第15回 出版中止になる

■思い出す話たち⑦ 青島幸男篇

 ロングインタビューを行なって、これが全て世に出ていない本が一冊だけある。それは、映画学校同期生の山辺健史と共に行った青島幸男へのインタビューである。
 小泉改革の嵐が吹きすさぶ中で、青島幸男参院選出馬を表明した二〇〇四年、僕と山辺はさっそく、青島幸男へコンタクトをとった。
 当時、青島は都知事時代の「失政」を永六輔や野坂昭如らに一方的に責め立てられ、孤独な状態に見受けられた。僕は「都市博中止やオウム騒動のなかのこと、ホームレス対策など、本当に失策といえるのだろうか」と疑問をもっていた。そして、彼の再度の出馬を考えると、戦後民主主義の枠組で現れた「タレント議員」なるものを総括するのに、うってつけではないかと思ったのだった。
 青島本人から山辺と僕が送った手紙の返事があった。インタビューを受けるというのだ。僕らは勢い込んで、晶文社のAさんへ報告し企画を通してもらった。七月一一日の投票日前に出版をせねばならないので、連続インタビューを行い、大急ぎで文字起こしとデザインなども整えねばならなかった。七日ほどでチームを組み、さあ本番ということになる。
 青島さん本人との打ち合わせは山辺に一任していたので、大島にあるお宅に伺うのはインタビュー初日が初めてだった。瀟洒な新築高層マンションのエレベーターで耳鳴りがしたのを覚えている。
 部屋に入るといきなり青島さんはワインでしたたかに酔っていた。
「これ、シャブリ。シャブリつくすような味ってわけね。よくいらっしゃいました! さあ、始めましょう」
 日テレでやっていた「追跡!」のキャスターそのままの青島幸男に、僕は少なからず感動した。放送作家、小説家、映画監督、作詞家となにをやってもうまくいく男。昭和の伝説だ。石原慎太郎と同時期に議員になり、都知事にもなった。一時期までは石原と合わせ鏡(野坂昭如も石原の鏡でもあるように思うのだが)のような存在であった、底抜けに明るい男が目の前でワインで顔を赤くしている。
「じゃあですね、まずは生まれ育ちを伺いますが、これは政治家としての青島幸男を描きたいので、政治状況も記憶の限りで構いませんので伺わせてください」
 僕が言うと「ああ、そうね。そこなんだよね、大事なのは!」とテンションが高い。このインタビュー前に酒に酔うというスタイルに若干不安を抱きながらも、少年時代である戦中のことから話を始めていった。
 酒は飲んでも青島幸男本人は率直に語ってくれていた。
「そうね、俺の親父は死ななくちゃいけない決死隊の任務から帰ってきたって思ってた。けども本土決戦のための千葉沿岸の防御だったんだね。帰ってくるとさ、魚の土産だよ。なんだか戦争から帰ったって感じがしないでさ、俺はもう喜ぶだけだったんだよね」
 少年時代に抱えた軍国主義=それまでの指導者である大人への不信と民主主義の明るさは決定的だったと語る青島。
「この気分は石原さんもあったんじゃないの。野坂だって永六(輔)や井上ひさしさんだってさ。昭和六年前後の生まれには共通感覚のはずなんだよ」
 その後の青年期は「ただふざけることにね、命がけって言うのかな。それでいいと思ってたわけ」と言う。なぜならこの一事があったからだというのだ。
「マッカーサーがさ、民主主義持ってきたくせに労働者を抑圧してね、ゼネスト潰しちゃったわけよ。その時から『ああこいつらも軍人と同じじゃねえか』って諦めた。バカバカしいなって、政治とかそんなもんはってね」
 真面目に対しての真剣な不真面目での対抗は、日本のカウンタカルチャーの芽生えを感じさせる。そして六〇年安保だ。岸信介が強引に進める日米安全保障条約改正へ国民が反対の意思を示し、あわや革命というほどの運動になった。大きな社会の波の中で、若い日本の会が結成される。
「大江健三郎さんとか石原慎太郎とかね、ああ、浅利慶太とかそりゃあ有名な若手が集ってて、安保に関して議論してたんだ。俺もそこに顔を出してて、なんだか議論が紛糾しててつまんねえから、『青島です、大人の漫画って番組やってるけど、よろしく』みたいなこと言ったんだ、詳しくは忘れちゃったけどさ。なんだかしゃらくさかったから、まあヤケで登壇したってわけ」
 ここに青島幸男の本領があると、話を聞きながら思ったものだ。その後、六〇年安保は自動成立延長され、革新的国民運動は潰えた。いっぽう青島はクレージーキャッツとともに時代の寵児へ踊りでていく。
