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中原 紀生の<<書評>>



無人島に生きる十六人
無人島に生きる十六人
【新潮文庫】
須川邦彦
定価 420円(税込)
2003/7
ISBN-4101103216
評価:B
 この本が湛えるのびやかで楽観的な明るさは、明治という時代を生き延びた男たちの「技術」に支えられている。それはたとえば、無人島生活を始めるに際して誓い合った四つの約束(島で手にはいるものでくらしていく、できない相談をいわない、規律正しい生活をする、愉快な生活を心がける)や、夜の見張りは「つい、いろいろのことを考えだして、気がよわくなってしまう心配がある」から、老巧で経験豊かな年長者が交代して当番にあたるといった知恵のうちに示されている。「ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。」このリアリズムが潔い。感動はないが、いっそ清々しい。(本書の明るさは、随所に挿入されたカミガキヒロフミのシュールでファンタスティックなイラストの力によるところが大きいと思います。)

てるてる坊主の照子さん
てるてる坊主の照子さん(上・中・下)
【新潮文庫】
なかにし礼
定価 (上)460円(税込)
  (中・下)420円(税込)
2003/8
ISBN-410115421X
ISBN-4101154228
ISBN-4101154236
評価:B
 TVドラマで観ていたら、このあまりに出来すぎた夢のようなお話も、「涙と笑いと感動」(文庫カバーに出てくる言葉)をもって存分に楽しめたかもしれない。いっそ最初から実話の装いを鮮明にしてくれていたら、戦後復興から高度成長期にかけての「市井の戦後史」(久世光彦さんの解説に出てくる言葉)を貫く「庶民」の上昇志向に素直に感情移入ができて、波瀾のストーリーに手に汗握り、はては感涙を誘われたかもしれない。やはりこの作品は、なかにし礼さんの達意の「錬文術」にあっさりと降参してこそ心ゆくまで堪能できる、よくできたホームコメディなのだと思う。(下巻に出てくる岩田春男の言葉が浮いていて、でも妙に感動的でおかしい。「スポーツは魂の錬金術や」。)

沈黙/アビシニアン
沈黙/アビシニアン
【角川文庫】
古川日出男
定価 1,000円(税込)
2003/7
ISBN-4043636024
評価:AA
 敬愛する橘外男の異国情緒を期待させる冒頭(小刻みな文体はちょっと違うかなと思ったけれど)から、夢野久作の入れ子式眩暈世界を彷彿とさせるストーリーの転回へ、そして村上春樹の冥界下降譚(三浦雅士さんの評言)を思わせる迷宮化された世界のリリシズム。そのほか、解説の池上冬樹さんが示唆する南米産マジック・リアリズムの醸しだす神話的幻想性の残り香まで含めると、「沈黙」がまき散らす豊饒な物語宇宙の記憶の種子、かのアカシック・レコードに向けて縦横に張られたリンクは、SFやファンタジー、観念小説やエンタテインメントといった出来合のジャンル分けを粉砕する破壊的な力を駆使して、言葉がほとんど音楽のうちに溶解してしまう濃厚な原形質的物語世界を造形している。「アビシニアン」の静謐な世界創造譚の素晴らしさといい、これはもうたまらない。(古川日出男を知ったことは、今夏最大級の成果でした。)

二葉亭四迷の明治四十一年
二葉亭四迷の明治四十一年
【文春文庫】
関川夏央
定価 620円(税込)
2003/7
ISBN-4167519089
評価:AA
 関川夏央には「文体」がある。もちろんどんな作家にだってその人固有の文体はあるのだろうが、それが作品の外的な意匠や作家の内面的屈託の反映にとどまることなく、表現内容(思想や物語)と渾然一体、不即不離の関係を取り結ぶのは本当に希有なことだ。見慣れぬ漢語や歌舞伎の見得のような決めの言葉に込められた息遣いが、語られる世界の内実を生のまま読者に伝える「文体」。物故者でいえば開高健、現役でいえば関川夏央(少し違った意味合いで金子達仁)がそのような「文体」を持った書き手(あくまで、私にとって)。──その関川夏央が自らの文体を禁欲し、その多くを事実と原文に語らせながら、樋口一葉、国木田独歩、田山花袋、等々の明治の(というより、我らの同時代の)文人群像を、二葉亭四迷という「真面目で、粋で、頑固で、多情で、野暮で、そのうえ衝動的なくせにどこか、いわば岩のごとき優柔不断な性格を持つ」巨大な矛盾を抱えた人物を太い軸として、人間的な交友関係を横糸に、経済事情を縦糸に、近代日本の屈折点とともに縦横に描きだした。とりわけ、明治四十年頃の夏目漱石との「淡い交流」を綴った文章は秀逸。この本はけっして読み急いではいけない。

