コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その6
「クリスティーの巻」

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装幀・中根良夫

 音羽館の店先の均一本で入手した児玉清さんの増補版『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫・07年2月刊)を読んでいたら、こんな一節にぶつかった。

〈超人気作家だったのに、まだ一冊も読んでいない作家がいる。誰あろう、かのA・クリスティだ〉

 本の虫だった児玉さんが、一冊も読んでいない理由は、そのエッセイをお読みいただくとして、ぼくもまた別のトラウマ(?)があって、クリスティー知らずのクチである。いや、まったく読んだことがない、わけじゃないけど......。

 いわゆる"本格"ミステリとは、疎遠のまま過ごしてきた大学の夏休み、生家でごろごろしているうち、手持ちの本が切れてしまい、下の弟の本棚を見ると、ポケミスの『そして誰もいなくなった』があった。さっそく引っこ抜くと、二階の六畳間に寝転がって読みだした。あたりが暗くなるまでに読みおわったが、とくだんの感想もなく、最後にトリックと犯人が明かされても、ふ〜ん、としか思わなかった。

 というのも、子どものころ、たとえば、CMをはさんで出題篇と解答篇に分かれた推理ドラマ《日真名氏飛び出す》をはじめ、探偵クイズ的な番組がなかなか盛んで、学習雑誌でも花盛りの観があって、けっこう熱中したものだが、すぐに謎解き部分には飽きてしまい、別の面白さを求めるようになった。小学生で探偵ごっこを卒業したといえるのかもしれない。そんなわけで、『そして誰も〜』に対しても、はなから真犯人を当てるつもりもなく、漫然とサスペンスを味わっていただけだから、猫に小判である。(それでも、若島正さんの「明るい館の秘密」の明晰な叙述トリック分析に接すると、いったい、おれはなにを"読んでいた"のだろうと、自分がほとほと情なく、猛省)

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『忘られぬ死』『エッジウェア卿の死』装幀・浜田稔/『オリエント急行の殺人』装幀・永田力/『愛国殺人』装幀・上村経一

 もう一冊が、『ABC殺人事件』だったのは覚えているが、いつだったのかも、どの版を読んだのかも、憶えていない。ともあれ、一読驚愕。いや、トリックに驚いたわけじゃない。そんな理由でわざわざ、他人を殺すか? という動機の問題だ。信じられず、怒りさえ感じた。こんりんざい、クリスティーなぞ読むもんか! てな具合。

 そんなこんなで、こんにちまで、クリスティー作品と縁がないままだけれども、逆に、親密な関係にあるのが、ポケミスの版元の早川書房である。その優遇ぶりに初めて気づいたのは、1976年、ハヤカワ・ミステリ文庫が発刊されたとき。それまで、ハヤカワSF文庫、ハヤカワJA文庫など、先行する文庫のシリーズが、ハヤカワ文庫SF、ハヤカワ文庫JAと名称が変わり、なんだか格下げされた気分になったものだが、それはさておき、ハヤカワ・ミステリ文庫の作者分類の筆頭が、クリスティーだった。たしか、初回配本の10点のうち、HM(1)がクリスティー、HM(2)がクイーンと続いていた。いまでは、「アガサ・クリスティー賞」を設け、現在102巻の「クリスティー文庫」を擁している点でも、明らかだが、その理由は、もしクリスティーなかりせば、ポケミスはおろか、早川書房すら、ありえなかったかもしれないからなのだ。

 演劇出版社として評価の高かった早川書房が、翻訳出版に事業を拡大した際、[世界傑作探偵小説シリーズ]も、そのなかにあった。ラインナップは──

1951(昭和26)年
  2月『第三の男』グレアム・グリーン(遠藤慎吾訳)
  2月『白昼の悪魔』A・クリスティー(堀田善衛訳)
  2月『三幕の殺人』A・クリスティー(田村隆一訳)
  3月『オランダ靴の秘密』エラリイ・クイーン(二宮佳景訳)
  3月『疑惑の影』ディクソン・カー(村崎敏郎訳)
  5月『木曜日の男』G・K・チェスタートン(橋本福夫訳)
  5月『オシリスの眼』オースティン・フリーマン(二宮佳景訳)
  7月『予告殺人』A・クリスティー(田村隆一訳)
  9月『殺人準備完了』A・クリスティー(三宅正太郎訳)→改題『ゼロ時間へ』
1952(昭和27)年
  1月『山荘の秘密』A・クリスティー(田村隆一訳)→改題『シタフォードの秘密』

