講談社発売の幻のジュース「どりこの」

文=杉江松恋

  • 伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた
  • 『伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた』
    宮島 英紀
    角川書店(角川グループパブリッシング)
    4,785円(税込)
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 雑誌に本体よりよっぽど高価そうな付録がついていたり、出版社の本業が不動産会社だったり。そういう事例を前にすると、ちょっと意外に思ってしまうことがある。
 でも、出版社だからといって特別扱いするのもおかしな話だ。出版社だって多角経営に乗り出したって悪くはないのである。営利企業だもの。その商売の筋が、いいのか悪いのかというだけの話だ。
 では次の例はどうだろうか。
 あの講談社が昔、清涼飲料水を販売していた。
 しかも年間220万本を売り上げるほどの大人気商品だった。
 え、と思われた方も多いのではないだろうか。
 事実なのである。講談社の創業は1909(明治42)年、1925年に大日本雄辯會講談社と改称した(以下講談社に統一)。戦前の講談社といえば、「少年倶楽部」「少女倶楽部」「婦人倶楽部」「講談倶楽部」などのいわゆる〈倶楽部雑誌〉、大衆娯楽雑誌「キング」などを有する大雑誌社だった。その全誌の広告欄に、その清涼飲料水の名前が載りまくった。野口雨情や山中峯太郎、東海林太郎といった有名人が愛飲して感想を寄稿していたほか、当時人気のあった女性俳優や漫画のキャラクターも広告に起用された。水谷八重子やのらくろに商品を持たせた広告が登場したのである。講談社の創業者・野間清治は、そうした広告戦略を非常に重視した経営者だったのである。
 その商品の名は「どりこの」。今となっては飲むことが絶対にできない、幻の清涼飲料水である。「どりこの」はどのように誕生したのか。そしてなぜ講談社が販売することになったのか。そして、今ではなぜ店頭から消えてしまったのか。あと、「どりこの」っていう奇妙な名前はなんでついたのか。
 宮島英紀『伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた』(角川書店)は、その謎に迫った、無類におもしろいルポルタージュである。

 生産中止になって久しい「どりこの」だが、講談社には今でも見本が残っているという。本書の著者、宮島は特別にそれを試飲させてもらっている。ストレートで味わった後、宮島は6倍の水で薄めたものを飲んだ。そう、「どりこの」はカルピスのように原液を割って飲むものなのである。感想を以下に引用する。

 ----(前略)すると、どうだ。コップのなかの液体はきれいな琥珀色をたたえたではないか。これが黄金色と呼ばれた色合いなのだろうか。薄めた「どりこの」は、甘さも適度になり、口中にふんわりと広がってゆく。
 ストレートのときのような、甘味のしつこさはなく、飲みくだしたあとには、フルーティーなさわやかささえ残る。蜂蜜でも砂糖でもない、神秘的な甘さだ。できることなら、ひと瓶全部を飲んでしまいたくなるようなおいしさであった。

 本書は序章と最終章を除く5章で構成されている。第2章「講談社が「どりこの」を仕掛けた」の章では、野間清治による凄まじいほどの広告戦略が明らかにされている。1931(昭和6)年の段階で若い女性を街頭に立たせて通行人に試供品を勧める、キャンギャル戦術を用いているのは明らかに早い。大阪市長堀橋の高島屋の壁面全体をすべてふさぐ横断幕を垂らしてビルそのものを広告塔にしてしまうような派手な手法のほか、系列のキングレコードから「どりこの音頭」(唄:浅草美ち奴)をプレスして売り出したり、「少女倶楽部」で「どりこの」をキャラクター化した漫画「どりちゃんバンザイ」を連載させたり、今でいうメディアミックス戦略にも意欲的に野間は取り組んだ。(ちなみに「どりちゃんバンザイ」の作者倉金良行は、戦後に『あんみつ姫』をヒットさせた倉金章介である)。
 1章飛ばして第4章「「どりこの」を売ったのは少年だった」では、講談社がどのようにこの「どりこの」を売ったのかが綴られている。その担い手は、満14歳以上満20歳以下の年齢で全国から採用された少年部社員たちだ。彼らは寮に住み込み、厳しい規律に耐えながら勤労精神を学んだ。野間清治の自宅で書生のように働いた者もあり、時には野間夫妻とともに入浴して背中を流し、また野間に命じられて枕頭で「講談倶楽部」を朗読するようなこともあったという。師範学校出身で若いころは教育者を志望していた野間にとって、会社は人間を磨く道場そのものであり、社員は家族のようなものであったのだ。少年部の社員たちを、大宗教家や大実業家など「大の字のつく者になれ」と激励し、オナラ一つとっても「音のしないようなのは男らしくない。よろしく壮快にやりなさい」と諭した。講談社の歴史の中には、4名もの少年部出身の副社長がいるのである。
 この若き企業戦士たちが、受注し、発送し、時には講談社内に設けられた窓口で対面販売までこなす、「どりこの」事業の運営者だった。つまり「どりこの」事業は会社を巨大な家族に見立てた「野間一家」の結びつきによって支えられたのである。この強固な紐帯を羨ましく感じる現代の出版人もいるに違いない。

 文字数に余裕がないので割愛するが、「どりこの」が日本各地に残した影響や、発明者である高橋孝太郎博士の愛すべき奇人ぶりなど、最初から最後まで興味の尽きない一冊だ。「どりこの」は昭和のひとときにだけ現れ、熱狂的なブームを呼んだ。幻の味を想像し、しばしたまらない渇きを覚えた。

(杉江松恋)

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