あのころ、私たちはおとなだった
あのころ、私たちはおとなだった
【文春文庫】
アン・タイラー
定価 840円(税込)
2003/7
ISBN-416766139X
評価:C
 二桁以上の人物が入り乱れるパーティ・シーンで、一人一人のキャラクターをきちんと書き分けながら、ヒロインが物語にしめる位置関係やその心理の襞まであますところなく読者に伝える筆の冴えはすごい。ストーリーの展開が流暢で無理がなく、収拾のさせ方も堂に入っている。噂通りの凄腕。ただ、いかんせん登場人物に魅力がない(あくまで、私にとって)。がさつで自分勝手で他人の都合などお構いなし。ひたすら自分のことにかまけている。多かれ少なかれ誰でもそうなのだから大目に見てもよさそうなものだけれど、大目に見ることができない。「愛すべき」凡人の凡庸な人生談義に耳を傾けるほど暇じゃない。「人生分岐譚」としての結構にも快感がない。(「アン・タイラ−フリーク」の平安寿子さんが解説で「西洋落語」と書いているけれど、落語の芸にはそれが成り立つ文化の共通基盤というものがあって、私はその基盤を共有していない。それだけのことかもしれません。でも、いったんハマったら病みつきになるでしょうね。)

ギャングスター
ギャングスター(上・下)
【文春文庫】
L・カルカテラ
定価 (上)700円(税込)
    (下)620円(税込)
2003/8
ISBN-4102009116
ISBN-4102009124
評価:A
 死にゆく老ギャングの病室で深夜、若い男と初老の女が語り合う過ぎ去った百年の、三代にわたって繰り広げられた「自分の人生を自分で生きる男」の物語。それは、いつかどこかで観た有名無名の暗黒映画から切り出された印象的なシーンが、モザイク状に連なって紡ぎ出す凄惨で壮絶で悲哀に満ちたエピソード群のようだ。あるいは、意識不明の老ギャングの最期、悔恨と受容の苦さに縁どられた大いなる赦しの時に訪れた、鮮烈なフラッシュバックの奔流だったのかもしれない。そして、物語の結末で女の口から明かされるもう一つの真実。ほんのわずかな構成上のミスがすべてを致命的に損ないかねない、危うい緊張をはらんだ超絶的な語りが素晴らしい。

沈黙のゲーム
沈黙のゲーム(上・下)
【講談社文庫】
G・アイルズ
定価 (上)1,020円(税込)
    (下)980円(税込)
2003/7
ISBN-406273785X
ISBN-4062737868
評価:B
 陰謀うずまくアメリカ南部の保守的な街。その暗部に立ち向かう男の無謀とも言うべき勇気。父と子の二代にわたる復讐の物語。失われた恋の記憶と新しい感情の予感。腐った官能と清新な性愛。雪中の冒険譚。かつての恋人と敵味方になって弁論戦を闘う法廷サスペンス。これらの趣向すべてを一つにおしこんだ、なんとも贅沢な作品で、ストーリーの展開とともに複雑にからみあう素材群を手際よくさばく手腕は並ではない。起承転結の転、序破急の破までは、ひさしぶりに夜を徹する感興を味わった。でも、かつての恋人との絡みが続き、新しい女の影が薄くなっていくあたりで疑問符が点灯する。(これには、新旧二人の女性のどちらにより魅力を感じるかという読み手の側の事情が反映している。)そのあげく明らかにされた謎に説得力がないし、復讐譚としての快哉にも欠ける。詰めを急がなければ、文句なしの傑作だったと思う。(読み終えた時点ではA評価〔頁措く能わずのドライブ感あり〕だったのですが、『ギャングスター』との差をつける意味でB〔ドライブ感はないが悪くない〕に変更。気分としては、限りなくAに近いB。)