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『白昼の悪魔』装幀・浜田稔/『ヘルクレスの冒険』装幀・上村経一


 ──と、10巻まで出したところで、シリーズはストップする。会社が準倒産に追いこまれたからである。詳しくは、本誌の連載で触れたので再説はしないが、その苦境にあって、かかえた在庫中、動きの良かったのが、このシリーズであった。とくに、点数の半分を占め、翻訳権を取って初訳となったクリスティーの『白昼の悪魔』『予告殺人』『殺人準備完了』、同じくカーの『疑惑の影』の霊験あらたかだったと思われる。かくして、起死回生の策として、ポケミスが企画されるのだが、逆にいえば、"本格"ファンが、早川書房を窮地から救ったといえるのかもしれない......。


*若島正さんの「明るい館の秘密----クリスティ『そして誰もいなくなった』を読む」は、〈創元推理〉1996年冬号が初出で、小森収・編『ミステリよりおもしろい ベスト・ミステリ論18』(宝島社新書・2000年7月刊)および若島正『乱視読者の帰還』(みすず書房・2001年11月刊)に収録されています。

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装幀・中根良夫

[資料篇]"ポケミス"刊行順リスト#4(奥付準拠)
1955(昭和30)年・上半期
  1月15日(HPB 163)『道化者の死』A・グリーン(衣更着信訳)
  1月15日(HPB 197)『死の月』S・ジェイ(恩地三保子訳)
  1月31日(HPB 193)『緑色の眼の女』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
  2月15日(HPB 137)『三つの棺』J・D・カー(村崎敏郎訳)
  2月15日(HPB 174)『火刑法廷』J・D・カー(西田政治訳)
  2月15日(HPB 191)『二巻の殺人』E・デイリイ(青野育訳)
  2月28日(HPB 132)『螺旋階段』M・R・ラインハート(延原謙訳)
  2月28日(HPB 186)『妄執の影』W・アイリッシュ(黒沼健訳)
  2月28日(HPB 198)『スペイン岬の秘密』E・クイーン(山本政喜訳)
  3月15日(HPB 155)『ローラ殺人事件』V・キャスパリ(小野ヨチヨ訳)
  3月15日(HPB 183)『幻の女』W・アイリッシュ(黒沼健訳)
  3月15日(HPB 188)『デリケイト・エイプ』D・ヒューズ(平田次三郎訳)
  3月31日(HPB 161)『象牙色の嘲笑』J・R・マクドナルド(高橋豊訳)
  4月15日(HPB 108)『カーテンの彼方』E・D・ビガーズ(西田政治訳)
  4月15日(HPB 129)『二月三十一日』J・シモンズ(桑原千恵子訳)
  4月15日(HPB 158)『黄色い犬』G・シムノン(永戸俊雄訳)
  4月15日(HPB 182)『死の時計』J・D・カー(喜多孝良訳)
  4月15日(HPB 190)『エッジウェア卿の死』A・クリスティー(福島正実訳)
  4月30日(HPB 112)『犯行以前』F・アイルズ(村上啓夫訳)
  4月30日(HPB 139)『チムニーズ館の秘密』A・クリスティー(赤嶺彌生訳)
  4月30日(HPB 181)『予告殺人』A・クリスティー(田村隆一訳)
  4月30日(HPB 184)『呪われた穴』N・ブレイク(早川節夫訳)
  4月30日(HPB 195)『殺人鬼』浜尾四郎
  5月31日(HPB 109)『影なき男』D・ハメット(砧一郎訳)
  5月31日(HPB 176)『僧正殺人事件』S・S・ヴァン・ダイン(武田晃訳)
  6月15日(HPB 110)『死の接吻』I・レヴィン(中田耕治訳)
  6月15日(HPB 130)『悪魔のような女』ボアロー&ナルスジャック(北村太郎訳)
  6月15日(HPB 172)『黒い金魚』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
  6月15日(HPB 177)『黄金の蜘蛛』R・スタウト(高橋豊訳)
  6月15日(HPB 196)『そして誰もいなくなった』A・クリスティー(清水俊二訳)
  6月30日(HPB 113)『古書殺人事件』M・ペイジ(中桐雅夫訳)
  6月30日(HPB 127)『死人を起す』J・D・カー(延原謙訳)
  6月30日(HPB 178)『風が吹く時』C・ヘアー(宇野利泰訳)
  6月30日(HPB 187)『吠える犬』E・S・ガードナー(大山功訳)
  6月30日(HPB 189)『毒』D・セイヤーズ(井上一夫訳)

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