『実像』秋山千佳

●今回の書評担当者●ときわ書房志津ステーションビル店 日野剛広

  • 実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実
  • 『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』
    秋山 千佳
    KADOKAWA
    1,870円(税込)
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「広島のマザー・テレサ」と謳われる1人の女性。行き場のない子供たちに無償で手料理を振る舞い、生活や更正を支援し続けている。メディアはその慈善活動を賞賛し、ここ数年での脚光は実に眩しい。しかし、脚光を浴びるその人、中本忠子の後ろには帰る家も居場所もない無数の「子ども」たちがいる。彼等と地元の人々は中本を、親しみを込めて「ばっちゃん」と呼ぶ。

 中本の元には常に「子ども」たちが集う。食事の力は大きい。空腹が満たされるだけで人は安寧を得て殺伐とした心情が穏やかになっていく。ただご飯を食べ、ばっちゃんと楽しいおしゃべりに興じる彼らの姿は、中本の自宅がどこよりも居心地のよい空間であることを物語る。

 逆に言えば彼らにとって家庭や学校は安寧の地ではない。虐待、不登校、非行、薬物摂取、そして暴力団との関わり...。小学生で覚せい剤を親から打たれた子、モヤシを盗んで飢えをしのいだ子...。終戦直後の話ではない。現代の話である。荒廃した環境で居場所を失った彼らを、自業自得、自己責任の一言で片付けようとするこの時代、それは偏見、差別へと安易に繋がっていく。しかし、その裏には必ず理由、原因、そして不幸の連鎖がある。中本忠子はそんな「子ども」たちを、何も言わずに受け入れる。

 メディアはその中本の姿を称え、彼女の活動はテレビ、新聞等で美談として広く知られることとなる。それは「広島のマザー・テレサ」という彼女のイメージが独り歩きを始める瞬間だった。

 謎は残る。それは中本のボランティア活動の動機である。「なぜここまでして...?」というのが誰もが抱く率直な疑問だろう。私たちにはとうてい出来ない慈善活動の動機は何か? 何が中本をそこまで駆り立てるのか? 著者 秋山千佳の疑問は私たちの疑問を代弁し、メディアの賛美だけでは浮かび上がらない、彼女の「実像」を探し求める旅が始まる。だがその道は困難を極めることとなる。

 中本忠子の人柄はどこまでも優しく慈愛に満ちており、マザー・テレサという呼び方は決して的外れだとは思わない。しかし、彼女は自身のこととなると心を閉ざしてしまうのだ。本人にとってみれば、今の活動こそが全てで自身の過去は本質ではないのだろう。しかし、本当にそうだろうか?

 本人が語りたがらないのだからそっとしておくべきではないかという批判もあるだろう。しかし著者がしようとしていることは、ただ人の過去を探りスキャンダラスに暴くマスコミの所業とは一線を画する。マスコミが祭り上げる"絵になる"イメージとは異なる、人の本質に触れていく作業を経て、私たちの本当に知るべき真実、問題の本質にたどり着く。それこそが秋山千佳の求める中本忠子の「実像」である。

 なかなか核心に触れさせてくれない中本本人に密着取材を続けることと並行して、秋山は中本と実際に触れ合う「子ども」たちの実情を描き、中本を取り囲む人々、一緒に働くボランティア、彼女のお陰で更生した元不良少年、そして親族と彼女の息子たちからの証言を集めることに力を注ぎ始める。「マザー・テレサ」と「ばっちゃん」の間に存在するイメージの乖離を埋めていき、中本の「実像」を浮かび上がらせることを試みる。この人々の姿ひとつひとつが、中本の活動がどれほど大変なものであるかを私たちに改めて突き付けてくる。一方で、私たちが絵に描いたような悲劇を想像すると、それもまた本質を捉えきれたものとはならない。そこに安直に美談を求める私たちへの戒めと、良い意味での肩透かしが見え隠れする。

 そして浮かび上がり始めたのは、1人の女性の悲しい真実であり、被爆による焦土から奇跡的な復興を遂げた広島のみならず、日本という国が置き去りにしてきたものである。

 しかし懸命の取材活動の成果から形を現した実像を、果たしてどこまで描いてよいものか、秋山は葛藤する。その葛藤さえも中本は優しく包み込み、その懐の深さと人柄に涙する。だがその人柄に思いを馳せながら、1人の女性に何もかも背負わせてしまった罪深さを負うべきは、事態を放置し続けた行政や美談ばかり求める私たちではあるまいか。人の実像など、わざわざ知らなくても良いことかも知れない。だが物語を美化することは実は楽で簡単で、本人ではなく誰かにとって都合の良いことなのである。

 真実にたどり着くことの困難さにあえて向き合う。そこから社会にも奥行きが生まれ、人にはそれぞれ事情があるのだというお互いを認め合う心。本にはそういう心を育む力もある。本書に触れたおかげで再認識できた。少しでも多くの方に本書を...。

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ときわ書房志津ステーションビル店 日野剛広
ときわ書房志津ステーションビル店 日野剛広
1968年横浜市生まれ 千葉県育ち。ビールとカレーがやめられない中年書店員。職歴四半世紀。気がつきゃオレも本屋のおやじさん。しかし天職と思えるようになったのはほんの3年前。それまでは死んでいたも同然。ここ数年の状況の悪化と危機感が転機となり、色々始めるも悪戦苦闘中。しかし少しずつ萌芽が…?基本ノンフィクション読み。近年はブレイディみかこ、梯久美子、武田砂鉄、笙野頼子、栗原康、といった方々の作品を愛読。人生の1曲は bloodthirsty butchers "7月"。