五輪の薔薇
五輪の薔薇(1〜5)
【ハヤカワ文庫NF】
チャールズ・パリサー
定価 840円〜1050円(税込)
2003/3〜7
ISBN-4150410321
ISBN-4150410356
ISBN-4150410380
ISBN-4150410402
ISBN-4150410410
評価:A
 これはもう「長さ」の勝利と言うほかはないですね。たっぷり夏休み二日分の時間を費やし、総数80人超の人物(折り込みの「五十音順登場人物表」がなかったらたぶん途方に暮れただろう)が文庫本五冊二千頁超にわたり血縁、因縁入り乱れて糾う雄編を一気読みして、物理的な「長さ」をもってしか表現できない物語的感興というものが確かにあると実感させられました。私利と陰謀と裏切りにまみれた悲惨な出来事がジェット・コースターのようにこれでもかと繰り出され、さてようやく復讐と正義の時を迎えたかと思うと、「シャレード(芝居)」に絡めとられた「人生の目的」をめぐる主人公の内省が、シンプルな物語世界の進行を突然緩慢なものにする。数世代を遡っての「デイヴィッド・コパフィールド式のくだんないこと」((c) ホールデン・コールフィールド)の奔流は、ほとんど読者の記憶力の容量を超えている。このあたりの過剰と転調を、小池滋さんは小説技法ともからませて「ポスト・モダン的小説」と表現しているのでしょうが、それとてやはり「長さ」ゆえの効果にほかなりません。物語世界に溺れる、というより淫する体験は、ケン・フォレットの『大聖堂』に読み耽ったいつぞやの盆休み以来のことで、あの見事な中世物語ほどの深い愉悦はなかったにせよ、この英国版人形浄瑠璃の世界には、時間を忘れたっぷりと堪能させられました。

蘭に魅せられた男
蘭に魅せられた男
【ハヤカワ文庫NF】
スーザン・オーリアン
定価 924円(税込)
2003/4
ISBN-4150502773
評価:D
 英文で読むと(たぶん)自然な表現でも、それを日本語におきかえると鼻につくということがあります。たとえば、「わたしには恥ずかしいとは感じない情熱がひとつだけある──何かに情熱的にのめりこむことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ」という文章。だったら、蘭に魅せられた男ジョン・ラロシュの「驚くべき」世界のことをもっとじっくりと書き込んでくれよ!──と思わずつっこみたくなりますが、これなどほんの一例で、こうしたいかにも才走ったプロっぽい書き方がどうにも小癪な感じがして、どこかのマニュアルに忠実に従った文章構成を思わせられました。あつかわれている素材自体は、滅法面白いですね。メーテルリンクいわく、「植物の知性がもっとも完成度の高い、もっとも調和のとれたかたちで現われているのは、ランである」(『花の知恵』)。だからどうというわけではありませんが、蘭や蘭にとりつかれた人間のことについて書く側にも、蘭に拮抗しうる「完成度の高い、もっとも調和のとれた」知性が求められるはずで、少なくともコンビニで買えるような安っぽい知性ではだめです。

黒いハンカチ
黒いハンカチ
【創元推理文庫】
小沼 丹
定価 735円(税込)
2003/6
ISBN-4488444016
評価:A
 北村薫さんの作品をはじめて読んだときの、あの新鮮な驚きと読後の清冽な印象が蘇りました。なんといっても名偵役ニシ・アズマ(この古風なカタカナ表記がとてもいい感じ)の利発で可憐で、どこか「お茶目」(死語)なキャラクターが魅力。「その女性──小柄で愛敬のある顔をした若い女性、賢明なる読者は、既にお判りかもしれぬ、他ならぬニシ・アズマである」。この登場の仕方、というか燻し銀のようなユーモア漂う小沼丹の筆運びがいいですね。12の短編それぞれに違った味わいがあって、どれも忘れ難いものでしたが、個人的には「未完成」に終わった青年との恋の回想シーンが出てくる「十二号」と、ニシ・アズマの家族が登場する「スクェア・ダンス」が印象的。──『黒いハンカチ』が刊行された昭和33年は、松本清張の『黒い画集』が「週刊朝日」に連載されはじめた年でもあります。私はたまたま偶然、同時にこの二冊の本を読みました。いかにも対照的な両作品は、あいまってあの時代の雰囲気を伝えていたように思います。(といっても、あの時代のことを実感として知っているわけではありません。)