介しよう。
 そもそも本にも出来なかった企画がある。都筑道夫の小説復刊と本格推理論を編み直すというのを以前在籍していた会社で企画した。企画を快諾してくださった都筑さんは電話で現在から考える解釈や追加の例などをお話してくれた。僕は受話器にマイクを付けて録音機を回していた。一九九九年の秋である。
「ボンドものはさいきんの作を観ているとどんどん変化してますが」
 僕がスパイ・スリラーに話題が転じたので訊くと、都筑さんは「メカニックな仕掛けを一所懸命に復活させようと頑張ってますけどねー」と若々しく声を弾ませて語り出した。都筑さんによれば、六〇年代のスパイ映画のメカは密接にSFアイデアに繋がり、リアルな構想よりも空想科学的なものが多いと言うのだった。ところが八〇年代からはっきりと違ってきたのは「SFがメージャ(メジャーではなくこう仰っている)映画に根付いてきたからリアルな発想が主体化した」というのだ。けれど「レーガンが宇宙防衛構想を語ったからリアル一辺倒に妙な笑いが交じることになるんですねー」と付け加えてくれた。そこから「オースティン・パワーズ」などに話が飛び、殺し方にまで話題が伸びていった。
「『ゴールドフィンガー』の金粉殺害は黒いユーモアと残忍さが同居してますが、ああいう殺戮描写はホラーにも引き継がれずじまい」
 と、やや落胆した調子である。既に僕が訊くべき内容を逸脱して二時間だった。都筑さんの〈ユーモアと殺し〉は大変に聞き応えがあったのだったが、未熟な編集者だった僕は書籍にも出来ず、話は記憶装置に閉じ込められてしまったままだ。

■思い出す話たち②筒井康隆篇

 僕はマンガ雑誌「伝説マガジン」(実業之日本社)で筒井康隆担当でもあった。毎回、お話をゲラと見本を届けに原宿まで伺った。その都度、奥様には優しくしてもらい、筒井さんには映画や小説のお話を短い時間だが伺うことが出来た。その縁もあって、筒井康隆インタビューは都合五回ほど行わせてもらえた。完成のたびに、労をねぎらってくれ、「直すところがないのでそのまま」と褒めていただいた。あれは若手への励ましだったのか、他の聞き手にもかけるリップ・サービスだったのか......とにかく当時の励みになったものだ。
 筒井康隆という作家像を考えるとインタビューは饒舌かと思うのだが、意外に言葉少ななのである。初めて担当者として相まみえた時も驚いたのだが、ピンと張ったピアノ線のように緊張が剥き出しになっているようなひとだった。豪放磊落で悪口自慢の印象とは程遠い、神経が皮膚の上、2ミリほどあたりに通っているような、そんな感じなのだ。
 だからインタビューが傍目ではピリリとしたものに映る。婦人画報社の依頼で行ったインタビューでも、緊張が走っていた。同行したキャメラマンの茂木一樹くんも「あの時は筒井さんが怒ってるのかと思うほどだった」と記憶している。けれどそうではないのは判った。筒井さんは慎重に話題を選び、どう話題を拡げるか考えているのだ。予定されるような話じゃダメだと考えている。だからこちらはトバ口を拡げることに集中すればいい。
「筒井さんの小説で映画化されないものも多いけども、事情が海外なら結構な実験作だって映画にされてるはずですよね」
 そう水を向けると、しとしと降る五月の雨音に耳を傾けるように俯き加減だった筒井さんは、煙草の灰を落とし、顔をあげた。
「ヴォネガットの『スローターハウス5』も、綺麗な出来になってたね。無茶な企画だと思ったけど、成功でした」
 それからは奔流のように映画化は無理だろうという小説を映像化した話、出来なかった話が展開し、婦人画報社の求めるような話も混じっていた。記事にはその〈混じっていた話〉を使用し、多くの映像と小説の話題はオミットせざるを得なかった。
 特に記憶に残るのはJ=P・サルトルの「フロイト」(人文書院から単行本化)についてだ。そのジョン・ヒューストンによる依頼で書かれた映画用シナリオは長い。長編小説並みに長いのだ。サルトルがアメリカで金と時間を与えられて書きに書いた内容で、「シリーズドラマにしたらいいものになるよねえ」と筒井さんも最大級の賛辞を送るものだった。そこでサルトルは何故にフロイトを掘り返し尽くしたのかと推察しつつ、「汚れた手」を書いた劇作家としての巧さも考えるなど面白い話を伺えた。そこからジョン・ヒューストンが「白鯨」でレイ・ブラッドベリを苛めたのではないかという話など出たり、ハワード・ホークスがフォークナーを起用する話などになった。フレーズとして「ハリウッドは巨大な才能を使い倒し、莫大な金で縮小し、面白い映画を生む不思議な工場」というのが記憶に残っている。

