『王とサーカス』米澤穂信
●今回の書評担当者●さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
10年前のあの日──
太刀洗万智は、日本という〝非日常〟へとやって来た少女と出会った。
今回紹介する『王とサーカス』の前日譚である『さよなら妖精』は中東の紛争地域から来た少女が、祖国に戻るまでの数ヶ月のあいだ、平和な日本という非日常のなかで出会った不思議の数々を描いた作品だった。
少女が帰国してから10年が過ぎ、太刀洗は記者になっていた。少女にとっての日常を理解するために。
2001年の6月、太刀洗がネパールに行ったのは海外旅行の特集記事を書くためだった。しかし王宮で王族殺害事件が発生し、ネパール国内は一気に緊張が高まる。
そんななか、王宮内部の情報を得ようと接触した兵士が殺されたことで、彼女は事件に巻き込まれ、記者としての信念を問われていく──
米澤穂信はデビュー以降、「日常の謎」というジャンルの作品を発表していた。殺人の起きない、日常生活で出会った些細な、それでいて強烈な印象の謎を解き明かすものだが、『さよなら妖精』は日常の謎でありながら日常の謎でないジャンル──アンチ「日常の謎」=「非日常の謎」といえる作品だった。
そして、この『王とサーカス』はアンチ「非日常の謎」だといえる。
偶然訪れた地での歴史的な大事件を記事に。そう思いながらも、取材対象からの「お前の信念の中身は何だ」という問いかけに彼女はうまく答えられない。
相手からの「悲劇は楽しまれるという宿命」にあり、「自分の身に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ」と主張する声に、記者としての信念は揺らぎ続ける。
この主張には見覚えのあるミステリファンもいるはずだ。
ミステリ史上に残る記念碑的──いや、墓碑銘的な傑作である中井英夫『虚無への供物』のなかで、洞爺丸の事故、聖母の園の火災、そして氷沼家殺人事件そのものについて、犯人は叫ぶ。
「物見高い御見物衆」は「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺める」と。
1964年に発表された『虚無への供物』はそんな問題を提起して終わるが、その問いを真っ正面から受け止め、作者なりに回答しようとしたのが『王とサーカス』であるように思える。
本書では最終的に、王族殺害という非常事態にありながらも、日常を日常たらしめているもののために、太刀洗は記者として窮地に陥る。非日常を日常として受け入れざるを得ないものが彼女に立ちはだかるのだ。
それでも。
真相に打ちのめされ、後悔にさいなまれつつも、彼女は自身に潜む信念の核を見つけ、はっきりと言葉にする。
10年前の、友人の思い出を抱えながら。
1991年。少女を通して異国の日常を知った太刀洗は10年後、自分とは異なる日常を生きる人々と再び出会った。それなら、さらに10年後、彼女はこの日本で、新たな災害に見舞われたこの東日本で、いったいどんなひとと出会うのだろう、そんな妄想が僕の頭から離れない。
10年前のあの日──
非日常への扉はここでも開いてしまったのだから。
ネパールを去ろうとする太刀洗に対し、住民から最後の言葉が投げかけられる。「また来て下さい」、と。そういえば異国から来た少女も「観光に来て下さい」と言い残していた。
『新装版 さよなら妖精』のために書き下ろされた後日談的な短編がある。
日本を発ち、紛争という日常──僕らにとっての非日常──に戻った少女は戦禍が近づいてくるのを感じながらも、自分に言い聞かせる。
「こんなときだからこそ、喜ばしいことは喜ばしく、かなしいことはかなしく、日々の営みをあるべきように送らなくてはならない。
おそらくそれこそが、この現実に抗うただひとつの方法だ」
日常をあるべきように過ごすこと。
その先に非日常からの出口があると、少女は信じていた。
僕も、そう信じている。
- 『文字渦』円城塔 (2021年2月18日更新)
- 『メダリスト』つるまいかだ (2021年1月21日更新)
- 『Zの悲劇』エラリー・クイーン (2020年12月17日更新)
-
- さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
- 1983年岩手県釜石市生まれ。小学生のとき金田一少年と館シリーズに導かれミステリの道に。大学入学後はミステリー研究会に入り、会長と編集長を務める。くまざわ書店つくば店でアルバイトを始め、大学卒業後もそのまま勤務。震災後、実家に戻るタイミングに合わせたかのようにオープンしたさわや書店イオンタウン釜石店で働き始める。なんやかんやあってメフィスト評論賞法月賞を受賞。