『蛇の言葉を話した男』アンドルス・キヴィラフク

●今回の書評担当者●ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美

  • 蛇の言葉を話した男
  • 『蛇の言葉を話した男』
    アンドルス・キヴィラフク,関口涼子
    河出書房新社
    3,960円(税込)
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 何のきっかけか忘れたが、昔上司が「人生の岐路って言うけど、その時は分らなくて、後からそうだったって気付くのよね」とふと言った。その時はそんなものかと聞き流したものの、何か一歩を踏み出そうという局面で思い出す。今までと違うことをしようとするとき、正解か不正解かの二択のように思えて失敗を恐れがちだが、人生がそんなに明瞭なはずがないと考えて自分を納得させるのだ。

 エストニアの作家アンドルス・キヴィラフクの『蛇の言葉を話した男』は「話した」という過去形から想像できるように、主人公レーメットの回想の物語だ。

 昔、人は森に暮らし、蛇の言葉を話した。蛇の言葉で話しかけると、動物は食物としてその命を差し出し、女たちは熊と恋愛を楽しんだ。

 人々が、蛇の言葉を忘れたころ、レーメットの母は畑を耕して生活していた村から姉と彼を連れて森に戻る。今や森で生活するのはわずかな人々で、その人たちも森を捨て、村で畑を耕すことを選ぶようになる。村に住む人は、キリスト教に帰依し、森の生活を野蛮なものと蔑んだ。一方で森に残った人も、「いにしえ」の生活に固執するあまり、排他的で非人間的な生活をしている。

 森に戻る前に父を亡くしたレーメットは、父親代わりの伯父に慈しまれ、蛇の言葉を教わって森との豊かな関係を築く。けれど、人間の世界では村にも森にも居場所を見つけられない。

 レーメットの眼を通すと、思想や文化という名目で為される自分と違う他者への不寛容さが滑稽に思える。伝統や進化という言葉で飾っても、進化は一番新しい今で、伝統は少し前の今の積み重ねでしかないからだ。

 やがて伯父が死に、唯一の手本を失ったレーメットは思想ではなく、自分の感覚を頼りに、個人との関係から自分の世界築こうとする。しかし、運命はその僅かな絆すら奪う。絶望したレーメットは、自分に牙を剥く人間の世界に暴力で立ち向かうが埒が明かない。そして、謎の森人メーメより伝説のサラマンドルの番人を引き継ぎ、姉や森の知り合い達が亡くなって、自分の知る世界が閉じてゆくのを見守る。というとなんと暗い物語だろうと思うかもしれないが、そんなことはない。

 一つの世界の終わりを感じさせる小説はなぜこんなにも静かで切なくて面白いのだろう。それは、読書することで、避けようのない筋道であってもその豊かさや複雑さを知るからだと思う。閉じてゆく世界が内包する物語が魅力的で何度も読みたい一冊だ。

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ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
東京生まれ。2001年ジュンク堂書店に入社。自分は読書好きだと思っていたが、上司に読書の手引きをして貰い、読んでない本の多さに愕然とする。以来読書傾向でも自分探し中。この夏文芸書から理工書担当へ異動し、更に「本」の多種多様さを実感する日々。