4月21日(火)昭和43年の「映画展望」

 野間廣道についてネットで調べていた。彼は、明治大学の映画研究部時代の、同期の友である。和泉校舎時代は私が支部長、彼が副支部長。3年になって駿河台の校舎に移ってからは彼が委員長で、私が副委員長だった。二人で勉強会を開いていたこともある。お茶の水駅前から駿河台下まで歩いていくと、明治大学の校舎が切れる角がある。その角を右に曲がってまっすぐ進むと、いまはコンビニになっている突き当たりに(今で言うなら、さぬきうどんの丸香の向かい側だ)、「ピッコロ」という喫茶店があった。

 そこで勉強会を開いた時期があった。テキストは、先輩の菊池仁が書いた映画評である。これが難解でわからなかった。当時は、難解な映画評を書くことが流行っていた。すぐにわかるようなものを書いてはダメなのである。だから理解するのが大変である。

 いつも温厚な廣道が、一度だけ怒ったことがある。それはある先輩が、無名人の書いた評論をテキストにしたって意味がない、と言ったときだ。私は、ふーん、そういう見方もあるんだ、と思っただけだったが、廣道はその先輩に反論した。

 興味のない著名人よりも、興味のある無名人のほうをテキストにするのは当たり前でしょ、と彼は言ったのである。あるいはその先輩は、同期の菊池仁の評論を私たちがテキストにしていたことに嫉妬していたのかもしれない。

 野間廣道は大学を卒業後に東洋シネマに入り、CFの世界で活躍したが、ずいぶん若くして亡くなった。ネットで調べてみると、「若き七人の侍」として彼を紹介している専門誌があった。

 それを購入しようかどうしようかと迷いながら、なおも調べていくと、思わず自分の目を疑ってしまった。何なんだこれは?
 そこにはこうあったからだ。

「映画展望 特集号 明治大学映画研究部 目黒考二/夏目漱石試論 昭和43年4月」

 ぼんやりとした記憶が、遠いところからゆっくりと蘇ってくる。そうか、個人誌だ。当時はサークルの機関誌以外に、みんなが勝手に個人誌を作っていた。そのすべてはガリ版誌だ。原稿は、サークルの先輩や後輩や同期の面々に依頼するのだが、同人誌ではなく個人誌というのがミソ。私も後輩たちのガリ版誌に依頼され、何度か原稿を書いたことがある。

 その古書店のリストには続きがあり、そこにはこうあった。

執筆 野間廣道 栃木裕 仙田弘 西田稔 萩原法英 傳健教 保科義久 目黒考二 あつたかずお 菊池仁

 ここに「野間廣道」の名前があったので検索に引っ掛かったものと思われる。古書価2000円というので購入した。

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 送られてきたのはガリ版誌ではなく、孔版印刷で作られたA5版58ページの小冊子だった。奥付には、印刷所として「東雲堂印刷」とあり、私の生家の住所が記載されている。私の父が孔版印刷屋を営んでいて、「東雲堂印刷」とはその屋号である。どうやら父に頼んで印刷製本してもらったようだ。

「映画展望」という誌名なのに、映画評論は少なく、みんなが勝手にいろんなことを書いている。

 私の書いた原稿のタイトルは、

「フランケンシュタイン」の系譜〔邪道の正統派〕としての夏目漱石試論

 というもので、いま読むと、何を書いているのか、その意味がまったくわからない。それは他の人の原稿も同じで、野間廣道のタイトルは、

「インク・ブルー」アンド「エメラレルド・グリーン」−−あるいは逆子の美学

 というもので、これも意味不明な内容で、何を書いているものやらさっぱりわからない。簡単に理解できるものは書いてはダメ、と信じていたころなので、難解さを競っていたのか。思い出したのが「あつたかずお」君の書いた原稿のタイトルで、

水色地底舗道のピエロ群れ

 カッコいいなあと思った当時の記憶が蘇ってきた。中身はいま読んでもさっぱりわからないが。

 執筆者について少しだけ書いておけば、仙田弘はずっと後年、本の雑誌社から『総天然色の夢』を出した。萩原法英は本の雑誌社が新宿御苑にあったころ、近くの会社にいたので飲み屋で会ったことが数回ある。萩原、元気か。保科義久は卒業後にNHKに入り、ドラマ班に配属されて、活躍した。仙田も萩原も保科も、私の1年後輩である。

 あのころ書いた原稿の一つに、「グルグル・イルベーク」というタイトルの評論がある。後輩の個人誌に依頼された大学四年のときに書いたものだ。手元には残っていない。たぶん、いま読んでも意味不明の原稿と思われるが、出来れば読んでみたいと思うものの、雑誌名を忘れてしまったので探しようがない。今回の「昭和43年の映画展望」のように、奇跡的に古書リストに載ることがあるだろうか。大学生のガリ版誌だから、絶対に無理だよなあ、でも出てきたら面白いよなあと、妄想がひろがっていくのである。