■思い出す話たち③山本直純篇

 最晩年の音楽家・山本直純に話を聞けたことも僕の収穫(失礼だと思うが、適当な言葉が浮かばない)であった。浜松町付近の慈恵大病院に入院中にインタビューの依頼をし、向かいのプリンスホテルのラウンジで打ち合わせをした。僕を酔い潰した挙句、病院を脱走し自宅へ帰ろうと画策していた山本さんは、ワインやブランデーを浴びるほど呑ませても離さない僕に業を煮やしていたようだった。粘ったお陰で正式なインタビューが行われることになり、予想外の時間を過ごした。
 大井町線の自由が丘でインタビューは行われたが、オシャレな街でというのではない。いきなり居酒屋だ。そこでビールをチビチビやりながら映画音楽について話をした。
「早坂文雄ってのは偉大なんだけどさ、思想的に純日本式でね、それがああいう不思議なメロディアスだけど不協和音を加えずにいられない音楽になったんだと思うよ!」
 これは黒澤映画『七人の侍』のクレジットに流れる重厚な音楽についてだ。不穏な不協和音がすごいと僕が切り出すと即座に返ってきた答え。そこから早坂門下の佐藤勝の音楽になる。
「佐藤はね、基本的に古典派なんだよ。『赤ひげ』のブラームス調は受け入れ難い注文だったにせよ、得意だから出来る。かえって実験味の濃い『用心棒』だってカリプソやジャズの影響があって、その基本を守っている。曲調が早いから聴き過ごすけどねえ! シャンソンをやったりいろいろやってるけど、古典派的資質と己の師匠である早坂流実験作の間で揺れつつ曲を創作したんだ」
 そこで浮かんだのが武満徹である。初期、武満徹と佐藤勝は共作で日活映画に音楽を提供している。そこでわかったのは若手音楽家が映画音楽を収入のアテにしつつ、互いの実験場にしていたことだった。
「松竹付近の食堂とか日活の食堂とかね、ミカサで集まろうとかさ、芥川也寸志、八木正生や佐藤や武満や僕や若手が申し合わせてたのよ。で、譜面を交換したりねえ。芥川と佐藤が交換して、そこに武満が手を入れるのも目撃したよ。みんな音楽を交換し、滋養にしていった青春なんですよ」
 僕が訊いてまとめるはずの内容は既にイッパイイッパイで、右の内容はオミット対象になっていた。けれどスキモノ精神がムクっとしたので、話は長くなった。
「山田洋次映画はメロディアスというより、いかに琴線に届くか、大衆路線でありつつも、という枠が言わずもがなであった。寅さんでは完全に大衆路線で外しちゃダメ。けども、山田さんの他の映画は実験的なことを『故郷』や『幸福の黄色いハンカチ』で佐藤にやらせたりね。西部劇風にしてたりさ! 『息子』じゃ完全に松村禎三に前衛やらせてるだろ! 甘く哀しい音だけどねえ。時代劇でシンセを使わせるとか、一筋縄じゃいかねえなあ!」
 昼の一時に始まったインタビューはいつしか夕刻の六時を過ぎ、瓶ビールも両手で足りぬ程、狭いテーブルに並んだものだ。別れ際に山本さんの映画音楽集成を本にしたいと互いに言い合ったが、彼の急逝によって果たせなかった。亡くなられたという報せを聞いた時、僕の頭には「けんかえれじい」の曲がガンガン鳴り響いた。山本さんはマーチとともに天国に登っているような気がしたのだ。