「潰れりゃいいって思ってたさ。でも、政治って変わんねえなあとまた幻滅ですね。そこへいくとテレビは自由。あ、天皇と敗戦っていうコントはダメが出たね。学校コントだけど天皇が校長でね、そこでまあくだらないこと言ってズッコケるつうネタなんだけど。明治天皇ネタもダメだったか......でもまあ、自由にやれたよ。植木屋(植木等)や谷啓とワイワイね」
 政治に関して「ノンポリ」と称していたはずの青島はその後、電撃的に一九六八年、参院選に出馬を表明する。
「石原慎太郎が出るってんなら、俺もちょっとやってみっかよって決めたんだ。六〇年安保なんか忘れたよっていう連中も多かったから面当てもあったんだけどね。当選は二位。石原に負けたんだけど、人気は俺だなって思ったね。演説行って、学生運動家とも喋ったけど、ギャグのことを質問されて(笑)。青島ダァってやれとかさ、もうなんだろうね、政治家なんてタレントじゃねえかというのは今も昔も変わりゃしないね」
 当選後は周囲の意に反して、真面目な議員としての顔を見せた。一九七一年の佐藤栄作への「総理は財界の提灯持ちで男妾である」という批判は、当時を振り返る青島さんの顔に酒の赤みとは違う、熱っぽさが生まれた。
「口舌の徒である以上は、芸はそれしかないのでね。でもね、中曾根康弘や竹下登に同じ頃、食事に誘われたりしたね。懐は大きそうだったけど、付き合いに疲れるの嫌だから遠慮したけどね」
 政治家としての青島幸男は順風かというとそうでもない一面もあった。
「五木寛之や竹中労と共同戦線を張って、革新政党を作ろうとしたが果たせなかったんだ。それはね、俺が迷ったというのもある。彼らの政治意識と違うということや、候補になるという文化人と反りが合わなかったことがあってね、中野好夫さんとも話が合わなかったしね......惜しいことをしたかなとも思ってる」
 逓信委員会の一員として、地デジ化の草案に疑問を呈したことや、ハンストのやり方を知らずに金丸信略式起訴反対を行なって病院に運ばれたなどの話も聞けた。都知事選への出馬と都市博中止に関しても率直な語りで好感が持てたが、引っかかるものがあった。それは青島さんが常に酒を口に含み、やや放言気味に話をするところだった。
「大丈夫ですか、そんなに飲んで」
「大丈夫よ、話に問題なし!」
 僕はその言葉に安心して、都知事時代の話を訊いたのだった。
「九五年の選挙に出るのはね、なんだか候補者選びがゴタゴタしててさ。都市博もとにかく街を破壊する無駄だと思うから出たわけよ。それで当選させてもらったんだけど......その後に永六輔なんかに叩かれたのは哀しかったよ。こっちにも言い分があるけど、水掛け論になるだけだから口を閉ざしてた。新宿駅のホームレス保護にしても、予算の問題など鈴木都知事時代の負債がハンパなくて善後策がとれなかった。オウム騒動もねえ......とにかく東京都という組織が財政疲労に陥ってて、個人ではどうにもならんようになってんだよ」
 自分の中では「都市博中止が全てで、他はなんとか頑張った」という評価。その当時、怒りの抗議を行なっていた野坂昭如が青島さん宅へ電話をかけてきた話は興味深かった。
「俺のことを『裏切り者だ』とか言うからね、『じゃあ直接文句を言いに来なさいよ』と返したんだ。すると『行く』ってんで、待ってるとベロンベロンで来てねえ。で、そこのソファに寝て帰っていったんだよ」
 青島さんの都知事時代の記憶の傷は深かったのだろうか、終始、その時代の話題では暗く、つらそうな表情を崩さなかった。SPと一緒に中華ファミレスに行って豪遊した話だけ、唯一、相好が崩れた場面だった。
 こうして長時間に渡って話を聞き、まとめた『青い島の幸せな男』だったが突然に出版中止を求められた。
「なぜですか」
 僕は夜の突然の知らせに驚き、青島さんへ電話をかけた。
「いやもう、申し訳ない。それしかないやね」
「青島さんのご意志ですか」
「いや、俺はあれでもいいって思ってるんだ。だけどね......」
 中止を強く求めたのは青島さんの近くの人物だった。
「左翼崩れに煽られて語らせられていて、ひどいものだった」
 と、その人物は僕へ語った。ここでは書けないような表現の感想も述べていた。僕は相手の剣幕に呆れ、出版直前に中止となると、その収束方法はどういうものになるのかと頭のなかは混乱していた。
 晶文社の肝いりで正式に中止が決まり、この本はオクラ入りとなった。その年の参議院選挙で青島さんは次点で落選した。
 そして二〇〇六年十二月、なにをやってもうまくいく伝説の寵児はこの世を去った。